top of page

七  月明に斬らる 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 寺島と新兵衛は、たびたび顔をあわせた間柄だった。文久二年(一八六二)九月二十三日、京都町奉行与力、渡辺金三郎ら三人を石部宿に襲撃した時は、東海道を駆け下って同道した天誅仲間だった。

 ただ寺島は、新兵衛がひどく嫌いだった。それは新兵衛が薩摩人という理由だけではなく、師の吉田松陰の死に様を間接的に侮辱したと感じたことがあったからだった。

 寺島は、新兵衛が、人の価値は死に様にあると語るのを聞いたことがあった。新兵衛の言う価値ある死に様とは、黙して語らず、悲運に遭っても従容として運命を受入れ、あくまで潔く武士として堂々と美しさを全うする死である。新兵衛は何か痛烈な原体験を持つと見え、この話をした時、遠くを見つめる眼差しで、涙をうすく浮かべていた。

 そして、新兵衛は、死を前にして、あれこれ弁明に努め未練と無念を残す死は美しくないと語った。辞世ならともかく、死の直前まで、便々と怨(うら)み辛(つら)みを言い、遺書を書き散らすような醜態はさらしたくないと言ったことが寺島の癇にさわった。新兵衛は己の覚悟として言ったことだったが、寺島には、別の意味に響いた。

 吉田松陰は獄中、筆をとり、途中、点を打ったところで獄吏に斬首の順を呼ばれ座を立った。最期の一画の点が残る書が藩邸に返され、後日、寺島はこれを見たとき、この一点から師の絶唱が聞こえたと思った。師の最期の無念を想い、最期まで何かを伝えようとした師の魂魄によって己の心を励ましてきたのである。
 知らぬとは言え、

 ――田中づれが何を言う

 と思って以来、態度に表すことはしなかったが、新兵衛に含むものを持ち続けた。寺島と新兵衛はこのような天誅仲間だった。新兵衛には三つ目の腐れ縁となった。

 寺島の口利きで、西四辻と滋野井が藤堂藩士三人とつながった。さらに藤堂藩士三人と田中新兵衛が互いに顔を見知った。寺島の秘計では、藤堂藩士三人と新兵衛を遊里に誘い、この機に寺島の馴染みの女に新兵衛の刀を別のものにすり替えさせる。

 ついで西四辻と滋野井から、藤堂家中三士に、猿が辻を通るある公卿を殺(や)るよう、それとなく唆(そそのか)せる。これが真の勤王だといえば、おそらく否やはないだろう。新兵衛と知り合って人斬りの威名に感化されていればなおさらである。謀略の最も肝心な要点は、現場に新兵衛の差料を捨て置くことである。

 西四辻と滋野井は、当初は疑われ後には疑いが晴れるよう、京都から離れたところに滞在させておく。決行の前夜に出奔するくらいがちょうどよかろう。二人が姉小路を怨むことは公家の間では広く知れるところだから、天誅の前夜に出奔すれば疑いを引き付けられる。

 現場に残された差料が新兵衛のものと知れるまでは時間がかかるだろうが、そのうち、どこかから必ず知れる。そのとき、今度は強い疑いが薩摩藩に転ずる。ただではすまない筈である。

 新兵衛を陥穽に陥れることになるが、薩摩をはっきり敵だと割り切った今では、寺島は心の痛みを少しも感じなかった。かつてほざいたように、不当な運命を甘受して、従容として美しく死んでみよと呟き、薩摩への敵愾心をあらたにした。

 

                          *

 

 新兵衛は寺島の誘いで藤堂藩家中の三人と、祇園新地で芸妓をあげることになっていた。直前になって寺島から、拠所(よんどころ)ない事情で行けないことになったと小者に書状を届けさせてきた。誘っておきながらこのような仕儀となって、と寺島は書状で詫び、手配は整い魚品では全て心得ているので、貴兄ら四人だけでも登楼(あが)ってほしいと書面は丁寧だった。

 新兵衛はやめようかと思った。東洞院蛸薬師下ルの新兵衛の宿所に訪ねてきた藤堂藩の三人と相談すると、取り止めれば寺島殿の御好意を無にするようでもあり、第一、魚品のほうに、いかにも悪いということで、四人でいくがよかろうと話が決まった。藤堂藩の三人は、せっかくの機会を逃す気になれないようだった。

 当日一行は、新兵衛の宿所から通りを東に行って蛸薬師に突き当たり、南隣(みなみどなり)、円福寺の脇を東に行って土佐藩邸にでた。その脇を東に行って高瀬川を渡った。新兵衛は、本間精一郎を殺(や)ったのはついそこの河岸だったことを思い出した。

 一行は南に回って四条橋を渡り、神明社の四つ辻まで行って北に折れれば縄手通である。大和橋を北に渡り越せば右手に魚品があった。

 玄関を入ると、一炷、香が静かに燻(くゆ)るなか、仲居が手を引き込めた袖口で、新兵衛の差し出した和泉守忠重の鞘口(さやぐち)と鐺(こじり)のあたりを恭(うやうや)しく捧げ持ち、小腰をかがめて丁寧に預かりおいてくれた。こんな所作さえ男児の鉄腸を溶かすのかと新兵衛にはたまらなく甘美な風情に思われた。両刀を座敷に持込まないのがこの妓楼(いえ)の定めである。

 魚品では全てをわきまえ快くもてなしてくれた。初めは、場になれない四人は美酒を含み、おとなしく舞を眺めていた。舞いは恋の歓びと哀しみを織り込んで、舞妓が扇を開くたび纏綿(てんめん)たる恋の情が漂い、閉じるごとに恋の感傷が婉冶(えんや)に満ちた。

 四人は舞妓の襟あしから、胸高に締めた帯のあたりに視線をさまよわせ、うなじの細さに見惚れた。京友禅で菖蒲をあしらった裾模様に目をやって、楝(おうち)色の蹴出しをしおしおと払う足さばきの優美さに視線が釘付けとなった。

 舞妓に魅入られ、視線が泳ぎ、盃を持つ手が止まった。髪を割忍(わりしのぶ)に結った半玉の舞妓が細腰(ほそごし)も軽げに座を取り持つうちに、酒盃が行き交い席は歓を尽くして次第に大酔淋漓たる有様となっていった。

 女将が終宴の機(しお)をそれとなく作り出し、ようやくのことで一席をお開きとし、四人は魚品から用意された駕籠で帰っていった。五月十八日居待(いまち)の月が東山の上から駕籠を照らし、夜分の空気は凌(しの)ぎやすく清涼だった。満月を過ぎて徐々に月の出が遅くなる頃だった。

 

 翌朝、新兵衛は目をさまし、昨晩の宴席を思い起こした。後半はよく覚えていないこともあったが、眼福を得て歓を尽くしたことは確かだった。寺島忠三郎にはよく礼を言わなければならないと思案しながら、ふと刀架を見て愕然とした。和泉守忠重は、恩人から贈られ、今となってはかけがいのない形見であるのに、本来あるべきところに別の刀が架かっていた。

 新兵衛が泡を喰って魚品に駆け込むと、女将(おかみ)は鄭重に詫びを述べながら、昨晩、田中さまは帰りしな、渡された刀を御自分のものでないとおっしゃり、仲居は言われるままに隣の刀を渡したのだと説明した。新兵衛にそのような覚えは少しもなかったが、昨晩の己の大酔を思い浮かべた。

 女将(おかみ)はいささかも動じず、

「お客はんに一見(いちげん)はんは、いてはらしまへんよって……」

 そう言って、そのうち、刀の件で問い合わせが来るに決まっていると新兵衛を宥(なだ)めた。新兵衛が取り違えて持ち帰った刀が無銘ながらも立派な差料だと女将に告げると、女将はにっこりと頷いた。

 それならなおのこと、本来の持主とて愛着が深く、何も言ってこないはずはないだろうという申し様に、新兵衛は納得した。女将が気の毒そうな顔をしながらも、婉然たる笑みで語ってくれたので、新兵衛は不安も鎮まり、しばらく待つことにした。

 

 文久三年(一八六三)五月二十日、京都では昼の蒸し暑さが去って、御所のあたりは夜陰のひんやりした空気に包まれていた。国事参政、右近衛権少将(うこんえごんのしょうしょう)姉小路公知(きんさと)は、亥の刻(午後十時)、朝廷の重要な評定を終え、禁裏西面の宜秋門より出て、帰途についた。

 この日の評定は時勢の混乱のため、要点を整理し分析することに長時間を要した。馬関海峡では、五月十日深夜、長州軍艦、庚申丸(こうしんまる)と癸亥丸(きがいまる)が周防灘方面から来た米艦を果敢に砲撃し、打ち攘(はら)ったと報告された。二艦に挟撃されて米船は慌てて豊後海に転じ豊予海峡に逃げ去ったという。久坂ら長州の尊王激派が気を吐いたらしいということだった。

 ほかの報告は尊王攘夷派にとって気に染まないものばかりだった。攘夷の実行期限五月十日を過ぎ、幕府は未だいかなる動きにも着手しない。幕府の攘夷実行責任者、一橋慶喜は江戸に帰り、将軍後見職を辞任したいと言ってきた。

 吉野への御親征の計画も話題になったが、どうも、まだ機が熟したとはいえない雰囲気だった。こうした世上の錯綜した出来事すべてが、やがて一筋の時代のうねりに織り込まれるのだろうと公知は思った。どのように繫がって行くのか、今は少しもわからない。どれもこれも面白くない報告で、全く、長時間にわたり気疲れする評議だった。

 公知一行の先を行く国事御用掛、中納言三条実美は輿に乗って宜秋門を左に折れて南に向った。公知らは徒歩にて北に向かい、清所御門(きよめどころごもん)、御台所門を右手に過ぎて三町(三百メートル)ほども行った禁裏北西隅で築地塀に沿って右に曲がった。

 ここから一町余、高い築地塀が延々と連なる禁裏北面に朔平門が建っていた。北面唯一の門である。禁裏北面では大木が築地塀を越えて道筋の上に鬱蒼と枝を茂らせ、木々の匂いが闇夜に濃くたちこめていた。公知一行は道を急ぎ、その先、禁裏の北東隅に差し掛かった。

 北東隅は鬼門にあたり鬼の出入りする方角とされる。ここの塀軒下の蟇股(かえるまた)に日吉山王社御使いの木彫猿が魔除けに安置され、猿が辻と呼ばれた。少し離れたあたりに水門があって鴨川の水を禁裏に引き入れている。水音だけが夜の静寂(しじま)に滾々(こんこん)と響いてきた。

 月は更待(ふけまち)、月の出は亥の刻(午後十時)を回る。未だ月明りのささぬころは漆黒の闇がどこまでも広がっていた。公知は、闇のなか、時折、青臭い栗の花が強く匂うのを感じた。右は御所塀に、左は近衛邸築地塀にはさまれて、幅広い道が延々と暗がりの中へ続いていた。近衛邸が終わるところ、左に分枝し今出川御門に到る道が、今は深い闇の奥にのみ込まれていた。

 先頭の下僕が姉小路家の家紋連翹襷(れんぎょうたすき)を打った箱提灯(はこぢょうちん)を掲げ、あとに公知が続き、その右に雑掌の中条右京が付いた。左には用心棒で太刀持をつとめる金輪勇が公知の愛刀、東山(ひがしやま)美平(よしひら)、二尺三寸を持って引き添い、最後に沓(くつ)持ち一人が付き従った。金輪は相当の使い手で今弁慶とまで綽名される男だから、いざというときに役立ってくれるだろうと公知は心強く思っていた。

 五人がこのあたりまでくると、東山の山の端からようやく月がわずかに上り、真正面からうっすら月明かりが射(さ)してきた。月の出間際の月明りとわずかな火影では、視界はいくらも利かない。一行は猿が辻に広がる深い闇に向って帰宅を急いだ。かなたに聞こえる水門の水音が一歩ごとに近づいてきた。

 これまで京都は、天誅によって無残な死骸がそこらに転がっているところだった。惨殺されるのは、幕府方かその協力者が多かった。尊王攘夷派領袖の公知にその危険は考えにくい。多くの天誅は公知の同志、土佐藩の武市半平太か、長州藩の久坂玄瑞や寺島忠三郎が仕切ったからである。

 すでに、武市は四月四日、京都を去って土佐に向った。久坂は四月十五日、同志の若侍三十人を率い、馬関の攘夷砲撃の軍勢に加わるため帰国した。寺島は京都に残り、情報収集に任じた。

 十日ほども前、久留米藩の勤皇志士が藩内佐幕派に斬られたとか、昨日も儒者が高倉通り御池の自宅で斬殺されたとか、人斬りの余熱は残っていたが、元締めだった土佐、長州の猛者(もさ)が国許に帰ったのだ。大物の暗殺が起こるはずはなかった。

 このあたりまでくれば、猿が辻の広場は正面、目の前のはずだった。一行のほか、誰一人通る者とてない深夜の道が暗闇の中に続く。公知の屋敷は、猿が辻を南に折れ道沿いの有栖川邸の先にあった。

 突然、水門柵の木陰あたりから黒い頭巾をかぶった曲者三人が火影(ほかげ)の中にぬっと現われるのを公知は見た。何者かと思う間もなく、刀を落差(おとしざ)しに差した一人が何気なく無言で近づくと、抜き打ちざまに先頭の提灯(ちょうちん)を切って落とした。公知は直ちに、

「金輪っ、太刀を、太刀を持てい」

 と下知した。

 急に、金輪はここを先途と一目散に走り出した。公知はこの場に及んで、金輪の逃げ出す姿を見て唖然とした。愛刀を失い、無腰で刺客に立ち向かわなければならない。

 金輪の走り去った現場では、あっと言う間もなく、もう一人の刺客が下駄を脱ぎ捨て、公知めがけて間合いを詰めてきた。刺客は、公知の胸の辺りを横薙ぎに払ったが、斬込みは軽かった。公知は、うっと傷の衝撃に耐え、返す刀が脳天を襲うのをとっさに直衣から取り出した中啓で受けた。

 中啓のような開き扇で太刀を受け止められるはずもない。切っ先で顔面を斬られたが、刺客の踏み込みが遠く、浅い斬撃でしかなかった。刺客は腕が立つわけでなく、場慣れしていないのは公知の目にも見て取れた。刺客は必死に太刀を振り回したが、ずいぶんと重い刀らしく太刀筋が定まらなかった。

 公知は気丈にも、今一太刀と、刺客がさらに振り上げた上段の構えの内懐に飛び込み、柄(つか)を押さえて揉み合った。刺客は背丈の低い公知に飛びかかられて烏帽子が顎から鼻面にぶつかり、思わず数歩よろめいた。

 公知の脇で、中条右京は刺客の太刀風をはっしと受け、押し戻して一太刀、二太刀斬り結ぶと、相手はあたふたと逃出した。

 中条は賊を追い払ったと見るや、公知と揉み合う刺客に斬り込んだ。中条が賊に手傷を負わせたか、よくわからないまま、斬り結ぶこと数合にして刺客三人が逃げ去った。

 中条は直ちに公知に駆け寄った。公知は賊から奪い取った血刀を杖に、肩で荒い息を吐いていた。薄蒼い月明りでも血だらけの顔面がわかった。凄絶な姿は何とも言いようがなかった。

 中条は、公知に安否を訊ねる言葉もなく、公知の左腕を取って我が肩に支えた。公知は右手で刀を杖にして、覚束なくよろめきながら歩んだ。あたりに気を配りながら、一歩一歩、蹌踉として帰邸を急いだ。歩を進めるたびに血がしたたった。中条が公知を背負えば、戻ってきた賊に再び襲われかねなかった。

 下僕は物陰にでも隠れたか、姉小路邸に危急を告げに行ったかわからなかった。あるいは暗闇に斬死体となって、転がっているのかもしれなかった。主従ひとつとなった月影が地面に長く揺曳し、ついそこにあるはずの姉小路家の邸門がなかなかに見えてこなかった。

 

 金輪は、まっすぐ走って石薬師御門の手前二軒目、滋野井邸の庭隅を借りて、こっそり匿(かくま)われることになっていた。この夜、阿波藩士が警衛する石薬師御門を抜けるわけにはいかなかった。

 金輪は美平の刀の柄(つか)を握りしめ、心の中であれこれ毒づきながら必死で走った。

 ――公知が愛刀、東山美平(ひがしやまよしひら)、二尺三寸を今日に限って佩用しいひんかったのを悔いても、もう遅いねん

 ――あまり佩刀を自慢するもんやさかい、こないな目に会うんや

 ――わしは頼まれてその場から離れるだけやねん。わしが姉小路を殺(や)るわけと違(ちゃ)

 ――せやかて、少し脅すだけやて聞いとった。本気で殺(や)るなんて聞いてはいいひんかった

 金輪は、そうとでも思わなければ、怖ろしすぎて、小便が洩れそうだった。

 

 猿が辻の現場では、血痕がひどく飛び散った凄惨な跡に、筋書き通り、薩摩風の木履(ぼくり)が残された。これは一木の杉から歯もろともに削りだした下駄で、幅広い台のため一目でそれとわかった。

 公知が屈強の働きで奪い取ったのは、長さ二尺四寸、幅一寸一分の太刀だった。いずれ、刺客の遺留品として取り調べられ持ち主が明らかになるはずだった。そうなれば、このお膳立てで、いやでも薩摩藩に衆目が集まることになる。

 東山の山の端をのぼった欠け月があたりを青白く照らし、滾々(こんこん)たる水音だけが相も変わらない。

 

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第四章「名残りのほととぎす-公知」七節「月明に斬らる」(無料公開版)

八 謀略の闇  次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 三条実美は、公知一行とは反対に宜秋門を出て南に進み、禁裏の南西隅を東に折れた。二町半(二百五十メートル)ほどを過ぎたあたりで禁裏の築地塀が終わり、禁裏東面を南北に走る道を横切って、清和院御門に至った。ここは、土佐藩が警衛する門である。

 土佐藩の御門警衛の土は、三条家の供と顔を見知った者が多く、この夜も頷(うなず)き合って一行を通してくれた。門を出ると、闇の広がる先、右側の仙洞御所築地の塀際になにやら怪しげな人影を認め、数人いるかと思われた。三条家の供はにわかに緊張し、警備をいよいよ厳しくして進み、葉室家、岡崎家の屋敷を過ぎて左に折れ梨木町の三条邸に無事到着した。

 帰宅というごく日常のことが、これほど警備を要するようになったのかと実美は思ったが、よく考えてみれば、己もその原因に深く関っていたことに気付き苦笑が涌いた。

 座敷でしばらくくつろぎ寝についた。寝入りばなに邸内がにわかに騒がしくなり、家司が実美の寝間に急ぎ足で参上した。公知が襲撃された報せを聞いて実美は驚愕し、口を閉じられなかった。

 警備を固め、実美が姉小路邸に急行すると、すでに公知は事切れたか、血だらけの遺骸が座敷に横たえられていた。かたわらで医師六人ほどが傷の具合を診ていた。それによると面部鼻下に一箇所、長さ二寸五分の傷、頭蓋骨が欠損し斜めに四寸の傷、胸部左鎖骨部に一箇所、長さ六寸、深さ三寸の傷が確認された。

 邸内はざわざわと落着きを失い、家臣らが意味なく動き回っている。時折、奥から女の啼(な)き声が聞こえてきた。家人は何から手を付けてよいのか、わからないのであろう。

 土佐藩の土方楠左衛門(ひじかた くすざえもん)はじめ、長州藩士、諸藩の藩士ら、普段出入りの志士たちが続々と姉小路邸に集まり始めた。公知が刺客の刀を奪ったことを聞いた実美は、いまだ血糊がこびりついた刀身が座敷の脇縁に無造作においてあるのを見て、急に気分が悪くなって、その場にへたり込んだ。

 

 翌朝、姉小路邸から南に五軒目、学習院の門扉に貼付けがあった。宛先に転法輪(てぼり)三条中納言と実美を名指しして、右の者は姉小路と同腹で、公武一和を名として実は天下の争乱を好む者だから、急ぎ辞職、隠居しなければ、十日を出ないうちに天に代わって殺戮すると記してあった。

 実美はこれを見に行き、門扉の前に立ってじっと長いこと思案した。内容はともかく、その右肩上がりの癖字はどこかで見覚えがあった。

 ――おのれ、忠三郎め、ついにやりおったわ

 顔を思い浮かべながら、一方で、

 ――まさか、麿を殺(や)るつもりはあらへんやろな

 とも思った

 ――麿を殺(や)れば、長州は朝廷に足がかりを失うさけ、さようなことは、ようせんのや

 心でつぶやいて己の心を鎮めた。そして寺島の言動と計画一切を理解した。

 姉小路はあそこまで攘夷危険論を唱え出したから本当に殺ってみせたものだろう。国許で夷狄船を砲撃した後になって、危ないから砲撃などすべきでないと言われれば、長州も寺島も立つ瀬がなかろう。

 姉小路を排除するだけでなく、その死をもって警告を発し、これ以上、日和見を許さないぞと、きりきりと螺子(ねじ)を巻いたつもりであろう。実美は寺島の隠された心情を読み解いた。

 寺島は、実美が真相を知っても姉小路暗殺の件で長州を追求してくることはないと見切って、三条だけにわかる暗喩めいた伝言を送ったかのようだった。

 攘夷に不利な言動をとれば、実美がこれまで築いたものを全て突き崩すことになって、実美には絶対にできるはずがないと足元を見るようだった。

 ――一蓮托生の腐れ縁はお互いさまちゅうわけか

 実美は、命を守るため、どうあっても、ますます過激な攘夷論を唱え続けなければならないことを悟った。これまでの多少とも穏健で日和見めいた流れが一気に攘夷急進派に傾くに違いない。気が重い役割だったが、己の播(ま)いた種は刈り取らなければならないことをあらためて思い起こした。

 ――もう戻れへん道を歩いているんや

 

 事件勃発を受けて、御所周辺はただちに厳戒態勢にはいった。御所九門は各藩に警衛を厳にするよう達しが下され、酉の刻(午後六時)になれば、潜り門までも閉め切ることとされた。さらに禁裏六門も厳重に守衛するよう達しがでた。

 薩摩藩邸に潜伏していた那須信吾はこの事件を耳にし、誰がやったのか案じていた。前年の四月、吉田東洋を闇討ちして以来、京都に潜伏してきた。那須にすれば、姉小路公知は三条実美と並ぶ公家攘夷派の領袖だから、盟友たる攘夷派志士が殺(や)ったとはとうてい考えられない。だからと言って幕府側の者が凶行に及ぶとも思えなかった。

 姉小路邸では、公知が刺客から奪い取った刀が薩摩風の造りであることを知って八方手を尽くしていると聞いた。あれこれ噂などを聞いて考え込んでいると、土方楠左衛門が訪ねてきた。土方は、今や京都に数少なくなった土佐勤王党の一員で、学習院出仕を拝命し公家の連絡掛を親密に勤めている。那須は土方からある事を頼まれた。

 事件二日後の二十二日夜、那須は極密に姉小路邸を訪問した。思い当たる節があるので刀を見せて欲しいと、とつとつと名乗り出た。土佐藩の土方楠左衛門の名を出すと姉小路家では警戒を解き承諾した。

 座敷に招じ入れられると、那須は刺客の刀を熟視し驚愕した。かなりの時間、瞑目し騒ぐ心を落ち着けた。那須には、薩摩藩によって京都藩邸にかくまわれた恩義があった。さらに、昨年、短い期間だったが、田中新兵衛とは大文字屋で同宿し声を掛け合う仲でもあった。

 攘夷に身を挺する同じ草莽の志士として、新兵衛に親しみを感じたことはあっても悪い感情はもっていない。互いの佩刀を見せ合いもした。

 それやこれやを考えると、田中新兵衛の差料であると証言すれば、新兵衛を窮地に立たせ、ひいては薩摩藩に迷惑をかけることは間違いない。友を裏切り、恩ある藩に忘恩の仕打ちをすることになるかもしれない。

 とは言え、この刀が新兵衛の佩刀であることを知るのは那須だけではなさそうだった。多くの攘夷仲間が知っているに違いない。なにも、ここでわからないと伏せたところで、いずれ明らかになることだと思った。

 新兵衛が何を考え、姉小路卿を斬ったのか、事情は知らぬが、高位の公卿が無惨に暗殺されたのだ、ここは刀の持主を正直に語らねばなるまい、と那須は心を決めた。

「こりゃ、一年前、薩摩藩の田中新兵衛殿から見せられた刀でござる」

 那須は、はっきり述べた。しばらく瞑目し心を鎮めたにも関わらず、声は小さく詰まり、かすれていた。

それにしても、新兵衛ほどの者が差料を公家ごときに奪われ、とどめを刺さず逃げ去るものだろうかと那須は疑い、違和感を覚えた。何か深い事情があったのかもしれないと思うと、那須は、この差料の持主を告げるに止めた。

 一年前の持主が二日前に姉小路卿を暗殺したとは必ずしも意味しないように慎重な言い方をしたつもりだったが、そのような配慮はこの場で全くかえりみられなかった。那須の証言を聞いて、姉小路邸の家士とその場に居合わせた出入りの志士たちは、すわ、とばかりに色めき立った。

 

 中山忠能卿は、池内大学の耳たぶを屋敷に持込まれて以来、議奏を辞しひっそりと目立たず、世間に隠れるように暮らしていた。命を狙われるのはこりごりだったが、公職を離れても、これまでどおり情報通であることに変りはなかった。

 我が屋敷から西二軒隣の河鰭(かわばた)家屋敷前が暗殺の実行された猿ヶ辻であり、つい目と鼻の先である。現場が近いこともあって中山はこの事件に強い関心を持った。

 中山は、姉小路暗殺の下手人を、幕府の奸吏か、侍従滋野井公寿と大夫西四辻公業か、会津藩士か、大坂の与力と同心か、と四手の疑わしき先を噂に聞きつけ、日記の五月二十二日条に書きとめた。

 別な噂では、岩倉と姉小路とは並び立たざる仇敵だという理由で、岩倉を姉小路暗殺の犯人だと疑う向きもあったが、真実味がある話とは受取れなかった。

 中山が日記に書いた滋野井公寿と西四辻公業は、その家臣植田某とともに暗殺前夜、夜更けの亥ノ刻(午後十時)京都を出奔し居所が知れないという。滋野井と西四辻が姉小路に遺恨を持つことはよく知れた話で、従兄弟(いとこ)間の諍(いさか)いが見苦しい分、格好の噂になっていた。

 滋野井の屋敷は中山家の東隣りであり、特に親しいとは言えないものの隣家の付き合いくらいはあったから、中山はこの意味でも滋野井公寿に注目を払った。

 京都では、事件から二日目の段階で、下手人といっても、皆目、見当がつかず、那須信吾の口から田中新兵衛の名が出るまでは、精々、この程度の当てにならない噂が飛び交うばかりだった。

 下手人をめぐる噂とは別に、殊勝な話も飛び交った。暗殺された状況からして、公知に辞世があるはずはなかった。しかし、前年に勅使として江戸に下り、帰ってくるとき、公知が扈従(こじゅう)する供に与えた歌が、それに近いのではないかと、事件の数日後、縁故の公卿の間で取り沙汰された。

 

     かかげても なほ影暗き燈火(ともしび)に 

              憂きよの事も見るべかりけり

 

 乱れて先の見えなくなった憂(う)き世(よ)に、わずかばかりの火を掲げて行く末を見通さなければならないという公知の歌意は誰しも理解した。それにしても暗殺された当の憂(う)き夜(よ)の状況を、その半年前に、まるで見てきたように詠んだ歌にも思え、薄気味悪いと感じる者が多くいた。

 むしろ、この日あることを覚悟していたのではないかと言うものさえいた。活躍が目立った攘夷急進派領袖の暗殺は、公家の間になんとも言えない重苦しい衝撃を与えた。

 

                         *

 

 新兵衛は、森山新五左衛門の命日、四月二十四日を大切にして、祥月命日にも伏見の大黒寺に墓参を欠かさなかった。前年九月からこの年三月までは鹿児島に帰っていたが、四月二十四日、新五左衛門の一周忌から、新兵衛は伏見の大黒寺参りを再開しようと思った。ちょうど姉小路たち一行が摂海巡視のために大坂に下った頃である。

 五月二十四日、新兵衛は、真夜中過ぎ、東洞院蛸薬師下ルの宿所を発って伏見に向った。空には下弦の月が照り、新兵衛は提灯を持たずに屋敷を出た。東洞院通りを南に一路下れば東本願寺を過ぎる頃から竹田街道となり、そのまま伏見薩摩藩邸の西隣、城通町に至る。薩摩藩邸裏手に架かる下板橋を東に渡り越せば、左側には尾張徳川家の伏見藩邸が表門を構えている。その真向かいが鷹匠町、大黒寺である。田舎者にはわかりのいい道だった。

 誰かが前日の祥月命日に墓参したのだろう。寺田屋事件の四月二十三日を命日として、逝(ゆ)いた九人に花が綺麗に供えられていた。新五左衛門は寺田屋事件翌日に切腹したので、新兵衛は、二十四日を新五左衛門の命日と考えていた。新五左衛門の命日が一日ずれ、墓前の時間を唯(た)だ一人で過ごせるのが新兵衛には嬉しかった。

 払暁、本堂で、頼んでおいた塔婆を受け取り、手桶を持って新五左衛門の墓におもむいた。手桶の水で新しい墓を清め、花を活け、丁寧に一把の線香を焚いた。

 初夏の黎明(れいめい)に、墓前で額(ぬか)づき長いことじっと念じて動かなかった。ようやく、ゆっくりと頭を上げたとき、新兵衛の顔にはすがすがしい放下(ほうげ)したような笑みが浮かんでいた。ほとんど線香は燃え尽きようとしていた。

 新兵衛は、壮烈な新五左衛門の死を悼み、それを追って腹を切った新蔵を懐かしんだ。国事参加のきっかけを作ってくれた新蔵に感謝の念を捧げ、心の内でこの父子とありありと会話を交わした者の顔つきだった。

 新兵衛が再び、すがすがしい気持ちをいだいて伏見から戻ってきた。京都は四日前の姉小路卿暗殺の話で持ちきりだったが、新兵衛にとって特に関わりはなく、誰が殺(や)ったのかといぶかしんだ。

 翌二十五日、姉小路公知は参議左近衛権中将を贈位され、九軒町の清浄華院(せいじょうけいん)に葬られた。姉小路家の菩提寺である。葬列は、猿が辻から石薬師御門を抜ける道筋は当然避け、禁裏東築地を南に下り清和院御門を抜けて寺町通りを北に向う迂回道を取った。

 

 この日夜半、新兵衛はある藩士から話があると座敷に呼ばれた。新兵衛はこれまで武市半平太率いる土佐勤王党と行動することが多く、在京の薩摩藩士と密接な関係を持たなかったためほとんど知らない藩士だった。中宿者(なかやどもん)上がりの陪臣の身ではこれもやむをえなかった。

 ここで新兵衛は、姉小路暗殺に使われた刀が、田中新兵衛の佩刀だと証言した者が出たことを知らされ、頭蓋に雷が落ちたほどの衝撃を受けた。

 新兵衛は取り乱し、ほとんど発狂したようになった。藩士のその一言で、新兵衛は陰謀の一切を悟り、己が陥穽(かんせい)にはめられたことを知った。

 ――寺島じゃ、魚品でじゃ

 新兵衛は歯軋りして悔しがった。あの刀は森山殿の形見、このようなことで穢(けが)されてしまったと嘆いた。

 己の不束(ふつつか)さのためにこのようなことになったと思わざるをえず、明け方まで悶々と悩んだ。奥歯をきりきりとかみ鳴らし、血が噴くほどにこぶしで大黒柱を打って憤怒をたたきつけた。

 夜明けが近づくと、一昨日、伏見に墓参し森山父子と交わした心の会話が響いてきた。森山なら語るであろう言葉がまざまざと聞こえ、新兵衛はこれを静かに噛みしめ、武士の有るべき姿を思った。

 二十歳(はたち)の新五左衛門が重傷の身でどう振舞ったかあらためて思い起こした。夜明け前の静けさの中、新兵衛は急速に怒りの衝動が引くのを感じた。この期(ご)に及んで血迷ってはならない。武士の誇りを全うしなければならない。新兵衛は心に一点、強く光るものを見た気がして、血にまみれたこぶしを握りしめた。

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第四章「名残りのほととぎす-公知」八節「謀略の闇」(無料公開版)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

九 意地を貫く 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 五月二十六日早朝、新兵衛は、宿所を囲んだ会津藩士から、勅命として出頭を求められた。その頭分(かしらぶん)と思(おぼ)しき会津藩士は、外島(としま)機兵衛と名乗り、鄭重に新兵衛に同道を要請した。新兵衛は、外島が水戸藩に掛け合って水戸藩に下された戊午の密勅を幕府に返納させた男とは知る縁もなかった。

 新兵衛は何の件か即座に悟った。京都守護職松平容保の家臣が武士の礼遇をもって自分に接している。ここは武士にふさわしい態度で応じなければならないと腹を決めた。

 刀を取り上げることもせず、自分を人斬り新兵衛と知って薄気味悪いだろうに、少しも動じたところがなく、あくまで真摯に、鄭重に振舞う外島や供する会津藩士たちに、新兵衛は武士の確固たる倫理観を見て感動を覚えた。

 ――よかもんを見せてくれもした

 新兵衛はそう思い、新蔵にも、

 ――そうじゃらせんか

 と心の中で語りかけた。

 この一団が会津藩きっての遣い手で構成されているだろうことは見てとれた。仙洞御所東の生洲町、荒神社に隣接する坊城家屋敷に向けて、新兵衛は会津藩士の一団と歩を共にした。

 新兵衛が坊城邸の一室に控えている間、別の座敷で、外島機兵衛は武家伝奏、坊城俊克に田中新兵衛を連行したことを復命した。会津藩は、昨晩深更に呼び出され、田中新兵衛を連行するよう坊城から命を受けた。それだけでなく、三条実美からも同じ趣旨の命を受け、今朝の運びになった。

 権中納言、坊城俊克は、京都守護職たる会津藩で新兵衛を預かり、凶行を明らかにせよと命じたが、外島は、京都守護職の職務にあらずと、鄭重な態度を持しつつ断固、拒否した。いく度かの応酬のあと、外島は新兵衛を受け取る人数を寄越すよう京都町奉行所に命じることだけは了承した。坊城にすれば、内心、ほっとした。新兵衛をこの屋敷に置いて外島らに引上げられても困るのである。

 町奉行所の同心、与力らは、人斬りで有名な新兵衛に帯刀を許して連行することに震え上がった。前年九月、与力仲間が石部宿で襲われたことを忘れるはずがなかった。外島は会津藩士を人数に加え、二条城南、神泉苑西隣にある東町奉行所まで同行させた。

 翌二十七日、武家伝奏は京都守護職松平容保に田中新兵衛を糾問するよう命じてきた。容保は、わが職責にあらずとこれを恭(うやうや)しく断り、このような犯罪人の審問に大名を関わらせない幕府の法理を守った。

 言うまでもなく、内心は、薩摩藩との悶着を避けたい気持ちからだった。処置に困った武家伝奏や長州系の攘夷激派公卿らは、結局、京都町奉行による糾問に委(ゆだ)ねざるをえなかった。

 

 新兵衛を糾問するのは京都東町奉行、永井主水正(もんどのしょう)尚志(なおのぶ)。前年八月、将軍の上洛に備えて任命された第一級の幕臣で、指折りの俊秀である。自ら新兵衛の審問に当たった。

「勅命によって姉小路卿殺害についてお尋ねしたき儀がござる」

 調べは荘重で、新兵衛を薩摩藩士として鄭重に扱った。評定の座敷で新兵衛から脇差を預かることを控え敬意を示した。

 新兵衛は姉小路卿殺害に関して、何も知らず、何の関わりもないと、身の潔白を主張した。当然のことだった。堂々たる受け答えと臆することのない率直な態度に、町奉行側も取り付く島を見出せなかった。永井は、脇を振り向き、下僚に目配(めくば)せした。下僚は、辞儀をして奥に入り、鞘のない大刀を両手に持って戻ってきた。

「この刀に覚えはござらぬか」

 永井は右手に刀柄を握り、水平に構えて新兵衛に示した。新兵衛は、しばらく刀身を見やった。近くで眺め、しかと確かめたいと応えた。

 新兵衛に刀を渡すのも危うい気がしたが、自身の佩刀か否か、確かめさせることが重要である。下僚が新兵衛の前にしずしずと刀身を水平に差し示した。新兵衛は食い入るように刀身を丁寧に眺め、大きな傷がないことを確認したようだった。ただ鋒先がひどく刃こぼれしていることに気付いたときは少しの間、目を閉じた。

 新兵衛は穏やかに刀身を見納め、永井の目を見て、ここまで、と言うかのように頷(うなず)いた。少しの間、沈黙があった。

「いかにも、おいが佩刀でごわす」

 新兵衛は笑みさえ浮かべ放下した表情でしばし永井を見つめた。そして一点の曇りのない顔でゆっくりと天井を仰ぎ瞑目した。数回の深呼吸の後、瞼を開(あ)け眼(まなこ)を見開くや、いきなり無言で脇差を抜き、間髪入れず我が左下腹にずぶりと突き立てた。

 評定の者があっと驚くのを尻目に、うなり声を押し殺して、素早い手つきできりきりと右脇腹に引き回すと、刃(やいば)の抜く手も見せず首の血筋を瞬時に断ち斬った。奉行所の者があわてて止めに入ると、頚動脈から血しぶきが噴き上がり、二呼吸ほどおいて、どうと前のめりに崩れた。一瞬の凄技だった。襖にしぶいた血滴がゆっくり、つうっと筋を引きながら襖絵の上を滴(したた)り落ちた。

 町奉行所では懸命に手当てを図ったが、鮮やかな手さばきの割腹に手のほどこしようもなく、新兵衛は見事に事切れた。重大な糾問であったものを、と永井は悔やんだ。

 永井はただちにこの失態を京都所司代の牧野備前守忠恭(ただゆき)に報告し待罪の姿勢を示す一方、新兵衛の遺骸を塩漬けにして保存するよう命じた。

 数日後、姉小路卿の供を勤めた中条右京が新兵衛の人相を確かめに京都町奉行所に出頭した。更待(ふけまち)の薄暗き月明かりのもとで、刺客は覆面をしていたというのが中条の証言だったが、新兵衛の顔を見て、

「正(まさ)しくこれ、主君を害せる賊である」

 即座に言明した。

 永井にとって、新兵衛の人相以上に、腹と首に残した図抜けた刃(やいば)さばきの痕こそが重大な証拠に思えた。姉小路卿を襲った者の拙劣な腕とはどう見ても同一ではなかった。

 永井の勘とは別に、次第に、薩摩藩に向けられる朝廷の視線が厳しいものに変わった。どうであれ、幕府側はこの事件に決着を付けなければならなかった。在京十八藩有志が姉小路家菩提寺、清浄華院に参会し、田中新兵衛の嫌疑を評定した。わざわざ現場に薩摩下駄を残すだろうか、新兵衛ほどの凄腕が公家に刀を奪われるだろうか、など多くの諸士は疑問を感じずにはおれなかった。

 新兵衛から証言をえられず、他の被疑者がはっきりしない以上、その犯行と断定せざるをえない流れとなっていった。この評議に基づき薩摩藩への厳罰を朝廷に奏請した。

 新兵衛の死から二日後、武家伝奏から沙汰書がでて、薩摩藩に乾(いぬい)御門の守衛を免じ、警衛の藩士のための詰所仮小屋を取払うよう命が下った。さらに、薩摩藩士が御所九門内に立入ることを一切禁じた。

 乾御門は御所の北西角、近衛邸と一条邸の間に立ち、ここから南へ順に中立売御門、蛤御門、下立売御門と連なって、御所西側の四門を成す。島津家は近衛家と姻戚の家だから、近衛邸に近いこの御門を薩摩藩が守ることは両家にとって特別の意味があった。

 この日から乾御門は、薩摩藩に代って松江藩八万六千石が守衛についた。薩摩藩士は歯を喰いしばってこの屈辱に耐えた。

 近衛忠熙、忠房父子は非常な危機感を覚えた。薩摩藩は朝敵にされかねない危うさにあるから、速やかに上京してこの逆境を打開すべきであると、島津久光に宛てて相次いで書簡を寄越した。

 

 薩摩藩の陪臣下級藩士の佩刀一振りが盗まれ、それを用いて今を時めく公卿が暗殺された。この大物公卿は当初の攘夷の意気込みが実は危ういものだったと気付きはじめ、虚説暴論を唱える急進攘夷と一線を画すようになった。それだけでない、冷静に日本の国力を計って世界に対峙する道を志向し始めた矢先だった。

 京都中が震撼し、その結果、攘夷派の公卿たちは日和見に一喝を加えられたように粛然となった。命を守るために、いよいよ攘夷に傾倒するところを表向きにも見せなければならなくなった。

 薩摩藩が暗殺に関ったとなって、乾門(いぬいもん)御守衛の役儀を解(と)かれて名誉を失った。のみならず御所内の立ち入りを禁じられ公卿との会談が出来なくなって、政治工作の機会を失った。嫌疑を払拭できなければ薩摩藩は朝敵にされかねなかった。

 今般の事件の処分が下され、薩摩藩は初め惑い、次いで不満をいだき、ついには憤激するに至った。その怒りを朝廷にぶつけていい筈もなく、ある藩士は、今次、薩摩の事を訴え出た人物が判明すれば、これを討取り国中に肉を分かつ意気込みにある、と国許への書状に記した。憎しみのあまり、そやつの肉を喰(く)らい裂(ざ)きにしたいというものだった。

 薩摩藩を後ろ盾とする近衛家と中川宮は、長州系の攘夷激派から直接目の仇にされ危機に陥(おちい)ることになりそうだった。

 ――見事な謀略だったのではあるまいか

 もし、誰かが書いた筋書きなら、狙い通りなのかもしれなかった。あとは、じっと見ているだけで事は勢いづいて進展するに違いない。目端(めはし)の利く公家には、内心こんなことを考えている者が幾人かいた。京都の町はひしひしと緊張感を募らせていった。

 

                         *

 

 文久三年(一八六三)五月二十五日七つ時(午後四時)、小笠原は横浜にて、万端整った朝陽丸に搭乗した。大坂に向かうのは、幕艦朝陽丸、蟠龍丸と、英汽船エルギン号、ラージャー号の計四隻で、横浜を出航する準備が終わっていた。英船は、一月一万五百ドル、二隻で二万一千ドルにて傭船したものだった。

 水野の水も漏らさぬ手配で、騎兵奉行山口信濃守率いる騎兵方およそ百五十、歩兵奉行溝口伊勢守率いる歩兵方およそ百、歩兵千二百、外国御用出役およそ百五十、総計千六百が集結し乗船を待っていた。

 小笠原の帷幄には、首席参謀格の水野忠徳以下、幕府屈指の能吏、剛直の士が揃って、士気は湧き上がるように熾(さか)んだった。いずれも水野、小笠原を慕うように引き寄せられた者たちである。

 

 小笠原の上京計画は幕閣が公式に許しを与えたものではないが、事情を知った幕臣はこれを幕府の壮挙とみなした。幕府が黙許しなければ、これほど大仕掛けの出兵ができるはずはなかった。

 攘夷志士は、非をもって理を通さず、人斬りをもって人を脅している。そんな準備の上に倒幕の野望を遂げようとしている。幕臣たちは、不埒な浮浪を王城の地から追い攘(はら)うことを願った。その上で公明正大、堂々と意見を述べて理の通る政治環境を朝廷に回復することを切望し、祈る思いで志を小笠原に托した。

 五月二十六日の夕刻、小笠原の乗った朝陽丸は大坂をめざし横浜を出港した。残る三隻は要員と武器、弾薬を積み込み、二十八日にかけて順次、横浜港を出港する手筈となっていた。士気旺盛な船出だった。

 小笠原にとって、前年十二月十七日、勝の操艦する順動丸で築地沖から出航して以来、江戸、大坂間の長距離航海は二度目になる。

 あの航海の途上、世界情勢と欧米の軍事水準の高さを朝廷に伝えなければいけないと、勝と毎日話を交わし協力をえたのだった。その努力が実って、摂海巡視のあと姉小路公知卿が考えを変えはじめていると勝から書状を受け取ったのがつい先日のことだった。五ヶ月の間、勝はよくやった。その集大成として今回、小笠原が兵を率いて上京する。

 小笠原は紀州由良港に着いて、築地から同航した英船に乗って到着した兵員をいったん上陸させた。この兵を大坂から迎えに呼んだ幕艦に移乗させた。五月三十日には、幕府の精鋭陸軍千六百が数隻の幕艦に搭乗し大坂天保山沖に集結した。

 六月朔日七ツ時(午後四時)前、小笠原は、隠居水野癡雲(ちうん)忠德、勘定奉行井上信濃守、神奈川奉行浅野伊賀守、目付向山(むこうやま)隼人正とともに、三大隊と僚官を率いて、大坂に上陸した。

 小笠原は大坂に上陸して、初めて姉小路公知が暗殺に斃(たお)れたことを知った。十日も前のことで、横浜を出航したとき、すでに姉小路は死んでいたことになる。小笠原はおおいに嗟嘆し、

「大失望じゃ

 天を仰いだ。

「この挙の志は、ついに貫徹できずに終わるか」

 と呟(つぶや)き、長いこと憮然として落胆を隠さなかった。小笠原は、普段から、喜怒哀楽を顔色に顕(あら)わさず、淡淡と冷静に振舞うのが常だったから、驚いたのは、周りの水野や井上、向山、浅野らだった。

 姉小路は、過激な攘夷論者で幕府の敵と見られていたため、小笠原の嘆きの意味がわからない者も多くいた。姉小路は小笠原と遠い親戚である。小笠原の嘆きのさまを見て、何か、密約でもあったのかと、皆、不審に思った。

 小笠原は全軍をまとめ、淀川南岸を京に向って進軍するよう命じた。姉小路がいれば兵を率いて京都に向かっても、兵を使わず事を進められると予想していた。

 姉小路が亡くなった今、攘夷志士ら浮浪が何か仕掛けてくる事態を覚悟しなければならなくなった。そうなれば武力行使にいたる懸念を拭えない。小笠原は次の手立てを考え始めた。

 ――引連れた幕軍の精鋭によって、長州藩士ら攘夷激派を武力制圧するのは軍事的に容易じゃ

 ――ただし、兵を用いたあと不測の事態が起こるかも知れず、政治的にどう転ぶか分からぬ。兵を動かすことは相当に危険な賭けなのじゃ

 ――朝廷に姉小路がいて、何はともあれ幕府の話も聞こうではないかと公家の気運を高めてくれさえすれば、武力を動かさずにすむものを……

 その願いも今は空しい。姉小路亡きあと、幕府の話を聴こうという寛容な気分は攘夷急進派公家らに望むべくもない。朝廷の中に一人の協力者もいないことがいかにつらいか、小笠原はあらためて思った。

 協力者を作るため、この五ヶ月間、工作を重ね、勝を働かせて、ついに格好の候補を得たのも束の間、突然に失った。朝廷に攘夷の危うさを説く機会があっと言う間に葬られ、構想が突き崩されたと小笠原は感じた。

 ――誰が殺(や)ったのじゃ

 小笠原は、ともかくもこの疑問を封じた。帝はじめ公家諸卿に話を聞いてほしいと、ただ一点の望みを持つだけである。と言っても、此度(こたび)、小笠原は、生麦事件の賠償金を支払わざるをえなかった理由を上奏し、帝のご理解を請うと称(とな)えて上京した。それだけのためなら部下の数人を率いればすむところを、精鋭一千六百を率いてきた。

 口にしない真の狙いがあるだろうと誰もが想像する。なればこそ軽々しく兵に訴えることは避けるべきだった。京都守護職の松平容保はじめ、老中、板倉勝静、水野忠精と事前に十分な話合いを持っていないことが、この企ての弱みなのだと小笠原にはわかっていた。

 情勢がどうであれ、歩を進めておこうと、小笠原は夜を徹して幕府精鋭軍を率い、暁七ツ半(午前五時)枚方(ひらかた)に到着した。ここで、京都から派遣された若年寄の稲葉兵部小輔正巳(安房館山藩一万石藩主)の訪問を受け、短い話を交わした。

 稲葉は、決して上京してはならないと老中の命を伝え、朝廷が小笠原の率兵上京に驚きうろたえるさまを語った。小笠原の上京を早く止めよと、必死になって幕閣に矢の催促を重ねているという。

 小笠原は、朝廷すなわち攘夷急進派が兵諫の圧力を十分感じたことを知って手ごたえを覚えた。稲葉の言うことに耳を貸さず、長駆、橋本を経て淀に至り、ひとまず、ここに兵を留めた。淀と言えば、京都の咽喉(のど)元だった。

 

 

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第四章「名残りのほととぎす-公知」九節「意地を貫く」(無料公開版)

四章八節 謀略の闇
四章九節「意地を貫く」
bottom of page