第四章 名残のほととぎす-公知-
一 放埓青公家 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む
この年も、卯(う)の花が真っ白な花房となってたわわに咲いた。その雄蕊(おしべ)が花芯をうす黄に見せて初夏を彩っている。姉小路(あねがこうじ)公知(きんさと)はこの花の清々しい風情を喜んだ。文久三年(一八六三)卯月(しがつ)四日朝、公知は座敷に座り、熱い薄茶を飲みながら庭の花木に目をやった。国事参政として学習院に出仕する前の静かな時間である。
今日は、土佐の武市半平太が京都を出達し帰国の途につく。武市にはすでに送別の歌を贈ってあった。
故郷に歸る錦の袖の上に
つつめや深き君が情けを
公知は、右近衛権少将に推任されて半年あまり。勅使副使となって武市とともに江戸に下向し、正使の三条実美を補佐した。大きな手柄をたて、昨年末に京都に還ってきて以降、活躍が目立っていた。三条を助け寧日ない働きぶりで、脂が乗り切って二十五歳の夏を迎えた。
昨年までは、土佐勤王党と長州急進派はともに協力し、穏当な競争と均衡があった。年が明けて、京都に乗り込んできた容堂の一睨(ひとにら)みに土佐勤王党が活動を停止する事態となった。武市も帰国の命を受けた。公武合体の立場に立って容堂は土佐勤王党の策動を許さないと決めたようだった。
京都では長州急進派が土佐の空隙を埋め、長州藩が唯一、藩をあげて勤王攘夷運動を展開する情勢となった。久坂玄瑞、寺島忠三郎らは、かなり強引な駆引きを実美、公知に仕掛けてくるようになった。
時に、公家側から、やり過ぎではないかと長州の策に抑制的な異論でも出ようものなら、久坂は、凄まじく反論し、何かしでかすのか、と勘ぐりたくなるような勢いでまくし立てることがあった。
「身の危険を感じることはあらへんか」
公知は、実美から小声で相談されることがあった。きっと、久坂と寺島に問い詰められることが多くなったのだろうと公知は想像した。土佐勤王党が退潮したあと長州藩の攘夷激派は勢い付き、特に実美に強い圧力をかけ始めたように見えた。実美にすれば、たまったものではないだろうと思った。
厳しい政治の駆け引きに日々追われるなか、公知は朝のこの時間を大切にしている。庭に目をやれば、初夏の風が吹き抜けるたびに穏やかに卯の花が揺れた。あたりは橘の爽やかで甘い香りが漂い、ここだけには平和で美しい時間が流れていると公知は思った。
つい先ごろまで鳴き盛った鶯も、はや老鶯となった。少し遅れて、いまでは杜鵑(ほととぎす)が忍び音を過ぎ、熟した鋭い声でしきりと啼いた。公知は多忙な合間にも歌を詠むことを心掛けている。この季節、歌題は杜鵑で、卯の花と橘を詠み合わせるのが和歌の常道である。それは千年の間、この国の住人が受け継ぎ育んだ美の定形だった。
杜鵑は、口なかからくちばしにかけて朱色が鮮やかで、血を吐いてでも啼き貫く鳥と見立てられている。血を吐いてでも自(みずか)ら信ずるところを語るのだと、公知は杜鵑を己の心象に重ね、何か歌を読みたいと思った。
開国し、異人の群れがこの国に入ってきた。この国が長い年月をかけて磨きあげた美しきものと凛としたる国のありかたが、どうにかなってしまうのではないかと思うことがある。
――杜鵑と卯の花と橘の美しく陶冶された情緒を失(うしの)うてまうに決まっとるで
異人をこの国にいれてはならない、異国の文物をこの国に入れてはならない、国を守らなくてはならないと思う。
――その気概を持てへん幕府をつぶさんといて、どないすんねん
杜鵑の啼き音にさえ、公知の頭は国事を巡って機敏に動き、ここ数日間の学習院の様子を思い起こした。
一昨日、将軍家茂は召しによって参内した。将軍後見職の一橋慶喜、前尾張藩主の徳川慶勝、京都守護職の松平容保らがこれにつき従った。帝(みかど)は小御所(こごしょ)で将軍を謁見し天盃と寮の御馬を賜った。鞍置きの馬が小御所の庭に曳かれ家茂の台覧に供せられた。そのあと、重ねて将軍を御学問所に召され御内宴を開かれた。
御学問所という帝の私的な場で始まった宴は親しく打ち解けたものだったらしく、帝が御自身で家茂に酌をしたと聞く。ここまでの優遇ともなると、帝が家茂を義理の弟として扱っていると思われた。それは、一方で、攘夷を推し進めるために攘夷激派が将軍を手荒く扱うことを帝が暗に戒められたと見えなくもなかった。
公知はこの様子を聞いて、将軍が付け上がらぬよう、夜になって禁裏から二条城へ帰館する途上に手練(てだれ)の者を配した。将軍の駕籠を襲って首を獲ろうとまでは考えなかったが、暗闇に乗じて将軍と幕府の心胆を寒からしめ、いい気になるなと警告しようと図った。
どういう筋からか、それを京都守護職の松平容保が察知し、事前に要所、要所、会津藩兵を手配して公知の計画を台無しにした。公知の攻め太刀を容保が見事、受け止めた格好で、容保がいかに油断なく構えているかがよくわかった。昨日学習院では、その話で持ちきりとなり、公知は苦笑するしかなかった。
それだけでない。議奏の阿野(あの)公誠(きんみ)が四月四日に予定された石清水八幡への行幸を十一日に延期するよう上奏し御勅裁を得たことが、昨日の午(ひる)すぎ、公知たちに伝わった。
このようなことをして只では済まないことを阿野議奏は知らないのだと、学習院では皆が言い募った。そうでなければ、今日こそ行幸の日となったものを、と公知は残念だった。
とは言え、昨日はいいこともあった。三条が京都守衛御用掛に任ぜられ、各藩から選抜された藩士を配下に従え、御親兵を一手に率いる体制が整った。それやこれや、昨日の動きを振り返り、卯の花を見つめながら、公知は頭の中で想いが歌の形にまとまるのをしばらく待った。文机にあった料紙をとると、癖のある字で一首書きおろした。
あけぼのの雲にほのめくひとことは
猶(なお)なごりある山ほととぎす
まだ言い足りないことを、咽喉(のど)を破ってでも言い通すつもりだった。公知は己の高い意気を一首にまとめ席を立った。今日も国事参政の勤めが待っている。
*
嘉永二年(一八四九)十二月十九日、公知は初めて任官し、従五位下を授かった。十一歳の冬だった。この日、大納言三条実万(さねつむ)の子、実美(さねとみ)も十三歳にして、同じく従五位下に叙された。
二人は幼少より深く交わり、常に行き来する仲のよい友垣だった。ちんまりと背丈の低いところが似通っていたが、それでいて、公知は色が際立って黒く、実美はまあ普通に白かったので、一対にして白豆黒豆と綽名された。
二人は顔が大きいためにいっそう短躯が強調され、並んで歩む姿は妙におかしみを誘って界隈では有名な子供たちだった。両家の間柄は、実美の伯母が公知の祖父公遂(きんすい)の後妻に嫁いだ縁戚であり、もともと七百年をさかのぼれば三条家と姉小路家は藤原北家閑院流の本家、庶流の親戚だった。
公知が姉小路家の家系に興味をもったのは、任官の前だったか、後だったか、いずれにしても、このころから折をみて、公知は父公前や祖父公遂に祖先のことを訊ねることが多くなった。姉小路家は羽林家と総称される六十六家の内の一つで、近衛少将、近衛中将の武官を務めたあと、中納言、大納言、参議へ昇ることができる家格だと知った。
その家が、あるときから断絶していたと聞き、公知は、その事情を知りたいと祖父にせがんだ。断絶に至った最後の当主は六代目、実広と言ったが、ともかく、南北朝の動乱期に南朝方に付いて非業の最期を遂げて以来、ずっと家は途絶えたままだった。
二百五十年余りも経て、縁戚だった阿野公景によって慶長十八年(一六一三)、復家が許され、新家扱いの姉小路家、家禄二百石があらためて立った。豊臣家が滅亡する二年前のことだった。
祖父公遂はこれだけの長くもない話を、苦虫を噛みつぶすように嫌々と語った。
「実広のような当主がでるさけ、家はつぶれてもうたのや」
吐き捨てるように言った。
「南朝などは仇花よ。楠正成の末路を見よ」
言ってから不機嫌そうに席を立った。
さすがに後醍醐天皇の最期を見よ、とは差控え、代わりに楠公(なんこう)を引き合いにだしたのだろう。公知は初めて聞く話よりは、祖父が実広を忌まわしい先祖であるかのように語ったことに驚き、この話を二度と訊ねてはいけないと悟った。
長じて、公知が家譜を繰(く)り古書をひも解いてみても、実広の履歴、事蹟はおろか、生没の年さえわからなかった。想像するに、南朝方に付いて家を断絶させた実広は愚かしい当主で、触れてはならない不名誉の先祖とされ、家が新たに立って家譜、家記、過去帖類を復活させた折、実広のことに敢えて触れないでおかれたようだった。公知は、これ以上どうしようもなく、いつしか、家をつぶし封印された先祖に興味を失った。
別の折、祖父公遂は上機嫌で、最初の妻の話を公知に語ったことがあった。ちょうど後妻の祖母が外出中だった。公遂が正室に初めて迎えた姫は節(せつ)といった。その父は平戸藩三十四代藩主の松浦静山(せいざん)で、江戸時代きっての随筆、甲子夜話(かっしやわ)、正続三篇二百七十八巻を著した文人大名だった。
この著作は説話集のようでもあり、風俗、珍聞、奇談、社会、宗教、歴史、嘉言およそ興味の至らざるはなく集められた噺の一大集成で、博覧強記、広範な知性が透徹する随筆の白眉だった。
「麿は通して読んだことはおへんのやけど、武家にはたいそう面白(おもろ)いもんらしいで」
祖父は、岳父に敬意を持ち、満更でもないようだった。
文事だけでない。松浦静山は武芸にも秀で、天下三勇士と称されたという。弓、槍、炮、馬、柔と武芸百般全てに秀で、なかでも心形刀流の剣術は奥伝を授けられた腕前だった。水戸の老公斉昭は松浦静山の姿を画工に描かせ、日々、敬ったほどの達人だったらしい。
話がこのあたりまでくると、公知は目を輝かせて、曽祖父の事蹟をさらに聞きたがった。甲子夜話よりは、心形刀流の話の方がずっとおもしろかった。
松浦静山は十七男十六女に恵まれた子福者(こぶくしゃ)で、節姫の妹、十二女の愛子は羽林家の中山忠能、家禄二百石の正室となって慶子を生んだ。慶子は宮中に出仕し安栄(あえ)の名を賜り、十七歳にして典侍(すけ)となって孝明天皇に側近く仕えた。慶子が十八歳で産んだ祐宮(さちのみや)は、いずれ天皇に即位するだろうと思われ、血筋の上で、祖母方の曽祖父を松浦静山とする再従兄弟(はとこ)にあたるというわけだった。
安政三年(一八五六)、父の公前が四十一歳で死んだ。翌、安政四年(一八五七)、年明け早々に、今度は祖父公遂が六十四歳で死んだ。三月に喪が明け、公知は十九歳にして家督を継いで十七代姉小路家当主となった。
口うるさい祖父が死んでからというもの、たがが外れた。公知は稚気旺盛にして怖いもの知らず。徒党を組んでは、悪辣盛りの日々を送った。貧乏公家の子弟はなんぼでもいたから不良仲間はたちどころに集まり、悪童の群れとなった。公知は、いくつもの如何(いかが)わしい集団と付き合いを持って放埓を尽くした。
怪しげな場所に出入りし車座を組んで飲酒に興じ気炎を上げたときは、多くの仲間が大酔を発し、見苦しいことになった。庶人は眉をひそめ、苦情が持込まれたこともあった。
賭け事に惑溺し、きわどい切所を切り抜けるすべも、いっぱしの顔をした頭領格におそわった。富籤(とみくじ)まがいの金集めを催し、危うげな銭に手を出す一団とも関わった。群れをなして卑俗の雑踏を徘徊し、肩で風を切って歩いた。気に入らない町人とみれば口論をふっかけ、詫び銭を取り上げた。官位ある身ながら、喧嘩をするなど何とも思っていないから、たちの悪い一団というしかなかった。
仲間には、親から口うるさく非行を咎められ、父子、親類の間柄がまずくなった者が多くいた。一団の悪(わる)は堂上の故老の訓(おし)えを頭からばかにしてかかり、訓戒を垂れようものなら冷笑で応じるのが常だった。
脂ぎったにきび面の不良公家たちは奸淫にはしり、乱行を引き起こすことも稀ではなかった。娘を慰みものにされた町人はひどく怨み、一団が来ると若い娘はさっと道から姿を消した。
家法の薬と称して怪しげな丸薬を押売りするのも日常茶飯の悪さだった。町人にしてみれば、貧乏公家の薬など効くはずのないのはわかっていたし、鼠の糞やら蜚蠊(ごきぶり)の粉末など何が調合されているか、わかったものではなかった。
売りつけられ、へたに断ろうものなら、家法の秘薬をけなしたと脅し立てられ、侘び銭をむしり取られるのに決まっていた。衆を頼んで言い立てるのが得意の連中だから、からまれたら厄介だった。
多くの公家は、喰って、排泄し、交わって子を成す、それだけだった。家芸に興味があって、和歌、音曲、香など夢中になれる芸事があればまだいい。ましてや学問などはまれな変人しか興味を持たなかった。
多くの青公家は、そんなものに励む気は起こらず、裏町で婀娜(あだ)な女に言い寄り、あぶく銭を手にいれ、おもしろおかしくやっていけばいいと考えていた。貧乏公家など、そんなものであると投げやりで怠惰な風が広まっていた。
佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第四章「名残りのほととぎす-公知」一節「放埓青公家」(無料公開版)
二 惰眠の目覚め 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログ参照 略年表を読む
先帝、仁孝天皇は、若公家の所業が目に余ることを常に気にかけていた。その一心で、若公家の風儀と倫理を回復させたいと学習院を設立した。学習院は内裏東辺の日の御門に面した公家屋敷地の一画にあった。公知の屋敷から五軒南だったが、公知を含め、悪童仲間はほとんど足を踏み入れなかった。
辛気臭い儒書など、御免蒙(ごめんこうむ)るしかなかった。このころ、学習院は当初の設立趣旨のとおり、純真な施設である反面、ごく限られた真面目者か変わり者が来るに過ぎず、ひっそりとしたところだった。先帝の悲願もたいしたことにはなりそうになかった。
公知ら若い貧乏公家の上に、放埓(ほうらつ)な日々が甲斐もなく過ぎていった。この無頼ぶりに、禁裏附の都筑(つづき)駿河守峰重から武家伝奏の東坊城聡長(ときなが)に苦情が寄せられた。堂上方の中に悪所に立ち寄る者がいるとの風聞があるので、適宜、御処置されたいという依願とも助言ともとれる申入れは、きっぱり否定するわけにいかなかった。朝廷でもよからぬ噂を聞き及んでいた。
朝廷は、一ヶ月の間、関係する筋に聞取りを行ない、幕府側の言い分と一緒に提出された風聞書に反論の余地がないことを知った。この者どもには他にも多くの不行状が明らかになったが、遊女買いだけをやんわり取り上げてきた禁裏附のやり方に抑えたところがあって、朝廷に配慮していることがわかった。朝廷として黙殺はできなかった。
安政四年(一八五七)九月三十日、朝廷は、内心やむなく、年齢と行状のひどさを考慮にいれて柳原四位と伏原新三位の二人を蟄居に処し、さらに二十一人の公家を閉門、指控(さしひかえ)に処した。閉門となった公卿のなかに、公知が入っていた。家を継いでから半年目のことだった。
閉門の処罰を受けて、公知は出歩く楽しみを奪われ怏々(おうおう)と楽しまない日々を送った。ある晩、心配して、三条実万(さねつむ)が姉小路邸にこっそりやってきた。実万は公知を座敷に座らせ、説教を垂れた。
「此度(こたび)は閉門ですんださかい、ええようなもんの、悪うしたら蟄居や家門断絶かてあるんや」
きつく叱った。実万にしてみれば、姉の嫁いだ家である。二度と不祥事を起こさぬよう、公知に厳しくよくよく言い聞かせなければならなかった。実万は、この年五月、内大臣に昇進したばかりの重鎮だったから、親類筋の不肖の若者を叱る役に相応しかった。実万の老熟した雄弁と頭上から圧するような迫力の前に、いかに生意気盛りの公知でも頭を垂れ神妙に説教を聞くほかなかった。
実万に手ひどく叱られ数日間、公知は思い悩んだ。己(おのれ)は家門に泥を塗ったことになり、この先、廃者(すたりもの)となるのかと不安と悔いが高まった。六代目実広が家を断絶させ、後世、家門の恥辱のように扱われてきたことが頭に浮かび、自分の身の上と二重写しになった。
実万は実万で、公知に説教したあと親類の子をいかに立ち直らせるか、あれこれ考えを巡らせた。公知の目を家柄に相応しい向きに変えさせなければならないことは明らかだった。
公知が閉門に処される前月、江戸の書肆(しょし)、玉山堂から「新論」なる二巻本が刊行されたことに思い至った。実万は、公知が閉門となった機会に、国のあり方に関心を向けるよう、この書物を用いることを考えついた。刊行本は高直(こうじき)なので、存じ寄りの者に手写させ公知に届けさせた。
「新論」の著者、会沢正志斎は水戸学の泰斗。渾身の気合をこめて筆をとり、文政八年(一八二五)、藩主徳川斉脩(なりのぶ)にこの書を献呈した。公知閉門から三十二年も前のことである。水戸学の精髄を掬(すく)いとったような尊王攘夷の烈烈たる思想の書で、近年、異国船が日本周辺をうかがう緊張感に裏打ちされ、国を侵される危機感が達意の文章に鳴り響いている。特に、執筆前年、英国捕鯨船から乗組員十二人が不法に常陸大津浜に上陸した水戸藩の大事件が執筆の直接の背景になっていた。
論の激烈なことから、斉脩はこの書の刊行を許さなかった。しかし、一読した門人たちは電撃のような衝撃を受け、仲間のうちで伝写され、次第に広まった。自ずと水戸藩を超えて静かに全国に流布し、読まれる先々で衝撃を与え続けた。
当時の思想家で「新論」の影響を受けなかった者はない。幕末に水戸を尊王攘夷思想の総本山たらしめた一書で、水戸こそが思想の中心ということになった。徳川斉昭が、押し付けがましく幕閣に物言いするのも、思想的な自信の裏付けがあったからだった。
会沢の思想は、海防策と尊王論とを一体として考えるところに特徴があって、天皇を敬うことが国を守ることにつながり、国を守るには天皇を中心に国が一丸とならなければならないと主張するものだった。海防攘夷策を軍事技術論だけから論ずるのではなく、天皇の至高性を血統論だけから論ずるのでもなく、天皇の至高性と国防攘夷策が、血統論と軍事技術論を通して互いに照応する思想だった。
文政から天保の時代にかけて、この思想は読む者に衝撃を与え、その脳髄に染みこみ、熟成し、世界を見る危機感と、会沢が「国体」と呼んだこの国のありかたの概念が渾然となっていった。あたかも地下水脈のように表立たず、しかし、長い時間をかけて広く土壌に浸透し尊王攘夷の根本理念になった。読み手の思索が自(みずか)ら熟す時間が与えられたためか、志ある日本人の血肉になっていた。
あとになって、攘夷即ち尊王である、尊王即ち攘夷であるという異なる概念の奇妙な混淆が激烈な思想力を持つにいたる機微は会沢の思想に胚胎されていた。なにも、孝明天皇が開国をお厭(いと)いあそばされたから攘夷だ、という単純なものではなかった。
本来、会沢の思想に倒幕の考えはいささかも交じっていなかったが、この論策をさらに突き詰めれば、倒幕の構想に至ることは当然ありえた。むしろ、ある契機(きっかけ)があれば、それは容易に、自然に、倒幕思想に到達するものだった。
このあたりの機微の故に、当時、水戸藩主が刊行を許さなかったのも頷(うなず)けた。朝廷、幕府が万万一にも戦うぎりぎりの切所では、朝廷を奉じよと、徳川斉昭が密かに家臣に言いおいたのも、この思想の行き着く果てのありかただった。
かつて、多くの若き思想家が会沢に教えを請うて水戸の地を訪ねてきた。このうち、真木和泉や吉田松陰のような特殊な傾倒をもつ少数の者が、次第に会沢の視座を超えて倒幕思想にたどりつき会沢流の尊王攘夷思想の発展形を形作っていった。その禁断の書が三十二年の時を経て、前月、江戸で上梓されたというのも何かの機縁ではあるまいかと実万は思った。
公知は苦労しつつも、どうにか新論を一読した。閉門処分にでもならなければ辛気臭くて読む気も起こらなかったはずである。十九歳の若齢でもあり、さほど学問があるわけでもなかったから、意味の通らないところが多かった。ただ、力強い律動的な文章によって何か強い印象を受け、国のおかれた危機にそれとなく気付いた。
公知は新論から影響をうけ、己(おのれ)がこれまで、雑踏と狭斜の巷(ちまた)で恥ずべき所業を繰返してきたことを省みるきっかけとなった。この書に触れてからというもの、公知は考えこむことが多くなった。
好き好んで家をつぶす者はない。姉小路家をつぶした実広という先祖は、やむにやまれぬ情熱から心を決し、天皇家の正統を守るため南朝に命を投げ出した忠臣のように思えてきた。この先祖は、なぜ、こうした情熱をかきたてられ、何を考えていたのか知りたいと公知は切に思った。
これまで朝廷において北朝が正統とされてきたが、水戸学は、実は南朝こそが正統であると教えている。もしそうなら、今上は北朝の流れ、正統ではないということになる。正統を定め、そうでないものを閏統(じゅんとう)として厳しく排除する思想を正閏論(せいじゅんろん)ということも初めて知って、これが公知の想像の縁(よすが)となった。
先祖の実広が南朝に身を投じたのは何を志したのか。家を断絶に至らしめてもいいと思うほどの何かを見たのか
「実は実広はんこそ真の忠臣やったんやあらへんのやろか」
不届きと思われた先祖を信じてみたい気持ちがいつのまにか芽生えた。事蹟がなにも伝わっていない先祖だけに、想像を仮託しやすかった。亡き祖父が聞いたら卒倒したであろうが、公知はこの先祖にあやかりたいとさえ念じ、尊王攘夷思想を懸命に学ばなくてはならないと奮い立った。
「これからは国事や。実広はんは、きっと、けなりい御先祖はんやったのかもわからへんで」
後年、公知は青春のほろ苦い思いを振り返ってこう詠むほどになった。
はかなしや ものもまなばで としつきを
あだにくらしし 身をいかにせん
実万の教育的な狙いはみごとに当たった。いや、薬の効きすぎたきらいがあった。
*
安政五年(一八五八)正月二十一日、老中堀田正睦は大雪の降る中、江戸を出達し、二月五日、京都に到着して宿館の本能寺に入った。ハリスとの交渉の結果、幕府が合意に至った日米修好通商条約を正式に締結するため、いよいよ、勅許を得ようと京都に上ってきた。
この時、前関白(さきのかんぱく)鷹司政通は七十歳の高齢ながらいまだ内覧の特権を許され、太閤という尊号を賜って朝廷を存分に仕切っていた。太閤とは、関白職を子供に譲った者のみに許され、前関白の上を行く称号である。鷹司はこの条件に合わないにもかかわらず、この称号を与えられたため、正当な太閤より価値が高いと言う者もいた。
内覧の権は天皇に上呈される書類を天皇より前に校閲できる特権で、これこそが平安の昔から王朝政治最強の権限だった。鷹司政通は関白を辞してなお至高の称号と最強の権限を与えられていた。
現職の関白は、二年前に鷹司から代った九条尚忠(ひさただ)だった。九条関白は、鷹司が依然、内覧の権を保持していることを面白く思わないのも当然だった。一年ほども関白職を務めていたが、そのうち拗(す)ねて、半年前から出仕しなくなり、この間、朝廷は太閤、鷹司政通によって主導されてきた。
太閤は、このたび起こった通商条約締結問題では幕府に勅許を与えたらよいという意見だった。これまでも和蘭(おらんだ)や唐山に交易を許してきたのである。
「そこに米国も加えたら宜しいがな」
驚く朝廷の面々を尻目に公言した。鷹司にしてみれば、鎖国こそは幕府の手前勝手な理由で行なった政策で、本来、朝廷は諸国との通商を許してきたという歴史的事実を踏まえた意見だった。元に復するのに憚(はばか)ることがあろうかという気分を持つように見えた。
帝(みかど)は異国との通商をひどく嫌った。そのため遠慮しながらも太閤を疎(うと)んじ始めた。帝は若い頃から関白鷹司政通の指導を仰いで成長したため、鷹司は師父ともいうべき存在だった。異国貿易の可否をめぐって議論しても、とうてい勝てる相手ではなかった。
堀田の勅許要請の上奏を前にして、帝はともかくも、条約締結に勅許を与えたくはなかった。異人を国に入れ通商を許すなど何ということであろう。鷹司とやり合うことにでもなれば味方が要(い)る。それは現職関白の九条尚忠(ひさただ)しかいなかった。
九条はこの時、六十一歳。五摂家当主のなかで鷹司政通、七十歳に次ぐ年齢の重きを備え、女(むすめ)の夙子(あさこ)は帝の准后だった。九条は帝の舅であり、堂々たる関白のはずだった。ところが、この人物には、昔からとかくの噂がつきまとっていた。
佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第四章「名残りのほととぎす-公知」二節「惰眠の目覚め」(無料公開版)
三 混迷に咲く花 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む
三年前のことだった。安政二年(一八五五)末、武家伝奏の三条実万と東坊城聡長(ときなが)がこっそり、京都所司代の脇坂安宅(やすおり)を訪問したことがあった。 九条の度を超した女好きは有名で、それが故に、朝廷が九条を次期関白に進めたい意向を幕府に打診するため、所司代にこっそり非公式に相談にきたものだった。
帝が、新しく竣工した御所にお移りになられたのは安政二年(一八五五)十一月二十三日のこと。帝が幕府に感謝と親近感を覚え、恩義さえ感じている頃だった。
そんな時だからこそ、九条を関白に据える案を幕府がどう考えるか、朝廷は知っておかなくてはならなかった。ともかくも、幕府の意に沿うのが朝廷の方針だった。
「九条公は、やらく噂の多い方であらしゃいますのやけど……」
三条は言いよどみながら、京都所司代から江戸の幕閣に九条公の行状を申し送るか否か、脇坂に極秘の質問を投げかけた。後で九条の行状を理由に、幕府から関白就任を論(あげつら)われたくなかった。
脇坂は、三条の微妙な質問に思わず苦笑が浮かびそうないわく言い難い表情になった。それでも、心を引き締め真剣な面差しを必死に保つかのように答えた。
「九条公のとかくのお噂、江戸へ申し送るつもりはござらぬ」
言下に否定した。そのあと小さな声で、噂はしかと承知している旨、付け加えた。脇坂の複雑な表情は笑いをこらえるのが苦しそうだった。
三条は、脇坂の回答によって朝廷は幕府に大きな借りができると覚悟した。実万は普段より脇坂と懇意にし、役儀を離れて個人の意見を極密に語り合える仲だったから、この種の打診がかろうじて可能だった。
これまでも、九条は関白職の回ってくるべき順番と時期を迎えながら、余りの女好きが障りとなって延々と関白になれずにきたことは、当然、両者の認識のうちだった。鷹司政通が三十三年間も関白職を独占できたのは優れた能力の故であるが、もう一つの隠れた理由は、九条の女好きと奇矯な性格のせいだと言って、言えないこともなかった。
「九条公のお人柄は、他人(ひと)とようけ異(こと)ならはるさけ、折には浮泡としたことを言わっしゃるでの」
九条の人物を苦しげに論評する三条の顔を見つめ、あいまいに首を縦に振る脇坂の顔が三条には負担に思えた。
九条公が参内した折、御局(みつぼね)の女官に言い寄り、宮中でさんざんに手籠めにしたことまでは脇坂も口にすることはなかろうと思いながら、三条は、己の言い訳交じりの話をじっくりと聞いてくれる脇坂に気圧(けお)されるような気分を持った。九条の女行状は、いろいろと下々に風評されていることであり、脇坂は、特段の地獄耳を発揮せずとも、容易に耳にするのだろうと思った。
九条公の御年齢、帝の舅に当たるお立場、九条家の家格、五摂家間の序列などを考えると、このあたりで九条公を関白にせざるをえない事情やらなにやらと、武家伝奏と京都所司代の密談は長く続いた。
こうして朝廷と幕府の、というよりも、三条実万と脇坂安宅の阿吽(あうん)の呼吸を踏まえて、己がかろうじて関白に昇進した事情を九条は、当然知らなかった。天皇は九条だけに内覧の権を与えることに不安を覚え鷹司にも内覧の権を維持させたため、鷹司は太閤の称号を得ることになった。九条が面白くないと思ったことも、九条自身に原因があるからだった。
九条は、禁裏に居(お)らなんでも支障ない関白と言われた。居れば居ったで、また女官の誰かが泣きを見るとまでは、誰も口にしなかった。おいおい、お腹立ちもおさまり、また出仕されるであろうと朝臣がのんびり構えていると、幕府が通商条約締結に勅許を願い出てきて、事情が一変した。
朝廷を仕切る鷹司太閤が開国通商に賛成の意見を持つため、帝は悩み、通商などを許してなるものかと思い、やむなく舅の九条に味方を頼まざるをえなくなった。堀田が京に上ってくることになって、九条は帝に頼まれ出仕を再開した。すねて不参を続けるどころではなくなった。
堀田の上京した二月上旬あたりまで、九条関白は帝の御意向に沿って条約反対を説き、一方の鷹司太閤は幕府の条約締結方針に賛成を唱え、勅許を出すべき否か、朝廷の意思はまとまりようがなかった。
ところが、驚くことに、二月中旬以降、九条の態度が一変して、幕府方の肩を持つようになった。彦根藩主井伊直弼が江戸に構え、配下の長野主膳義言(よしとき)に命じて九条を幕府方に取り込んだ。堀田が京都で苦戦していると聞き、井伊が側面から支援したのだった。九条とて、通商条約に反対を貫くほどの信念があるわけではない。それなりの金子(きんす)がばらまかれたに違いなかった。
すると、驚く間もなく、鷹司家諸大夫の小林良典らの粘り強い説得によって、今度は、鷹司が条約反対に考えを変えた。太閤と現関白が意見を正反対にひっ替(か)え、朝廷の皆が唖然となった。しばらくして、今度は騒然となった。
それからの両者の駆引きは複雑で隠微だった。九条関白は、左大臣近衛忠熙、青蓮院宮、内大臣三条実万の参内を禁ずる挙にでた。三人は帝の側近中の側近で、条約反対の帝をささえる帷幄(いあく)の謀臣だった。
条約締結によって国内の人心が不和となりはしないかと、帝が宸襟(しんきん)をお悩ませになられていることについて、堀田老中から、人心折り合い方の儀は幕府が全責任を取るから条約を勅許してほしいと奉答書がだされ、九条はそれに答える勅答書にこう書き込んだ。
このうえは関東において、御勘考あるべき様、
御頼み遊ばされたく候事
もはや、このうえは条約締結に関して、幕府に全ての判断と決定を任せるとの勅答案だった。関白は幕府から役料、年千石 をもらっているから、最後は幕府の意向を迎えたい立場である。これを知った帝は自ら劣勢に立ったことを憂いて、側近の久我(こが)建通(たけみち)になんとかせいとご宸翰を与えた。
久我は、このとき四十四歳、天皇お気に入りの議奏で、太閤鷹司政通にも股肱(ここう)と頼まれる人材である。権大納言(ごんのだいなごん)で、大納言の次席の職位にありながら、朝廷内に関白並の大きな影響を及ぼすことから、権関白(ごんのかんぱく)と嫉妬交じりに皮肉めいた綽名をつけられた。副関白という職があったためしはない。家は村上源氏嫡流の清華、家禄七百石の当主である。
久我は早速、親しい大原三位重徳(しげとみ)、岩倉大夫具視(ともみ)を呼寄せ相談に及んだ。大原は羽林の一つといいながら家禄三十石、かつかつ食えるかどうかの下級の家である。岩倉も羽林家の一つ、家禄百五十石の中級の公家で、久我家分れの新家である。
大原も岩倉も、煮ても焼いても喰えない男である。肝っ玉のすわりは並みの公家ではない。公家の上品さは皆無と言ってよく、図太さこそが持ち味である。岩倉に至っては博徒譲りの陰にこもった迫力をあたりに放射し、その場にいる人に居心地の悪さを感じさせた。尋常の公家とはひどく異なる雰囲気だった。
安政五年(一八五八)三月十一日夜、久我、大原、岩倉の三人は、額を寄せて智恵を絞った。名案は浮かばなかったが、奇策を思いついた。通りいっぺんの手立てでは、もうどうにもならない。最後は数で勝負することだ。久我、大原、岩倉の策は苦し紛れで奇抜で、なにより破れかぶれだった。
それは、朝廷で発言する機会を与えられない下級公家であろうとも身分を一切問わず、大勢を集め、伝奏に迫り、九条に言い募り、衆の勢いで勅答書の「関東において、御勘考あるべき様、御頼み遊ばされたく候事」を削除するよう要求する策だった。もうあれこれ考える猶予もない、翌朝は九条の勅答案が朝議で決定され、公になる。
直ちに大原と岩倉は手分けし、志のありそうな下級公家を夜通し訪ねまわった。翌朝、近衛邸に駆けつけるよう、くどいほど念を入れて、触れて回った。事態は緊迫していた。
安政五年(一八五八)三月十二日朝、岩倉具視以下、八十八人の下級貧乏公家が近衞邸に集まった。その数の威勢を背景に中山忠能は九条案に反対する旨を述べ、己の執筆した諫言状を近衛忠熙に提出した。
末尾の署名中に、姉小路公知の名が八十三番目に見られた。つい最近、閉門を許されたばかりで、公の文書に名を連ねるのは初めてだった。
こうして、公知は二十歳になり、妙なところから半年ぶりに再び世に現れてきた。公知の署名自体、以前と異なって、尊王攘夷の何かが籠(こ)もった力強い書体に見えた。
そのあと、この衆は大挙して九条家屋敷に押しかけ、玄関詰めの青侍が目を剥(む)いて驚く中、家司に経緯を述べ立て、勅答案文中、例の部分を削除するよう関白に申入れた。
尚忠は大勢の連中と直接会うことを避け、邸内の拾翠亭(しゅうすいてい)に逃込んだ。池の畔に立つ瀟洒な茶室から、春、水の温むのを眺めながら、九条は心から、攘夷派公家というか、衆を頼んだ下級公家を忌(い)まわしく思って何度も舌打ちした。
幾度も家司を通じて伝言のやりとりが繰返された。九条家六千八百六十五坪の敷地の中を何度も行き来させられ家司がへとへとになった。ついに尚忠は数に圧倒され心が折れた。結局、尚忠は、明日、再び参内し沙汰することを約束しなければならなくなった。
ようやく一同が引上げた頃、すでに亥の刻(午後十時)になろうとしていた。深夜に至る騒ぎは、堺町御門を挟んで東隣となる鷹司邸にまで聞こえるほどだった。
九条邸押しかけは、下級公家が、下衆よく高位を制すという成功体験を得た初めてのことだった。本来なら発言権のない者どもが不当に関白に押しかけたということで、厳罰があって然るべきところだった。事の発端に叡慮が密かに関わったせいなのか、よくはわからないが、結局、何の沙汰もないままに捨て置かれ、公知は二度目の処分を免れることになった。
この事件をきっかけに中級、下級の公家は政事への参画意識を高め、関白邸に押しかける手法をしばしば用いることになった。次第に、天皇、関白、左大臣、右大臣、内大臣、議奏、武家伝奏らの意向が朝議に反映されにくくなった。衆議が公論を決すると言えば聞こえはいいが、もともと、衆を頼んで言い募るのは貧乏公家の得意とするところだった。
安政五年(一八五八)十二月、 年の瀬も迫るころ、前内大臣(さきのないだいじん)三条実万は、隠退を余儀なくされた。三条は世捨人(よすてびと)の姿をとって、久世郡上津屋村慎みに入った。ひどく貧しい生活だった。
幕吏が幽居近辺を見張っているという風聞を恐れ、親類、友人の誰もが寄り付かない中、公知はまめに実万を訪ね続けた。二年前、己が閉門処分になった折、心をかけてくれた実万の恩に報い、無聊を慰めるためだけではなかった。公知は国事にめざめ、志をとげようと実万に親炙(しんしゃ)し多くを学ぶことを望んだ。
実万は、師父と仰ぐに最適の人だった。大叔父であり、今天神と呼ばれ学識の深さは世間で知らぬ者はない。議奏と武家伝奏を長く勤め、朝廷、幕府の間の政事の機微を熟知している。ついこの間まで内大臣の職にあり、尊王攘夷の念篤く、議論の鋭鋒はまことに得難き価値があった。
公知は、実万から十分に時間をとってもらおうと幽居にせっせと通い、多くを問うて深い答えを得た。特に尊王攘夷思想について質疑が多かった。三条実美と同行することも多く、実美も大日本史を読んで、その疑義を父親に確かめた。
それだけではない。朝廷における事の運び方を学んだ。こと朝廷では、直接的でなく間接的に進めるのが、結局は速いことを知った。人から変に突出しないことも実万の処世として聞いた。影響力ある人を巧みに巻き込み、朝廷において幕府の権威をそれと無(の)う利用する方法などは、かなり高度な政治手法のようで、議奏、伝奏の必須とする技らしかった。
公知は、貧しい謫居の中にあって後進を育て、何事かを次世代に伝えたいと願う実万の気持ちをはっきり感じ取った。公知にも、おそらく実万にも甲斐ある時間が、それなりに平穏のうちに過ぎていった。
それは公知が望んだより、はるかに短い時間で途切れた。実万は隠退して一年も経たず、安政六年(一八五九)秋、唐突にひどい下痢を起こし、枯れ木のように瘠(や)せ細って死んだ。五十八歳。あとになって、公知は、実万の死が井伊大老横死の五ヶ月前だったことを幾度も振り返った。その日まで生きていれば生還できた筈だった。
文久二年(一八六二)の春にもなると、実万が公知の心の内にまいた尊王攘夷の種子(たね)が芽吹き、成長し、公知がかつて色里で無頼のように過ごしたころの稚気は、すっかり消え去った。すでに、公知が遊興、放蕩の罪で閉門に処せられてから四年半、井伊が暗殺されてから二年がたっていた。公知は二十四歳になった。
この四年間、公知は懸命に学び朝廷で活動しながら尊王攘夷家として自らを鍛えてきた。論旨明晰、肺腑を突く鋭い論鋒で次第に朝臣の注目を集め、今や、姉小路公知の名は、諸藩の尊王志士の間にまで広まっていた。実万の薫陶が実ったようだった。
公知は多くを実万に教わったが、安政五年、真木和泉が実万に宛てた上書のことまでは聞かなかった。この書は、梨の木町三条邸で実万愛用の文箱に筐底(きょうてい)深く秘蔵されていたもので、実万の死後、しばらくたって公知は実美から密かに見せられた。真木は、王政復古を目指し倒幕を準備する構想を詳細に書き記していた。
真木は 最初に、公武合体などやってもどうせ共倒れになるだけだから、幕府などは早々に見限って朝權を確立すべきだと説いてあった。そのためには、公卿、大名から人材を選んで朝廷に仮の政庁をおき政治の根本問題を議定する。諸大名の留守居役を通じ大名を京都に招集し、一方、京都所司代、御附武家、二条御番、大坂城代鞄加番など幕府の機関を引き取らせる。京都の体制が整ったうえで、親征を実施し各地の大名を引き寄せて兵と金を提供させ、勢いを駆って東征し、王政復古を宣言せよと結んであった。
二人はこの書を読んで疑義を論じ、熱い思想に感激して共通の目標を持った。実万の見えない糸に導かれるように思えた。白豆黒豆の幼馴染が革命の盟友となった瞬間だった。
この日以来、公知は従来の習慣にあらたな一事を加えようと決めた。真木和泉は楠正成を敬い、命日の五月二十五日に楠公を祀ることを長年の習いにしていると聞いた。公知は、南朝に加担し姉小路家を断絶させた先祖、実広を思いながら、祖父がひどく嫌った楠正成をその命日に祀っても、もはや躊躇を覚えないことを自覚した。それどころか、楠公崇拝者の真木和泉なる人物に早く会ってみたいと、その機会を心待ちにした。
大原勅使が島津久光に警固され京都を出立して三日後、文久二年の楠公命日に公知は、邸内稲荷社に二回の拝礼、二回の手拍を打って、攘夷に加護あれかしと楠公に祈った。実広の霊に祈るのは初めてだった。
佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第四章「名残りのほととぎす-公知」三節「混迷に咲く花」(無料公開版)