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八 巨樹蟲に抗せず 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 天明五年(一七八五)六月朔日、松平越中守定信は一年間の白河在国を終えて江戸に参府した。将軍の日光御社参の警備で国入りしたことはあったが、国許で藩政を見たのは初めてだった。この一年間、飢饉に喘(あえ)ぐ白河藩の民百姓を救い、藩財政を立て直すのに渾身の力を発揮したと自負があった。

 儒学に裏打ちされた仁なる政(まつりごと)の理想を求め、家臣を叱咤激励した。自ら率先垂範して倹約を励行し、朝夕一菜、昼一汁二菜で通すところを家臣にみせつけ、絹を避けて綿服だけを着て過ごした。その上で、家臣の食禄を大胆に減じた。

 さらに家祖定綱の御霊屋(みたまや)を建立して家臣の精神性を高め、武備、武芸の催しで武士(もののふ)の心胆を練らせた。家臣に具足を持たない者が多くいることに驚き情けなかったが、やむなく武具なしの麻裃(かみしも)で練り歩かせた。民百姓にも心を砕いて飢饉対策を実施し、救い米や種代、塩、味噌を与えた。学識に裏打ちされた政策が立派でないはずがなかった。

 定信は藩政に強い手応えを得て江戸に戻ってきた。他藩において己の業績の評判が高いと聞いて大いに喜んだ。江戸では、大名と親交を広めて将来に備えようとあれこれ考えていたから、藩政の評判が高まるのは大いに結構なことだった。

 藩政を話題にすれば、親交の輪を広げられるかもしれない。それだけでなかった。養父の期待に応えて溜間詰に昇進するため、江戸詰の家臣に専任担当者を決めて対幕閣工作を開始した。

 用人の水野清左衛門に権門方御内用(けんもんがたごないよう)勤めを命じ、よく日下部武右衛門と相談せよと言い渡した。日下部は会津藩と交渉し、まんまと米一万俵を無心してのけた切れ者で交渉事に智恵がある。

 定信はこれまで幕閣、特に意次に敵愾心を燃やし、機会あるごとに幕閣の気に染まぬことをやってきた。今に見ておれという気分に駆り立てられていた。前年、佐野善左衛門から受けた傷が元で、若年寄田沼意知が刃傷二日後に死んだと聞いて密かに快哉を叫んだ。

 誰がいかなる動機で刃傷に及んだかは知らぬし、聞かぬことにしてあった。ともかく意次の跡継ぎ、というより意次の政策の後継者が突然に消滅した報せに大いに溜飲を下げた。意次の目指す世にして堪るか、という思いが強かった。

 定信は窃(ひそ)かに家臣に言いつけて、目立たぬよう地廻り、破落戸(ごろつき)の手合いに声をかけ、駒込勝林寺に向かう田沼家葬列に嫌がらせを仕掛けた。田沼家が江戸の民から石を投げられるほど嫌われている姿を演出する策だった。卑劣とは少しも思わなかった。

 大屋が大目付の立場で佐野の刃傷沙汰の審理にあたり、佐野善左衛門に切腹の処断を下したことを、定信はあとになって知った。意知死去の届が出された直後、待っていたかのように即刻、切腹が命じられたものらしい。

 定信は家臣の話を聞いて、右耳から左耳を抜けたような素っ気ない素振りを見せた。家臣を下がらせ一人になって、いつか大屋に、田沼のあとの姿形を考えよと言った結末がこれだったのかと思ったりもした。

 次にやった幕閣への挑戦は、京都所司代の牧野越中守貞長(常陸笠間藩八万石藩主)が老中になった折のことだった。諸大名は老中と同じ官途名を差し控えるのがしきたりだから、定信は己の越中守の名乗りを改めなければならない。そんなことはとうに承知しながら、そうはしなかった。

 定信は、家祖定綱が台徳院様から命じられて名乗ったのが越中守だったと、二代将軍秀忠の名を持ち出して、ねちねちと幕府にごねた。百七十七年前の故事を持ち出すのは、少しもお門(かど)違いではなく、むしろ、それほどに来歴の古い由緒深い名乗りなのだと強調する書状を送りつけた。

 書状には新参成り上がり者への辛辣な皮肉を込めてあった。幕閣へ挑む態度を見せてどうなるか、少し心配する気持ちもあったが、結局そのまま幕府黙認となった。

 ――幕閣の内で、そっとしておけということになって、新任老中の牧野越中守も苦笑するしかなかったろうさ

 定信は、ふてぶてしく想像しながら、こんな児戯に類することを仕掛けるだけでいいとは思っていなかった。大きな野望があった。そのため、此度の在府中に党派を作る必要があった。

 

 定信の初めての友は陸奥泉(いずみ)藩主の本田忠籌(ただかず)。十八歳上の大先達だった。安永七年(一七七八)六月、忠籌が国元から参府し帝鑑之間に詰めたころ、定信は同じ伺候席で知り合った。一万五千石の小大名ながら肝の据わった男で、大抵のことは自分でできた。忠籌は本多平八郎忠勝の末裔で、それだけで定信は好意を抱いた。

 蜻蛉切(とんぼきり)の長槍を引っ提(さ)げ、鹿角脇立(しかつのわきだて)兜に黒糸威(くろいとおどし)胴丸具足を鎧(よろ)って、武田軍団、豊臣軍団と勇戦した本多平八郎は徳川きっての猛将で、家康の信頼があつかった。その雄姿は定信の憧れる世界の象徴だった。家柄好きの定信は、忠籌の背負う最古参安祥譜代の家系と家祖平八郎の伝説的武勇に惹き付けられた。

 下谷の本多家泉藩邸を訪れるほどに親しくなって、忠籌(ただかず)が、逼迫(ひっぱく)した藩財政を立て直すため、どれほど苦しい思いを重ねたかを知った。若い頃、忠籌は一万石の役料が付く大坂加番を自(みずか)ら三回も買って出て、勤務中、綿服、小倉袴(こくらばかま)を着用して同僚を驚かせた。

 大坂城警備の職が経歴に華々しさを与えるはずもないのを承知で、役料を借財返済に充(あ)てたい一心だった。それだけでなく、石高一万五千石のうち五千石を借用金返済に充てるため、家格を一万石並に落とすまでのことをした。

 大名の体面を保てるか保てないかのぎりぎりの瀬戸際で、簡素な生活を厭(いと)わない剛直の士だった。経世済民の学を修め、さらに心学を取り入れて領内民心の教化を試みた。

 定信にとって、忠籌は由緒正しい家系、武威の家柄、倹約の精神、仁政を志す向学心の全てを具(そな)えた理想の武士(もののふ)だった。物産開発やら藩営事業に手をださず倹約を主に据えるところが見事だと思った。定信は、この人物に傾倒し藩政の要諦を教わった。

 天明二年(一七八二)には忠籌の紹介で本多忠可(ただよし)(播磨山崎藩一万石藩主)と親交を結んだ。忠可もまた、忠勝系本多家の族葉で、二人は遠い縁戚だった。忠可も心学に熱心で、学統を伝える中沢道二に入門し本格的に心学を学んでいた。そして、なによりも二人は本多忠央(ただなか)と縁戚だった。

 本多忠央は、宝暦八年(一七五八)郡上一揆の騒動で西之丸若年寄の職を解かれ、改易されて遠江国相良藩一万石を失った。忠央は津山藩主松平越後守(えちごのかみ)長孝に預けられ、十年を経てようやく許されてからは江戸の本多忠籌の屋敷に寓居した。今は養子の屋敷で居候(いそうろう)暮らしを送っていると、定信は聞かされた。

 幕府創建の初頭、本多忠勝の息子と孫とが播磨国内に計三十万石を擁し、西への守りを固めた頃がこの誉れ高き武門の全盛期だったらしい。その後、複雑に転封、分家が起こり、無嗣絶家や忠央の改易があった。忠勝系本多家の大名は、宗家の岡崎本多氏五万石を筆頭に、分家の泉本多氏一万五千石と山崎本多氏一万石の三家のみとなってしまった。

 本多氏は一族をあげて意次へ恨みを含んだ。将軍家重の御声掛かりとわかっていても、将軍に恨みを向けることはできず、その代わり、忠央を改易に追い込み、相良藩の後釜に居座った意次を悪辣な新参者と見なした。

 忠籌は江戸に戻ってきた忠央の面倒をみて、改易となったいきさつをいやというほど聞かされた。それは忠可も同様で、二人は側衆政治を憎む点で定信と息が合った。二人は、定信を前面に押立てれば忠央の名誉を回復できるかもしれないと期待を持ちながら、親しく付き合っていた。

 

 天明四年(一七八四)になると定信は、長岡藩七万四千石藩主、牧野備前守忠精(ただきよ)と親交を結んだ。二十五歳の気のいい青年だった。

 牧野は天明元年四月、奏者番に任じられ、新進気鋭の若手大名と見なされて幸先の良い官歴を開始した。同じ年の師走、田沼意知が奏者番になり同僚となった。意知はその二年後、若年寄に昇進となって、意気揚々、芙蓉之間を去っていった。

 これを何とも思っていない様子の忠精が定信には歯痒くて、田沼に先を越されて悔しゅうはないのかと、煽った。

「歳は田沼が上だが、奏者番ではそなたが先任ではござらぬか。それを、幕臣になって三代の新参者が、そなたを差し置いて若年寄に昇進したのじゃ。しかも、家督を継いだ当主ならまだしも、単なる部屋住みの分際で若年寄とは、おかしいとは思われぬか」

 親交を結んで間もない頃、定信は弟を訓(おし)え諭(さと)す気分で、忠精を大いにけしかけた。

「分家筋の笠間牧野家では藩主の越中守貞長殿が老中になったのに、本家の長岡牧野家では未だ老中を出しておられぬ。当主たるそなたがよくよく考えなければならぬのではないか」

 定信は己が官途名を憚(はばか)らず、礼を失した当の相手を引き合いにだして、牧野家本家の分家に対する競争心を煽ることも忘れなかった。折に触れ、幕閣に、ひいては田沼に反感を抱くよう仕向けた結果、今や忠精は反田沼の気分を抱く定信お気に入りとなった。

 元々、牧野家というのは、「常在戦場」「鼻は欠くとも義理欠くな」「武士の義理、士の一分こそ天晴れ立てよ」と家中で言い慣(なら)わし、頑固剛腹な三河武士の心根を鼓吹してきた家である。家柄意識と武張った家風が定信好みで、忠精の若い従順さも手伝って反田沼派に仕立てるには格好の人物だった。

 定信は、本多の二人と牧野に加え、それまで親交を結んだ十人ほどの大名を核に、天明五年は、書状に、会談に、訪問にと忙しく動いた。定信の詰める帝鑑間(ていかんのま)は譜代大名の伺候席で、幕府成立以前から徳川に仕えて大名になったという家柄の矜持と、先祖の武勲の誉を大切にする集団である。

 定信が反田沼を唱えれば心情的に頷(うなず)く者が多かった。定信は、あらゆる縁を手繰(たぐ)って、新たに十人を超える譜代大名と親交を結び、一党派を築きつつあった。

 師走朔日、定信に新たな処遇が言い渡された。今後は登城時に溜間詰(たまりのまづめ)に伺候し、月次(つきなみ)御礼は黒書院、五節句は白書院で御目見えが許されることになった。ただ溜間詰が家格とはされず、身分、勤め向きはこれまで通りだった。定信にとって、金のかかった政治工作の成果がこの程度では全く不本意だった。

 養父、松平定邦以来の白河藩の悲願、溜間詰の家格化には至らず、これで、久松松平家宗家、伊予松山藩十五万石の定国に並んだとは到底、言えなかった。定信にとって、定国は大の嫌いの実兄だったから、なおのこと、此度の処遇に怏々と楽しまなかった。実兄にまつわる不快な記憶が蘇(よみがえ)り、結局、意次への怨みに転嫁した。

――主殿(とのも)が悪(あ)しゅう計らったのじゃ…

 

                           *

 

 天明六年(一七八六)正月一日は、丙午(ひのえうま)の年の丙午の日にあたり、しかも、皆既日食になると予測されていた。確かに、正午から一刻ほどの間、八分(ぶ)の日食となった。元旦に不吉が三つも重なって、この年、悪いことが起きると誰もが思った。

 六日から雪が舞い始め、八日になってなお降りやまず大雪になるのは間違いなかった。江戸の町はしんしんと白一色に埋(うず)もれた。十八日、芝から出火。十九日、桜田から出火。二十二日、西北風が強く吹き、湯島天神の門前、牡丹長屋から出た火は神田明神表門、湯島聖廟を焼き御成門から日本橋一帯、隅田川を越えて深川八幡宮一帯を焼く大火となった。二十三日、西久保紙屋町から芝にかけて出火、火は増上寺境内に移って赤羽橋まで焼失した。

 これだけ立て続けに大火事が頻発するのは、いくら何でもおかしいと、幕閣は鼠賊の放火を疑った。先手頭(さきてがしら)前田半右衛門に昼夜江戸の町を巡視し、放火の賊あらばこれを捕らえよと命じた。

 二十七日、今度は日本橋、一ツ橋御門内、本所が焼けた。やはり年初から悪いことが起こり始めたと江戸中に不安が満ちた。

 三月、定信は将軍家治が足の浮腫(むく)みに悩んでいると内密な話を聞いた。前年八月に牧野忠精と将軍の健康問題を話したが、やはり、少しずつ脚気が悪化しているようだった。

 定信は、留守居役の日下部武右衛門や権門方御内用(けんもんがたごないよう)勤めの水野清左衛門らを使って、定信党派の諸大名重臣らと常に連絡を付けていた。大目付の大屋遠江守明薫(みつしげ)は幕府の深奥の動きを知るのに役立ってくれた。

 幕府が現在、実施する大きな事業は、印旛沼の干拓掘割工事と蝦夷地開発計画であることを定信は知っている。印旛沼では新田が開発されるだけでなく、下総国印旛郡と検見川の浜を水路で結んで利根川から江戸湾へ水運を通す計画で、これまで相当の資金を投じたと聞いた。利根川を遡って関宿から江戸川に入る今の水路よりよほど短かくなるらしい。物の流れを盛んにする案は、いかにも意次の考えそうなことだった。

 前年の師走には、蝦夷開発のため調査に向かった船が戻ってきた。よくは知らぬが、大きな計画が動きだしたとの噂を聞いた。どうせ、大きな金が動き、商売を目指すに決まっていた。今すぐ、どうこうという話ではないが、注目しておかなくてはならないと思った。

 ――どんなことで幕政が綻びを見せるか、今はわからぬ。ひとたび綻びを見出したら、直ちに責めただし、断固、幕閣を一新する

 準備はすでに終えた。定信は、これから帝鑑間詰め諸侯の党派を糾合し、政局を起こしてやると心に誓った。

 ――大きく構え、じっと静かに機の熟すを待つ

 定信は、ともすれば逸(はや)る心を抑えるように幾度も己(おのれ)に言い聞かせた。

     佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第四章「蟲喰まれる樹」八節「巨樹蟲に抗せず」(無料公開版)​

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