第四章 蟲喰まれる樹
安永四年(一七七五)八月二十日、田安家家老大屋遠江守明薫(みつしげ)に命が下り大目付に異動となった。後任に、川井越前守久敬が勘定奉行のまま兼帯となり、官料千俵を賜った。
意次は、大屋が明屋敷(あきやしき)となり果てた田安の家老職でいるより格の上がる職を喜ぶに違いないと思った。六十三歳の矍鑠(かくしゃく)たる老人に、もう宝蓮院の怒気を含んだ繰り言をなだめる役は終わったのだと言ってやりたかった。意次は、紀州閥の人間に決して悪くは計らわないとの信条をこの時も守った。
その夜、屋敷に戻った意次は、久々におふじの部屋でゆったりと寛(くつろ)いだ。おふじは意次の側に上がって十二年、今では十一歳の男児の母となり、神田橋御部屋様と尊称を受ける立場だった。今宵も二人の間で、楽庵の女将(おかみ)の話が出た。
「女将は息災じゃった。相変わらず、いい女での」
「さようでございましょうとも。女将と私は同い年にございます」
「それに、お知保の方もそうであろ。儂(わし)はお知保の方から松島を介してそなたを知り、太鼓判を得て、屋敷に迎えたのじゃ」
「昔のことにございます」
意次は、僅かの間合いがずれれば、楽庵の女将を側女に迎えるかもしれなかったことには触れなかった。
「それ以降、そなたには多くを助けられた。大奥のことでは言い尽くせぬほどじゃ」
おふじは大奥での活躍ぶりによって、知る人ぞ知る陰の有名人だった。
「いえいえ、何を申されます。それより、楽庵はいかがでございましたか」
「うむ。見世を開いて間もないが、奥ゆかしき設(しつら)えで風情を大切にしておる。富永町では四季庵より稍々(やや)小さき構えじゃが、四季庵は豪奢(ごうしゃ)で賑(にぎ)わいを重んじ、楽庵は閑寂風韻のたたずまいを貴び、それぞれ女将の気風が違う」
意次の品定めが続く。
「楽庵の女将は世慣れた物腰で、見事な采配じゃ。雅俗をわきまえ熟(こな)れた応接に危うげがない。石谷も川井も大層喜んでおった」
「それはようございました。石谷さまも川井さまも楽庵をお気に召されて、なによりにございます」
「そなたが普段より楽庵の女将を大切にするはもっともじゃ。何かと助けてもらうこともあろう」
「それは言われるまでもござりませぬ。女将は何事にも目が利きまする。高貴な御方の好みなどもよくよく御心得です」
「ほう、そうじゃの」
「わたくしには、もとより幼馴染。お知保の方様と三人で女子(おなご)同士、将来、必ず助け合うと契(ちぎ)った仲にございます」
三人が三人とも、苦しい時々に助け合って、それぞれ己(おの)が運を切り拓いてみせた見事な女性(にょしょう)たちだとあらためて思い返した。意次はその力強さを思って大いに頷(うなず)いた。
「御料理もおいしゅうございましたでしょ」
「そうよ。楽庵では生簀鯉(いけすごい)のあらいがでた。梅酢味噌で食すと爽やかな風味が何ともいえぬ」
「あれは暑い時分、さっぱりとして、おいしゅうございますわね」
「食したことがあるのか」
「契りある幼馴染ですから、昼間、招かれて伺ったことがあります」
意次とおふじの他愛もない会話は尽きなかった。意次は、ああした見世に悪(わる)うは計らわずに運上をとれるか、考える材料をえた。
十月二十六日、意次は屋敷の奥座敷で訃報を受けて呆然となった。川井越前守久敬、享年五十一。田安家家老に任ぜられて二か月、余りの早い死に意次の嘆きは大きかった。
――川井はただでは死ななんだ。見事な段取りを付けて逝(ゆ)いた
――あの策を言ってきたとき、すでに川井は体調がすぐれなかったのか。早い死を悟っておったのか
川井は、宝蓮院が容易に諾(うん)と言うまいと考え、楽庵の一席のあと、すぐに策を考え始めたものらしかった。田安家家老に就くや宝蓮院と話をして、数日後にはもう策を持ってきた。概略、こんな話だった。
宝蓮院の一番の気掛かりは、己の老後の暮らし向きだから、それさえ幕府が形を以って確実に約束してやれば、あとは、おおよそ片がつく。幸い、田安には妾腹ながら種姫が元気でいるから、この姫を将軍養女に迎えれば、宝蓮院は、よもや己の老後に不自由するはずはないと安心するのではないか。種姫が将軍養女となりながら、実家の嫡母の立場で難しいことを言う筈がない。賢丸(まさまる)をいつまでも白河邸に出そうとしない頑(かたく)なな態度も改まるのではないか。
策を聞き、意次は鮮やかな手立てに膝を叩いて喜んだ。早速、幕府内の手配を急がせた。
万寿姫様を喪(うしな)って二年余り、淋しい思いを懐(いだ)き続けてこられた上様が、この案に反対なさることはあるまいと思った。万寿姫様が逝(ゆ)いたのは十三歳、種姫様は今年、十一歳。
――はじめは姫様の面影が二重写しになってお悲しみが増すことがあるかもしれぬ。されど種姫様によって次第にお癒(いや)しを得られていくとお覚りになるに違いない
大奥にも賛成され速やかに縁組話が進んだ。来月朔日(ついたち)には、老中松平右京大夫輝高(高崎藩七万二千石藩主)を宝蓮院の許に遣(つか)わし、種姫君の養女縁組を正式に伝える手筈まで整った。
種姫を大奥に迎え入れて慶事がすめば、速やかに石谷を川井の後任に据え、田安家の一切を差配させて賢丸を北八丁堀の白河藩上屋敷に移せばよい。年内に穏便に運ぶ目処が立ったも同然だった。
――川井が遺(のこ)してくれた策のお陰じゃ
意次は、川井の数々の貢献を思い心から冥福を祈った。目を瞑(つむ)れば、川井はぞろっぺいを気取った微行(しのび)姿で嬉しそうに笑っていた。
*
安永五年(一七七六)四月十二日、亥の刻(午後十時)普段は真闇に深々とたたずむ江戸城で、この夜に限って松明(たいまつ)の照らす輪の中に幾人もの人影が見え隠れした。表御殿から降りてきた一団が中之門を出てくると、高々と焚(た)かれた篝火(かがりび)のなかに阿部鷹之羽の家紋が見えた。警護にあたる持筒組の与力たちが整列して見送りながら私語(ささや)いた。
「いよいよ始まった。御先陣は奏者番の阿部備中守様だ」
日光社参の先駆けを拝命してきた精悍で俊敏そうな大名を警衛の列が見守る中、阿部備中守正倫(まさとも)(福山藩十万石藩主)と供する数人の家臣は陣羽織姿で大手三之門を通って下乗橋を渡り、大手門外に待つ家来たちと合流した。隊列を作った阿部は先陣の栄誉を担い、旗三本、鎗四十五本、弓二十張、鉄砲六十五挺、馬上二十六騎を率いて粛々と神田橋御門に向かった。
子の刻(午前零時)、今度は奏者番安藤対馬守信成(のぶなり)(磐城平藩五万石藩主)が出発し、丑の刻(午前二時)、奏者番板倉伊勢守勝暁(かつとき)(安中藩一万五千石藩主)を終(しま)いに、奏者番三将が出払った。
寅の刻(午前四時)、朝まだきの中を老中松平右京大夫輝高(高崎藩七万二千石藩主)が発向。先備(さきぞな)えは、旗三本、鎗四十本、弓十五張、鉄砲五十挺、馬上二十騎で、二町を隔て自らの馬廻備(うままわりぞな)え馬上三騎、長柄七本、弓三張、鉄砲七挺に持鎗(もちやり)がこれに後続した。
老中は松平周防守(すおうのかみ)康福(やすよし)(浜田藩五万五千石藩主)、田沼主殿頭意次(相良(さがら)藩三万石藩主)と三将が続いた頃、すっかり夜も明け、初夏の爽やかな十三日の朝、四十八年ぶりの大行列が江戸の町を引きも切らず続々と北上を続けた。
行路は日光御成道(おなりみち)を取ると決まっている。大手門から神田橋御門、筋違御門を通り、加賀前田家上屋敷の前を過ぎて駒込追分で右の道をとって王子に到る。飛鳥山をかすめて、岩淵宿で荒川に架けた仮橋を渡り、川口宿から鳩ケ谷宿、大門宿を経て岩槻城で宿泊する。将軍の社参は行軍演習でもあり、戦の絶えてない世では、武家本来の姿を発揮する稀な機会だった。
家治の出達は辰の刻(午前八時)を過ぎた頃。昼前には岩淵宿の仮橋で荒川を渡り、川口の錫杖寺にて昼餉(ひるがれい)をとった。ここで今晩の宿泊を承(うけたまわ)る大岡兵庫頭忠喜(ただよし)(岩槻藩二万石藩主)の出迎えを受けた。先代将軍の側用人大岡忠光の嫡男である。
大岡は家治から言葉を賜ったあと、送迎準備を整えるため早々に帰っていった。歯を食いしばってでも藩挙げて歓待する覚悟のほどがその背に見て取れた。
その晩、家治は、岩槻城で大岡の手篤い歓待を受け、江戸城に留守する家基からは使者が派遣され肴(さかな)一種が献ぜられた。目的は肴にはない。遠征における本城と遠征軍の連絡の演習だった。
翌十四日、配下の者たちの厳重な警備の元、家治は快適に朝の目覚めを迎えた。卯の刻(午前六時)、岩槻城を発向。六日後には、帰路、再び立ち寄ることになっている。
この日の行路は、鹿宝村宝国寺にて休止し、幸手聖福寺にて午飯をとった。家治は、ここから権現堂河岸まで僅かな距離だと知っていた。半里とない。以前、意次と石谷と話をした折、利根川と江戸川分流点の境河岸(さかいかし)や関宿(せきやど)三河岸一円の重要な河岸であることを聞いていたから、この地にいると二人が進めた河岸再編の策がいよいよ身近に思えた。
聖福寺を出てわずか、幸手追分で日光街道に合流し幸手宿を通過した頃、右手に権現堂川が見えてきた。ここを北上し、利根川に沿って行くと栗橋関所に到る。房川(ぼうせん)の渡しだった。栗橋の堤の上で行列を休止し、家治は遠く左手に日光連山、右手に筑波山を望んだ。利根川の流れ来たる上流に渡良瀬川の合流箇所が見えた。
二つの滔滔たる大河を利用し関東各地と江戸との水運が成り立つ反面、大雨が降れば大きな水害を出すことを思った。
――意次よ、清昌よ、水利と水治を巧く計らえ。民と世の幸福がかかっておる
日光社参と関りのない水運のことが頭に湧いた。家治が、再び眼前の川面に眼をやると、多数の舟が舳先(へさき)を川上に向けて対岸まで並べた上を、桁板(けたいた)が敷き並べてあった。
――五十三艘の高瀬舟は一艘ごとに碇(いかり)と石俵で川底に固定されてあると聞いた
家治はしっかり作られた舟橋を見て、幕臣の力量を感じた。
――舟橋など、めったに作ることもあるまいに……
幕臣の采配のもとで近在の百姓が作った舟橋を見て、技が受け継がれているのを知った。家治は、単純に嬉しかった。岩淵の仮橋も房川(ぼうせん)の舟橋も、堅厚に作られ、騎馬は元より小荷駄でも安心して渡れると二月に伝えてある。その前提で行軍が計画されていた。
道中、何を見ても、誰と話しても、幕府の政策、幕臣のありかた、幕府の機能性など今後の課題を思わぬはなく、一つ一つ、己の頭脳を刺激するのが快い驚きだった。
今宵は古河城、明日は宇都宮城、十六日に東照宮に到着である。十七日、念願の東照宮社参を果たし、帰途につく。八泊の旅で学ぶことがいかに多いかと思った。
――此度の大典(たいてん)は、意次に頼み込んでから九年を要したのじゃ。よくぞ、挫(くじ)けずやってきた。 この間、倫子(ともこ)を喪(うしな)い、万寿(ます)姫を送り、悲嘆にくれた日々を家臣に励まされた
家治は、大河と山脈(やまなみ)の大観に眼をやり、田植えを待つ広大な武蔵の田に見とれながら、来し方行く末をあれこれ思った。大きな自然の中で、たとえ小さくとも人は生き続けなければならない。歩みを止めてはならない。そのために世をどう導くのか。
――政(まつりごと)を担う者が道を示さなければならぬのじゃ。そして、余はその策を持っておる
片膝立ちに脇に控える若い側衆は、家治があまりに長く、遠くを眺め黙考するさまを訝(いぶか)しむように家治を見上げた。
日光社參の費用は、御入用金(直接経費)十八万両、被下金(くだされきん)(下賜贈答費)四万三千両、計二十二万三千両。米三百六十三万三千四百四十人扶持、一人扶持五合として一万八千石。動員人数は供の大名、旗本から助郷の人足まで含め、延べ四百万人余、馬は三十万五千頭を要した。
幕府歳入の七分の一に上(のぼ)ったが、年四万両を倹約し五年をかけたので、幕府財政に大きな負担を強いなかった。倹約によって幕閣、幕僚が貴穀賤金の考えから離れ、幕府の財政改革に未来を見通す契機をえた。大典を無事終えたことで幕臣の間に自信が芽生えた。世は悪くなる一方では決してなく、将来は明るいと信じて一つの心になれたと考えれば、安い買い物だった。
佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第四章「蟲喰まれる樹」一節「未来を契る」(無料公開版)