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終章 里山 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 北国に春が訪れた。うらうらと陽が照り、田からすっかり雪が融(と)け去った。土は黒々と湿って広がり、畦(あぜみち)一面に小さな芽が吹き始めた。周りを囲む里山の恵みを受け、今年も、田畑は豊かな実りを約束するに違いなかった。田を起こす前、村には静かな時が流れていた。聞こえてくるのは里山に囀(さえず)る鴬の音と、時折耳元をかすめる穏やかな風のささやきだった。

 長閑(のどか)な田園で、子供を連れた村人があちこちに見えた。蕨(わらび)、山独活(​やまうど)の薹(ふきのとう)、こしあぶらの新芽など、春の野草を採ってきた者が辞儀を交わして通り過ぎてゆく。これから始まる厳しい労働の季節を前に、ひとときの幸せが里山で営まれていた。

 春の一(いちじつ)、秋田縣亀田最上町、妙慶寺前の集落で、一人の老(ろうや)が畔(あぜ)の切り株に腰を下ろしていた。とうに還暦を過ぎたのだろう、薄くなった頭髪と皺ばむ首筋によって、文政の生まれと見えた。

 遊ばせている三人の孫のはしゃぎ声が甲高い。皆、健やかに育って元気に遊び回り、葉に止まった天道虫を捕(つか)まえ、蓮華をむしって髪に挿し、幼い生命力を発散していた。田に芽吹いた草と同じく生き生きと活動していた。

 老爺はにこやかに孫を見守りながら、妙慶寺本堂の大屋根の向こうに雪をかぶった鳥海山を見つめた。左には岩城山、この地で親しまれる丘ほどの低山だった。

 故郷の風景は何を見ても良い。老爺の過ごした過去のできごとが現在の風景の上に、時を貫き幾重にも重なって見えた。故郷の現(いま)を眺めれば故郷の過去(むかし)を見ることができる。年寄の楽しみだと思った。孫が元気に遊ぶさまを見れば往時に重なった。

 この頃の子供は昔と比べて死ななくなった。以前、痘瘡は罹(かか)らずには済まない病だった。流行によっては、痘瘡に罹った子供が、四人に一人は死んだものだった。老爺は、幼くして死んだ幼馴染を今でも指折り数えることができた。それは随分の数に上った。

 毎年、子供が亡くなり、親は泣きながら、お天道さまにお返し申しあげまする、と言って弔(とむら)った。子供は四、五歳になるまでに門をくぐらなければならず、四人に一人は門を通してもらえない。これが生きるということであり、避けては通れない決まりだった。

 老爺は妙慶寺の仁王門を見て、己が腕白盛りの頃、妙慶寺さまに見知らぬ老人が移されてきた日を想い出した。本堂の裏手、境内南面の妙慶寺山の丘の下に、良質の水の湧く井戸があって、近所の家々から汲みに来た。少し前から、井戸小屋のすぐ隣り合わせに小屋ほどの小さな家が建てられ、その老人が住み始めたことをはっきり憶えていた。

 当初、父から固く言われた。

 ――井戸小屋の爺(じじ)さまに関わってはなんね

 偉いお人だが罪を着て押し込めになったと聞いた。普段からその爺(じじ)さまは天鵞絨(ビロード)の黒襟をかけた黄八丈の法(​はっぴ)を羽織り、どことなく品があった。かつては相当に偉い人だっただろうと子供心にも納得したものだった。

 押し込めと父は言ったが、閉じ込められているわけでなく、近くを散歩することも自由、近所の大人と立ち話を交わす姿も自然だった。そのうち、爺(じじ)さまの家に上がり込む村人も出て、手習いを教わっているのが見えた。

 爺さまは黄色の縁(ふち)の眼鏡をかけて本を読んだ。子供には目の周りの奇妙な枠に見えて、皆で、口を押えて笑いを堪(こら)えた。

 小屋は狭く、九尺二間(くしゃくにけん)、四畳半一間に台所と土間が付いただけの粗末なものだった。時に、何を言っているかわからない不思議な呪文が聞こえてくることがあった。腕白どもは、興味津々、中を覗き込む内に、次第に爺さまと仲良しになった。 

 ――菓子ば、やれればよかとやけど……

 爺(じじ)さまは、すまなそうな顔をしながら子供に歌を歌ってくれた。

 

     赤(あっか)とばい 金巾(​かなきん)ばい

     おらんださんから 

     もろたとばい

 

 この歌詞と節回しが可笑しいやら、面白いやらで、爺(じじ)さまは子供達から大の人気となった。時に、仲良く連れ立って遊びにくる兄妹を二人一緒に抱き上げ、あっかとばい、と歌ってくれることがあった。

 爺(じじ)さまから何度も何度も歌ってもらってすっかり覚え込み、しばらく、この村の子供たちは、あっかとばい、と歌って歩いたものだった。爺(じじ)さまが子供にせがまれて、次の歌を教えてくれた

 

     ひこやまのうえからいづるつきはよか、こんげんつきはえっとなかばい

 

 これまた大人気となった。

 村人からも人気があって、大勢の人が手習いを教わりにきた。爺(じじ)さまは丁寧に教えてくれるらしかった。

 いつも遊んでいた幼馴染の女の子が痘瘡で死んで、その子を連れずに爺(じじ)さまのところに遊びにいったときのことだった。爺(じじ)さまは、その子が亡くなったことを知ると、がっかりと力を落としてしゃがみ込み、盛んに何かを呟(つぶや)いていた。耳を澄ますと、

 ――さじゅうろう、たけ……

 と聞こえ、

 ――おすぺんなやくにが……

とも聞こえた。爺(じじ)さまは悲しそうで、悔しそうで、時々、地面を拳で打っていたのを不思議に思って見つめたのを想い出した。

 ――爺(じじ)さまは子供さ死(す)ぬのが辛(つれ)えんだ

 子供心に思ったものだった。

 そんな爺(じじ)さまは、しばらく村の者と仲良く暮らして居ったが、天保九年(一八三八)七十歳で死んだ。  (くに)に帰りたがっていたらしい……

 

 孫が菓子をねだる声で、老爺は我に返った。

 ――そんたごどもあったのぢゃ

 と思い、塩豆を数粒ずつ孫にやった。

 ――一昨年がら痘瘡流行(はや)ってららしい。今年になっても死者増えでらど聞いだ。九年前の大流行では三万人も死んだらしいど聞いだが、今年は、そいだげ酷(ひど)ぐはながるべ。

 なにしろ、御一新この方、新政府の御達しで牛(べご)の痘瘡を、植(う)え疱(​ぼうそう)する者が年々増えた。孫には、三つの時に受けさせたから一安心だ。最近では牛痘苗(​​べごのとうなえ)が不足し受けられない者が増えているとか。老爺は昔を想った。

 そろそろ帰ろうと腰を上げ、孫の手を引き家路についた。夕陽を浴びて眩しそうに眼を細める老爺の顔には痘(あばた)があって、片眼だった。幼少の頃、なんとか生き延びた証(あかし)だった。夕暮れの太陽が海の向こうに傾いていた。 

 

 

 

 

 

 

                               

​                                                      (完)

   佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』終章「里山にて」無料公開版)

 

 

 

 

 

 

 

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 種痘に情熱をかけた多くの医師は、地道に活動し、人々を痘瘡から守ったという医師らしい達成感を覚え満足した。大坂で除痘館を設立した緒方洪庵は、牛痘種痘を金儲けの種にしてはならないと固く心に決め、弟子たちに厳しく言って聞かせた。それは徹底していた。

 玄朴の生き方は、また違った。玄朴らの作った施設は、井伊大老暗殺に始まる幕末の動乱と歩を合わせるように発展し、何回かの改組を経て明治に東京大学医学部となった。近代西洋医学を日本に根付かせる最初の本格的受け皿になった。

 それにしても、嘉永二年(一八四九)、日本で牛痘種痘が初めて成功するまで、ジェンナーの発表から五十一年を要した。安政四年(一八五七)八月五日、ヤパン号、後の咸臨丸に乗って、ヨハネス・ポンペ・ファン・メールデルフォールトという海軍軍医が日本人に西洋医学を教えるため長崎にやってきた。ポンペは日本にきて多くの印象を持った中で、

 

     どこの国でも、日本のように天然痘の痕跡のある人の多い国はない。

     住民の三分の一は顔に痘痕(あばた)をもっているといってさしつかえない

                                   (沼田次郎、荒瀬進訳)

 

と手記にしるした。

 日本人の痘痕(あばた)はポンペにとって特記するに値するほど高率だったらしい。牛痘種痘の始まる前は、ヨーロッパでも、似たような割合で痘痕(あばた)持ちが町を歩いていた。五十年たって、牛痘種痘の広まった国と、行われてこなかった国で、驚くほどの違いとなって表れたということである。

 幕末から明治にかけて多くの日本人がヨーロッパを訪れた。ヨーロッパ人から見て、日本人は珍奇な習俗を持つという印象には、痘(あばた)が大きく寄与した。痘痕の多い人たちという見た目が、ヨーロッパ人が口に出して言わないまでも、日本人の顕著な特徴だった。五十年前、自分たちもそうだったとは、殆んどのヨーロッパ人が思いもよらなかった。

 

 馬場佐十郎という青年が日本人で最初に牛痘種痘を知った。当時の最新医学情報だった。その後、佐十郎は二回、全く異なる状況で牛痘種痘の消息に触れた。この縁(えにし)によって佐十郎は是非にも牛痘種痘を日本に普及させたいと切望し、血の滲むような努力を捧げた。その熱望は姿、形を変えてオランダ人と日本人蘭方医に植え継がれ、時に政治的に利用されながら、幕末に牛痘種痘が実現することに遠くつながった。

 佐十郎の本領とした蘭語読解の体系は、天文方の蛮書和解御用を拠点に大きく発展した。これによって、蘭学界における蘭書の読み方、書き方が長足の進歩を遂げた。異国語文書の読解力は、蘭語、英語、仏語、露語に拡大して発展を続け、幕末になって蕃書調所に集約された。さらに開成所を経て東京大学に発展する系譜となった。大きく見た時、佐十郎は、東京大学の医学系にも法文系にもつながる不思議な縁(えにし)をもった。佐十郎は死後まで奇縁の人だった。

 

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「種痘の扉」あとがき
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