安永八年(一七七九)三月十九日夜、家治は疲れ果て、中奥御小座敷(おこざしき)で褥(しとね)の上で凝然と項垂(うなだ)れていた。この日、亡き家基の霊柩を発引し東叡山寛永寺にて埋葬を終えた。家治は、冷厳で無慈悲な事実を受入れようと、このひと月のできごとを振り返り、数えきれない繰り返しにまた一回を重ねた。
二月二十一日、家治は、八日前に浜御殿で催した小普請組(こぶしんぐみ)百二十一人の乗馬観覧で、見事な馬術を披露した者に時服を褒賜(ほうし)し、機嫌よく日頃の精進練磨を褒(ほ)めてやっていた時だった。一人の小姓が真っ青な顔で家治の傍らに近寄って、恐る恐る小さく耳打ちした。
家治は弾かれたように立ち上がり、即刻退席した。何はさておき急ぎ西之丸に渡ったころ、家基が運びこまれてきた。西之丸はすでに通報を受け準備を整えていたが、大騒ぎになった。
家基は手ひどく落馬したあと、扈従(こじゅう)した池原雲伯に応急の手当を受け、ともかくも品川の東海寺に運びこまれたという。家治が見るところ、家基はかろうじて意識が保たれ短い受答えもできたが、時折、嘔吐し、痙攣が走った。
翌々日から、主だった大名が御気色(みけしき)伺いに出仕してきたが、それからのことは家治もよく覚えがない。家基はじきに痙攣がひどくなって意識が薄れ、二十四日巳の刻(午前十時)ついに帰らぬ人となった。
あの場のことは、激しい閃光が頭の中で打ち光り、記憶が乱暴に駆け巡るように感じて、思わず家治は呻(うめ)いた。家治は家基の枕元で恥も外聞もなく号泣した。抑えようもなく全ての感情が悲しみに変わり、全身の毛穴から飛び散った。
――愛する妻を喪い、二の姫を喪い、嘱望した跡継ぎを喪った。これほどの悲運があろうか、なぜ、かくも大きな不運に遭わねばならぬのか
悲嘆にくれたひと月だった。朝夕、膳の箸さえ取る気が起こらず、幕閣、近習が憂色を深めるのに気付いたが、どうすることもできなかった。
ある日、老臣が御側衆を引き連れ、家治の許に言上にきた。昔から、貴賤を問わず、子に先立たれる親は少なくない。上様は四十三歳、御高齢では更になく、この上、幾たびも御子のでき給うはずであると述べた。
「お心をお慰(なぐさ)めくだされ。そして悲しみに打ち沈むでなく明日の光を御覧くださりませ。次の御子をお授けくださりませ」
家治は、長い沈黙のあと己が静かに答えた言葉を覚えていた。
「余は子ゆえの闇に迷うておるではない。天下の重任をあずかりし身で、歳たけたる世子を喪えば、天下蒼生をいかがせんと思い煩(わずら)い、蒼生のために嘆くのじゃ」
この時は、老臣たちに強がりめいたことを言って下がらせたが、本心などではなかった。ひたすら悲しく、精も根も萎(な)え果てた初老の男の言葉だったと苦い自覚があった。
*
四月十日、奥医の池原雲伯もまた、嫡男に先立たれる不幸を嘆く父となった。良明(よしあきら)の死は唐突で、朝起きてこないので家人が見に行ったら息をしていなかったという。普段から健康そのもの、丈夫な体をもつ快活な息子だった。原因のわからぬまま突然に死んだと見るしかなかった。三十八歳の早すぎる死は、よくある不幸として葬儀が営まれ、家族はやむを得ないことと悲しんだ。
池原は、もともと熊本藩主細川越中守に扶持され名医の名が高かった。その噂を聞いた老中田沼意次の推挙を受け、安永二年、家治に拝謁を許された。池原には目の眩むような幸運だった。
翌々年に奥医に取り立てられ法眼に叙された。驚くような厚遇だった。安永五年の日光社参に扈従し、道中、家治の健康管理を任される一人となった。
順調に奥医の道を歩んでいたが、なんといっても、日光社参が終わった直後、家基の麻疹(はしか)を治療し軽く治めたことが大きな実績となった。
池原は、嫡男の葬儀、埋葬を終えた直後から、良明(よしあきら)の遺(のこ)した書付を整理し始めた。息子は雲亮と号し働き盛りの医師だった。そのうち奥医にも取り立てられるだろうと期待の声が高かった。良明が新しい処方でも考案していれば、その志を大切にして何らかの形で残してやりたいと思った。急逝した息子を悼(いた)む親心だった。
池原が薬種問屋からの仕入帳を何気なく繰(く)っていたとき、死の直前、息子が附子(ぶし)を仕入れたことに気付いた。
息子は古方四大家の一人、吉益(よします)東洞(とうどう)に私淑し、吉益東洞家方に記載された桂枝加苓朮附湯(けいしかれいじゅつふとう)などは巧みに使いこなしていたから、通常の附子購入は少しも不思議ではなかった。
附子は鳥兜(とりかぶと)の塊根を乾燥させた生薬で、利尿、強心、鎮痛の薬になる。その一方で、人を死に至らしめる強い毒でもある。桂枝加苓朮附湯にしても、桂枝湯を基本に茯苓(ぶくりょう)、蒼朮(そうじゅつ)、附子(ぶし)をごく少量加えた高度な方で、用いる附子の量はごくわずか、その匙加減が医師の力量だった。良明最後の附子購入から、さほど日が経過していないのに、余るはずの附子が薬箪笥に見当たらないのが気にかかった。
嫁に良明急逝の前の様子を聞くと、特に変わったことはなかったという。それでも、しばらく考え込んだあと、嫁はこう言った。
「二月の終わり頃から幕府御馬医方(おうまいかた)見習の桑嶋様にお会いすると言ってよく外出されました。亡くなる五日前もお会いになられ、夜更けに戻られたとき、少し様子が変かなと思いました。されど、さほどのこともなく、気にとめませんでした。ただ……」
嫁は少し言い淀んだ。
「ただ? ただ、何だ」
「その夜は調べ事があると書斎にお籠もりになられ、そこで御寝(おやす)みでした。亡くなるまでずっとそうでした」
池原は一言も漏らさずじっと聞いて、もしかすると、良明は附子(ぶし)を自ら致死量ほども服用して死んだのではなかったかと、一瞬浮かんだ思いつきをあわてて打ち消した。
良明に御馬医方見習と付き合いがあるのは知っていた。同年の生まれで、ある会合で漢方処方の薬効を聞かれたのがきっかけで、知り合いになったと経緯(いきさつ)を聞いたことがあった。
――息子は西之丸様ご逝去のあとも、御馬医方と時折、会っていたらしい
池原は、家基が落馬した様子を御側の者から聞き、波斯(ペルシア)馬が興奮状態に入って、急に棒立ちになったことが不思議だった。
――普段からおとなしく、すっかり西之丸様に馴れていた馬が、なぜ急に……。何かによほど驚きでもしたか
池原は家基を現場で応急治療し、城に帰って不眠不休で治療に当たった最中も、不審の念が浮かんでは消えたことを思った。偶然の原因で馬が暴れたその瞬間に、偶々(たまたま)、西之丸様がお乗り合わせになった不運だったのだと言い聞かせ、おかしなことを考えないよう自ら戒めた。
ただ、頭の片隅で消えない声が響いた。この馬が、あらかじめ、何らかの薬を飼われていたなら、些細なことで興奮したかもしれない。たとえば、麻黄(まおう)で興奮作用を惹起し、さらにワライタケの乾燥粉末でも与えておけば、幻視を見た馬が一気に精神興奮となって、棒立ちになることだって考えられない話ではない。
薬の知識を持つなら、考え付く者もいるに違いない。息子が御馬医方見習から、何らかの人為的手段で馬が暴れた可能性を相談されていたと考えれば、どうだろうと池原は思った。
――なぜ良明は死んだのだ。今は全くの突然死だと信じてはいるが、よもや、ある筋から自死を強要されたのではあるまいな。薬によって御馬が暴れるよう仕組んだ可能性を御馬医方に語ったという理由で……
おとなしい馬が急に暴れたのはなぜか。単に、偶然何かに驚き棒立ちになっただけなのか。附子が仕入れられ、余るはずの余りが見当らないのはなぜか。良明は最後に御馬医方と会ったその晩から一人書斎で寝をとり、五日後、朝に死んでいた。普段から頑強な体を持つ良明が夜間、突然死を起こすものなのか。不審を抱きたくなるいくつかの引っかかりを考えてみた。
仮に、良明が自然死したのではないのならと、一歩踏み込んで考えた時、恐ろしい堂々巡りに陥ったと悟った。御馬医方見習に会って話を聞いてみようかとも思ったが、池原はやめた。
――やめておけ、異様な妄想に取り付かれ、おかしな行動をとってはならぬ。我が家は奥医で法眼を賜った家なのだ
それ以降、池原は、妄念を全て断ち切って、良明没後の後始末に没頭した。まずは、良明の遺(のこ)した三人の女(むすめ)を二男子明(たねあきら)の養女にすることだった。
*
一橋の策謀家は、将軍世子の一件を聞いて、あまりのことに驚き、我が耳を疑った。初めの話では、家基が鷹狩りの帰路、東海寺に立ちより、もてなされて急に体調不良となって西之丸に戻ってきたとのことだった。単なる腹痛かと気にも留めなかった。ついで、どうも腹痛でなさそうだと聞き、あるいは、誰かが茶菓に毒でも盛ったかと、興味半分、にやりとしながらじっと見ていた。
家基は、どうやら落馬した怪我がもとで亡くなったと密(ひそ)かに聞いたときは言葉を失った。幕府は落馬を死因にせず、あれこれ、口にしてはならぬと命じたようだった。
――落馬では、死因に疑念の生まれる余地はない。まことに公明正大な死ではないか。将軍世子には、いささか不面目ではあろうが……
治済は死因の次に、世子急逝の意味を考えた。
――次の世子をすぐにでも決めねばなるまい。家治は、もう子を持てまいて
考えは即座に、候補者に飛んだ。尾張家当主徳川宗睦は四十七歳、世子治行(はるゆき)は二十歳。紀伊家当主德川治貞は五十二歳、世子治宝(はるとみ)は九歳。宗睦も治貞も、我が世子が将軍世子になれるなら、喜んで宗家に送り出すだろう。
御三卿家では、我が一橋家に豊千代七歳がいる。清水家当主徳川重好は三十五歳、病弱な男で実子を儲(もう)けず世子はいない。明屋敷になった田安家には少し前まで定信がいたが、今となっては将軍世子の資格はない。
―――あやつを養子に出させておいて本当によかった。あやうく有力な世子候補になるところだった
治済は、尾張家、紀伊家の世子が将軍世子の候補になるかもしれないと警戒する気持ちがあった。一方で、将軍世子には血の濃い御三卿家を優先させる考え方が幕府に厳然としてあることを思った。
――昨年のうちに田沼意致(おきむね)を一橋家家老に就任させておいて、これまた、よかった
それなりに幕府に働きかけた甲斐があったと思い、治済は笑みを浮かべた。
――将軍世子を決めるには意次が深く関わるに違いない。その甥を当家の家老に据えてあるのは何かと有利じゃ。巧くいけば意致を通じ意次の考えが密かにわかるかも知れず、策を巡らす好機となる
治済は、家基の死によって、これまで打った手が全ていい布石になったと喜んだ。
――なんと、我が豊千代は有力な将軍世子候補ではないか。うまくいけば一橋は盤石の家となろうぞ。まさに望みがかなう
治済は、抑えても抑えても湧き上がる笑みで満面に喜色を塗った。このような顔をしたことなど、これまで一度たりともなかったとは思いもしない。いかにして将軍世子の座を勝ち取るか、見事、策を練ってみせると誓った顔付きだった。
――それにしても、家基の落馬は単なる事故なのか。あやつが、儂(わし)の心の内を密かに読んで、何か計らったのではあるまいな……
治済は、報せを聞いて家臣に驚愕の体(てい)を装ったが、実は来るべきものがきたと思い当たる節があった。これだけは嚴に隠さなければならないと強く己を戒めた。
この年は、多くの者にとって悪しきことが続いた。暦では四月の初夏というのに、一日、二日は東海、関東、北国に大雪が降り、伊勢でさえ積雪が見られた。三日には江戸でひどく大きな雹(ひょう)が地面を叩きつけた。
大寒波のあと夏から秋にかけて、今度は大風雨が頻発し各地で洪水が相次いだ。八月二十四日、二十五日、尾張藩庄内川の大洪水はとてつもない被害をもたらした。
九月になると再び異常低温に襲われ、阿波にまで雪が降った。昨年の大島三原山の大噴火に続き、十月には薩摩の桜島が大噴火を起こし、灰は遠く大坂まで降った。同じころ、越後魚沼地方は大地震に見舞われた。
天災があまりにも続き、何か、天道の営みが大きく乱れたと思う者が増えるのではあるまいか、幕政、財政が積み上げた成果を台無しにするのではあるまいか、家治と意次のかかえる心配は尽きなかった。
佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第四章「蟲喰まれる樹」四節「再び芽吹かず」(無料公開版)