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十三 薩南の機略 次を読む 前に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 旗艦単艦によって、祇園ノ洲砲台はほぼ壊滅し沈黙を余儀なくされた。薩摩藩士は英国艦隊の艦砲砲撃の恐ろしさを嫌と言うほど思い知らされた。その強敵が、かなりの沖合から、今度は新波止場砲台、弁天砲台を激しく砲撃してきた。そのうち旗艦が針路を転じ岸から八町(八百メートル強)の距離を越えて接近するのが見えた。薩摩藩士が日頃、海上に標的を浮かべ砲撃訓練に励んだ海域に入ってきた。この辺りが薩摩の大砲の射程限界だった。
 大砲ごとに、砲身方位、砲身仰角、火薬量、風向修正など射撃諸元は諳
(そら)んじるほどに熟知している。直ちに勝手知ったる砲撃を開始し、撃ちに撃った。弁天 砲台から放った一弾が旗艦艦橋に命中、大きな爆発を起こし、幾人もの兵がぱらぱらと甲板に落ちるのが遠望された。命中弾が多く出て、甲板、船腹にも爆発をみとめた。旗艦相手に一矢報いたようだった。 
 夕刻、風雨は依然強く、海のうねりは高かった。西の空がわずかに明るくなってくるなか、英艦隊は、前の浜から反転し桜島小池沖に向かうようだった。よく見れば、各艦にそれなりの損傷が見られ、藩士は敵も無傷ではないことを知って、自軍の奮闘の痕跡を心強く思った。
 薩摩方は、虎の子の西洋型蒸気船三隻を焼かれ、砲台の大砲八門を破壊された。火箭筒によって上町の薬種商硫黄庫が火を発し、夜を徹して町は轟々と燃え続けた。大火災ながら、幸いにも、藩の方針で町の民は皆、避難して無人だった。上町全域で、民家三百五十余戸、藩士屋敷百六十余戸が焼失した。
 集成館の各種施設が砲撃を受け、夕刻に火を噴き上げて終夜、燃え盛った。斉彬が情熱を注いで建設した西洋式近代工場や大砲製造所が、反射炉と溶鉱炉を残し全て灰燼に帰した。戦死四人、負傷八人。 
 ――戦
(いっさ)に負けはせんやった。じゃっどん勝ってんおらんやったど
 多くの藩士は口に出さずに、そう思った。 
 明日もやっど、と拳を握る藩士に、遠く海上から風に乗って、嚠喨
(りゅうりょう)と西洋楽が聞こえてきた。聞きなれないが、元気にあふれた明るく快活な調べで、英艦隊が明日の戦意を奮い立たせるためかと思われた。ただ今日の前之浜戦(まえんはまいっさ)の終わったあと、聞きようによっては自ずと心に染み入り、哀愁を帯びた調べだと感じ入る藩士もいた。
 明けて七月三日。薩摩の戦意はいよいよ高かった。未の刻(午後三時)、風雨の勢いも衰え台風一過の晴れ渡った南国の空に英国艦隊は桜島西端辺りの碇泊海域から単縦陣を作って南に航行を始めた。
 昨日の恨みを晴らすためもあってか、桜島袴越砲台や桜島洗出砲台を猛射して通過した。対岸の城下側の砲台にも砲撃を加えた。艦隊は南下し神ノ瀬島を右手前方に眺め、続航して沖ノ小島に向かった。英国艦隊は鹿児島湾に到着した翌日、すでに海深測量隊をこの島に上陸させて調査してあった。砲台があるとは全く報告があがっていなかった。
 突如、単縦陣の先頭をゆくユーリアラスは左前方の島から砲撃を受け、大小の砲弾が次々と飛来した。砲弾の威力は旧式で大したことはなかったが、命中弾を多く受けユーリアラスは離脱するのに精一杯になった。
 昨日の砲撃戦で戦死した艦長と副長の水葬を今朝終えたばかりで、今日また、提督でも失えば大変なことになると皆が思った。
 ――それにしてもサツーマの奴らめ、どういう連中なのだ
 堂々たる七隻編成の英国艦隊がアジア辺境の一小国に、いや、一小国南西部の一侯国にかくもきりきり舞いさせられたなど、あってはならないことだった。
 英国艦隊戦列が沖ノ小島西側真正面に差し掛かると、艦隊からの反撃が正確になって島の砲台に当たるようになった。艦隊は、砲台と砲撃戦を交える意思をなくしていたから、離脱を急ぎ、あっという間に過ぎ去って砲撃戰を終えた。
 英艦隊がやっとの思いで谷山沖に着くと、パーシュスを除き投錨して、艦の修理に取り掛かった。不安な一晩を過ごし、翌日、艦隊は応急処置を終えて呪われたこの湾を出た。一路、横浜に向けて帰航の途につくしかなかった。
 艦隊七隻中、大破一隻、中破二隻、戦死二十人、負傷四十三人。 戦になるとは少しも思わず石炭を満載してこなかったから残炭少なく、これ以上戦いようもなかった。誰が見ても撤退すべきだった。
 旗艦の艦長を失い、横浜港に凱旋するということにはなりそうになかった。本国外務省から何と言ってくるか、議会が外務大臣と海軍大臣に煩
(うるさ)いことを言い立てると思うと、ニールとキューパーは気分が落ち込み始めた。

                             *

 薩摩にあって、誰もが勝ったとは思っていない。再度、侵攻されれば守りようもないと久光以下、藩要路は深刻に現実を直視した。もう戦えないのなら、負けていない今、和議を結ぶしかない。
 薩南の現実主義者たちは即座にこの結論に達し、その手立てを考えるに当たって、はたと困った。京都では攘夷の声に満ちている。薩摩の対英砲撃戦を見事な攘夷とほめそやす無責任な声も盛んと聞く。攘夷一辺倒の世で対英講和を談判するなど、できることではなかった。その後の批判が薩摩藩の命取りになりかねなかった。
 姉小路卿の暗殺事件では、十三日もの間 、藩士が禁裏立入を禁じられたことを忘れてはいなかった。ならば、方針は自ずと決まり、対英交渉を極秘で行い、薩摩が攘夷に反する行動をとっていると噂を立てられないよう細心の注意を払うことにした。
 それだけでは心許ない。薩摩は独自の戦略を立ててことに臨もうとした。 もともと、薩摩は公武合体の挙国体制のもと、開国、貿易を目指してきた。貿易で金を貯え、西洋の科学技術を取り入れれば、強い国となって国を守れる。その方針は、亡き藩主島津斉彬と亡き老中阿部正弘の息のあった盟約にまで遡る。
 井伊の暗殺以降、長州の攘夷急進派が三条らの公家と結びつき、朝廷を壟断する事態に陥った。攘夷一色の世論によって、久光には全く気に入らない状況となり、長州への不快感はもはや耐えがたかった。
 久光は、英国と講和談判を進めるかたわら、兵を率いて上京し、攘夷急進派を排除し通商条約容認へ国是を大転換する策を構想した。昨年夏には自ら、大原勅使の護衛となって率兵上府をやり、幕政改革を幕府に呑ませた実績がある。近い先例には小笠原の率兵上京が念頭にあった。兵諫の有効なことはよく知っている。
 京都藩邸からの報告によると、長州は、あろうことか、六月末に小倉藩領の田ノ浦を一方的に占領し、勝手に砲台まで築くに到ったという。仏艦隊が田ノ浦沖に碇泊しても小倉藩は何もしなかったこと、仏艦隊の兵に上陸され、おろおろ敗走する姿を小倉藩に見られたことに腹を立て感情的になったのも、小倉藩に理不尽を仕掛ける一因かもしれないと報じてあった。
 久光は、長州の異国船砲撃が欧米の反撃を誘発し、結局、沿岸地の砲台をつぶされ陸戦隊に上陸されて惨敗したことを知った。
 ――長州とて攘夷一本鎗で欧米に勝てはせんど。されば、我が兵で京都から長州ん奴らを追出してんよかじゃらせんか
 対英講和と開国への国是大転換は表裏一体、互いによき効果を及ぼし合う戦略だった。英国を惹き寄せる策に違いない。久光は長州との戦も考慮にいれながら、有能な家臣に恵まれたことを強く自覚した。

 京都では姉小路卿の暗殺嫌疑が薩摩藩から一応、晴れた。薩摩藩邸で胸をなでおろしていると、今度は、中川宮が責められ始めたた。六月二十二日には中川宮家の家司二人が姉小路卿暗殺に関係したとの容疑で、御親兵に拘束された。しかも勅命に基づく処置だという。帝がそんな命を下すはずがなかった。
 藩邸で調べると、三条が近衛忠房に、姉小路暗殺は薩摩藩の仕業とは断定できず、中川宮の姦計によるものかもしれないと 語ったという。三条が勅命と称する文書を都合よく発出することは今に始まったことではない。
 三条は姉小路の暗殺を政治的に最大限利用しようと策動するかのようだった。薩摩が嫌疑をかけられ打撃を被ったように、次の目障り中川宮を排除する策を実行し始めたものらしかった。三条らの策は、中川宮への威嚇であり、近衞ら穏健な攘夷実行慎重派への圧力であり、帝への恫喝だとみることができそうだった。
 薩摩藩邸は直ちに状況を書状 にしたため国許に急送した。近衛と中川宮は帝の信任篤い重臣、近衞家は藩主縁戚である。中川宮は薩摩藩の有力な代弁者で、京都における久光名代として緊急の事態に応じ薩摩藩邸に指示を下してよいことになっていた。 是が非でも薩摩が守らなければならない人物だった。
 薩摩藩邸は、わずかな音も逃すまいと耳を澄ませるように情勢を監視し続けた。三条らは、攘夷親征という大きな目標に向けて画策を重ねているようだった。急進派の東園基敬や公知の叔父、滋野井実在らが攘夷親征の布告を願う旨、上書したのは七月四日。
 翌日には、国事御用掛の 近衞忠煕、二条斉敬、德大寺公純、近衞忠房が連署して、親征は極めて重大事、至急、諸大名を召して衆議を徴せられたしと上書し返し、急進派の攘夷親征案に素早く反対した。 
 この日、藩邸から、薩摩が英国艦隊と砲撃戦を戦った詳細を朝廷に伝えた。朝廷は喜び、直ちに藩主島津茂久に宛てて褒賞の沙汰書を下賜する運びとなった。

     叡感斜めならず。いよいよ勉励これあり
     皇國の武威海外に輝かすべきよう御沙汰候事

 薩摩の評判が一気に上がったため、長州と結託した急進派公家は強い焦りを覚えた。翌日六日には、国事寄人の滋野井実存、東園基敬、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼德、澤宣嘉が連署して、攘夷実行を幕府に委任するは不可、速やかに攘夷親征を天下に布告し人心の一致を図るよう建言してきた。
 上書によって、一方は攘夷親征をやってはならないと言い、他方はやらなければならないと言い、双方、自説を言い合うだけの泥沼の事態に陥った。
 攘夷をやればこのような結果をもたらすと、長州藩が被害状況を明らかにすることはなかった。米艦と仏艦によって、砲台を潰され、軍艦を沈められ、沿岸部に上陸され、侵入を受けて村里、寺社を焼かれたと言えるはずがなかった。薩摩にしても、もうこれ以上は戦えず対英講和交渉の道を探っているとは口が裂けても言えなかった。
 同じく異国船によって手酷い損害を受けた者でも、長州は攘夷親征を手始めに、この道をさらに突き進むべしと言い、薩摩は開国貿易への国策大転換を図り、攘夷の道を止めると秘かに企図しはじめた。成敗を問わずやるべきことを猛進する精神主義者と、事態を冷徹に見る現実主義者の違いが大きく現れたようにみえた。
 七月十一日には、長州藩士が兵を率いて入京してきた。 翌、十二日には、親征のために長州藩主毛利慶親と薩摩国父島津久光に上京を促すことになったが、間もなく、久光は召命しないと朝議で決まった。三条らが久光に上京してほしいはずがなかった。
 長州と薩摩の表に現れない戦いは、公家によって争われ、薩摩側を好ましいと見る天皇の叡慮や公家の意見は全く顧みられなくなった。朝廷は全く壟断されていた。
 十九日、朝廷は在京大名に、攘夷親征について意見を聞くことにし、池田慶德(因州鳥取藩主、徳川斉昭五男)、池田茂政(岡山藩主、斉昭九男)、上杉斉憲(米澤藩主)、阿部正方(福山藩主)、山内兵之助(土佐藩主名代、容堂弟)、蜂須賀茂韶
(もちあき)(徳島藩世子)、らを召した。
 朝廷の問いかけ自体が攘夷急進派の立場に立っていた。幕府は勅命を拝領していながら攘夷を実行せず、長州が先陣を切って攘夷砲撃を実行したのに、これに続く諸藩が現れない。されば、今ここに、御親征を実行し親しく大令を発せられようとしていると現実を振り返り、そのために方略を議し、奏聞せよと命じた。しばらく沈黙が続き大名が発言に躊躇していることが見てとれた。
 長い無言の時が過ぎ、これでは、と思ったのであろう、因州鳥取藩主池田慶德が口を開いた。
「御親征と言われる以上は、諸卿も従軍されると存ずるが、各々方は、戦仕度のご準備宜しいか」
 このひと言で、公卿らは返す言葉に窮して黙ってしまった。
「そもそも、出征とはどのようなことか、おわかりか」
 その筋の者があとでこっそり、薩摩に伝えてくれたところでは、座には気味悪い静寂が漂い、公家らの気勢が陰にこもった気まずい敵意となって沈潜していくようだったらしい。池田はしばらく公家の答えを待つ風だったが、沈黙が長く続くので、さらに意見を述べたという。
「まず、戦がどのようなものか、お知りになることが先決でござろう。大砲の音がどれほどのものか、軍装がどれほど重いのか、御存知なければ出征の方略など立てようもござらぬ」
 いやな沈黙がさらに続いた。 
「幸い、京都には守護職松平殿の会津藩兵一千がおりまする。松平殿に馬揃えをお命じになり、陣の繰り引きなり、軍装のありようなり、一度、とくとご覧になられれば宜しいのではないかと存ずる」
 こう言って、池田が座を下がる前に、余計なひとことを言い残した。
「空砲でよいから会津藩に大砲を撃ってもらえば、いかほどの音がするのかよくおわかりになられようと存ずる。味方の大砲の音に腰を抜かしては、御親征軍といえども負けまするでの」
 冷笑に近かったらしい。

 七月二十四日、武家伝奏、大納言飛鳥井雅典は容保に勅を伝え、来る二十八日、御所建春門前にて天覧の馬揃えを行うよう命じてきた。雨天順延を許すという。飛鳥井は武家伝奏になって間もないせいか、罷り越した会津家臣が黙って勅を承る間も、居心地悪そうに上ずった声だった。
 飛鳥井は最後に、馬揃えに条件を付けた。銃は撃ってはならず、大砲は装弾の型も演じてはならないという。
 秋雨が二十八日から降り始め、三十日 になっても降り続いていた。
 ――今日も延期どなるが……
 会津藩士が思っていると、本日直ちに馬揃えを実施せよと急遽、朝廷から使いが来た。朝廷と会津藩のやりとりの往復で未の刻(午後二時) を過ぎ、容保は急遽、藩士の集合を命じた。
 速やかに軍装を整え、雨降る中、会津兵が建春門前に陣立てを終えた。甲冑に身を固めた軍勢が整然と並ぶ前に、容保が馬上現れた。 正月二日、初めての帝の拝謁の場で賜った緋の御衣を陣羽織に仕立て、甲冑の上にはおった姿に、藩士一同、志気を高めた。
 容保が采配をさっと揮うと、藩兵たちが、鉦、太鼓を叩き、法螺貝を吹き立てるや、五方旗を立て、参内傘の馬標
(うまじるし)も高々と皇八幡宮加茂皇大神の御神旗とともに行進を始めた。
 藩主在国の年は必ず広大な大野ヶ原で長沼流の操練を実施し武威を鍛えて来たのが会津藩である。六十年を超える年月に、鍛え、積み上げた繰り引きの練兵には言いようもない重みがあった。甲冑の摺り音や水たまりを踏む音、馬の嘶
(いなな)き、旗風の音が混然と建春門外の広場に満ち、緊迫した迫力が辺りを払った。絶えて帝や公家の見ぬものだった。
 容保の揮う采配一つで、一糸乱れぬ陣の繰り引きが展開し、右の陣と左の陣が息の合った進退を繰り広げた。この兵の力を敵に向けた突破力はいかばかりかと思われた。日没まであっという間に過ぎ、暮色蒼然たる雨中のなかに篝火が設けられた。
 火が闇の間にちらちら耀
(かがよ)う中、精強な軍勢が躍動した。急な下命に応えて出陣し、練度高く英気鋭い藩兵の動きに帝と公家は声も出ず、ひたすら見入るばかりだった。
 雨天順延のところ、実施するよう突然に命じ、会津藩に慌てふためかせようという公家たちの悪だくみは無駄に終わった。 それどころか、これほどの大規模な調練をあっと云う間に整え、見事に遂行して見せた会津藩に帝は感心し、調練を見つめる眼差しは熱気を帯びていた。公家たちが、会津藩の用意周到ぶりをかえって際立たせることになってしまった。






佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第四章「名残りのほととぎす-公知」十三節「薩南の機略」(無料公開版)









 

十四 天覧に供す 次を読む 前に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 次第に闇が深まり、篝火(かがりび)の下、兵の動きが見えにくくなった。帝から、今日はここに止め他日再び挙行すべしと命があって、この日、雨中の馬揃えは終わった。帝から、急な下命に応じて軍を整えたことを特に嘉賞され、会津藩が兵を引いて還ったのはすでに二更(午後十時から十二時)になっていた。この夜、容保は過労に倒れた。

 翌八月朔日、容保が召されたが、代理の中条信礼が参内し、伝奏から叡旨を伝えられた。

 

       馬揃雨天順延の旨、御沙汰の処、俄かに御覧あそばさるべき旨仰せ

       出でられ、早速陣列相調べ備え叡覧御満足に候。従来の軍備熟練、

       御感に候。これに依りて目録の通りこれを賜い候事。

 

 目録には大和錦二巻、白金二百枚とあった。容保は即座に賜銀を家臣に分与し、その心に酬いることを忘れなかった。君臣一体、これが会津藩の強みだった。

 そのあと、藩士の松坂三内が私的に大蔵卿の豊岡隋資(あやすけ)を訪ね、操練中に銃発砲と大砲装填演習を禁じた理由を聞いてきた。この最強硬攘夷派から驚くべき回答が返ってきた。会津の士は強悍、或いは勢いに乗じ実弾を撃つを恐れると豊岡が言ったというのである。これを伝え聞いて因州鳥取藩の池田慶徳は、歯ぎしりした。

「何を言うておる。練兵を為すに発砲せずんば、絶えて気勢なしの理(ことわり)を知らぬか」

 池田は馬揃を言い出したいきさつもあって、朝廷に申し入れ、ようやく数発の空砲を許された。容保は、攘夷急進派の廷臣からいかに会津藩が警戒され恐れられているか、はっきりわかった。

 八月五日、会津藩は再び馬揃えを命じられた。容保は賜ったばかりの大和錦で陣羽織を仕立て、指揮にあたった。馬揃えは午の刻(正午)から始まり、陽天の下、軍勢の一糸乱れぬ調練は、日頃の鍛練を物語っていた。

 容保が、普段から押しつけがましい言い方をせず、奥ゆかしく控えて落ち着き払っているのも、藩主として家臣のこうした鍛錬に自信を持っているからだろうと、扇の裏で隣の者とひそひそ語る廷臣もいた。

 会津藩のあとに続き、小規模ながら、鳥取藩池田家、岡山藩池田家、米沢藩上杉家、徳島藩蜂須賀家が調練を披露した。

 夜に入り、帝は特に容保を召し、軍装のまま参殿することを許した。階下まで罷(まか)り越した容保は、伝奏野宮定功から、本日の労苦を慰し練兵の習熟を賞せられると告げられた。

 褒賞は水干鞍(すいかんぐら)と金三枚だった。光栄なことだったが、容保がそれ以上に嬉しく思ったのは帝から親しく、篤い信頼を寄せるお言葉を賜ったことだった。

 

                            *

 

 この時期、薩摩藩邸にはまとまった兵もおらず、少数の幹部藩士が留守を預かっているだけだった。その中に美しい言の葉の世界を追い求める薩摩藩士がいた。なかなか弁が立ち、明晰な口調に説得力があった。一旦心の中を染み通って出てくるような言葉遣いで物事を簡潔に語り、聴く者に確かな信頼感を与えた。和歌の道を極めた素養がこんなところに現れるものかと、同僚から思われていた。名を高崎正風(まさかぜ)、通称、左太郎といった。

 生い立ちは酷烈だった。世子斉彬と庶弟久光のいずれが家督を継ぐべきかを争った島津家御家騒動のさなか、斉彬の襲封を画策したとして舟奉行格御家老座書役奥掛、高崎五郎右衛門は同志と共に出頭を命じられ即日、切腹となった。左太郎の父である。この騒ぎはお由羅騒動とも高崎崩れとも呼ばれ、久光でなく斉彬こそが藩主に相応しいと運動する諸士が弾圧された事件だった。

 十五歳の左太郎は、そのとばっちりで奄美大島に流刑となった。十七で許され鹿児島に戻ったが、士分に復籍することは許されず、苗字を名乗れないまま、歌の天分を見出してくれた藩士八田知紀の弟子になった。

 八田は若い頃、香川景樹に師事し桂園派高弟に上った歌読みだった。歌風は、平易な表現でたおやかな声調を重んじ、清明な風格を目指した。十年間、左太郎は和歌に親しんだ。

 文久二年(一八六二)二月、左太郎は二十七歳にして祖父の家督を継承し士分復籍を許された。晴れて高崎姓を名乗れるようになった喜びを嚙みしめた。左太郎は久光に随分と気に入られ、とんとん拍子に重い任務を仰せつかった。

 左太郎の父には、お由羅騒動の因縁があった。しかし、斉彬亡き後に久光が藩政の実権を握るのは当然だと思った。左太郎は何のわだかまりもなく、久光に心から忠誠を尽くつもりだった。

 左太郎が桂園派の和歌に熟達していることは、久光に気に入られる要因にもなった。左太郎は、久光が全てを己の統制下におくことを好むと見て取り、久光に細かく報告して指示を仰ぐ姿勢を常に見せたから、次第に信頼を得るようになった。もう逼塞の日々はこりごりだった。

 この年、左太郎は久光の率兵上京に先行して京都に入った。そこで有馬新七ら攘夷志士らの恐るべき計画を察知した。どうやら、関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義を襲撃し、その首を久光に献じて薩摩藩の蜂起を促すということのようだった。

 左太郎は迷わず久光に告げた。久光が看過するはずはなく寺田屋騒動となって有馬らは上意討ちにあって死んだ。薩摩藩士によって京都の町にとんでもない騒擾の起こるのを久光が未然に防いだことになった。

 左太郎は久光につき従って江戸に行き、京都に戻ってきて、閏八月十二日、初めて中川宮に面識を得た。その後、中川宮との連絡掛を卒なく務め、宮と親しさを増すなかで自詠を謹呈する機会があった。

 

     九重(ここのえ)の雲井のきくを折りかざす

            今日ぞわが世のさかりなるらん

 

 左太郎の巧みさは中川宮を驚かせた。九重、雲、菊、かざす、とカ行の音が歯切れよく響き、下の句のなだらかな声調に巧みにつながっていく。清く明るい言葉が、たおやかな情緒を漂わせ、帝の繁栄を寿ぐ重陽の菊の節句と綺麗にあい和す味わいが秀逸だった。左太郎は知らなかったが、中川宮は帝に見せ、賞賛をえた歌だった。

 左太郎は、中川宮との連絡掛に止まらず、長州の久坂や土佐の武市を始め各藩との折衝役をこなし諸藩の動きをそれとなく、鋭く監視した。薩摩の方針はあくまで開国通商だから、他藩の攘夷志士との付き合いは機転の利く者でなければつとまらない。

 薩英戦争中は国許に戻り使い番に任じた。七月二十三日、左太郎は国許から京都に戻り、直ちに近衞邸に参殿して英国艦隊との砲撃戦の詳細を伝えた。朝廷要人に的確に藩意を伝えられる者と見做され重じられていた。

 中川宮にも伺候して砲撃戦の様子を伝えたが、宮は三条らから圧迫され、すっかり元気を失っていた。宮を御救い申せと国許から下命され、左太郎は何か知恵を絞らなければならなかった。

 八月九日、左太郎は、急ぐ様子で藩邸を訪ねてきた武田信発と会った。中川宮家諸大夫である。武田は青ざめ息をするのも苦しそうだった。高崎が話を聞くと武田の尋常ならざる様子も無理からぬことだった。中川宮が突然、西国鎮撫大将軍に任命されたという。宮は勅旨を受取って呆然となり、わずかに呟いたらしい。

 ――麿に、小倉藩を討てちゅうことか。長州と一緒になって異国船に大砲を撃たへんかった罪を問えちゅうことか

 武田は宮の命を受け、直ちに薩摩藩邸に飛んできたのだという。

 高崎は、この任命は容易ならざる奸計であり、直ちにお断りするよう回答し、ひとまず武田を帰した。いよいよ中川宮を九州に追いやる陥穽から救わなければならない。それには兵がいる。

 この時期、薩摩藩邸には百五十ほどの兵しかいない。長州は二千を超える兵を京都にいれたとの観測もあって、はっきりしない。もしそうなら薩摩は実に心細い情況だった。兵の不足をどうするか、高崎にはやらねばならぬことが山のようにあった。

 十二日、高崎は召しに応じて中川宮邸に伺候した。宮は苛立ち狼狽(うろた)えた様子で、高崎の挨拶もそこそこに性急に訊ねてきた。

「どないしたらええねん。小倉藩征伐なんてできる道理があらへんやろ」

「お言葉んとおりにごわす。こんた三条ん仕組んだ姦策にごわすりゃ、覚悟(かっご)をもって臨まんにゃなりもはん」

「覚悟というても、どないな覚悟やねん。あまり手荒なことはできひんし、やるべきでもあらへんやろ」

 高崎の言葉の勢いに、宮は少しなりとも怯える様子だった。

「そこででごわす。三条んやり口は見っに堪えもはんせぇ、宮んご承諾をいただき、こいを除(のぞ)っ策があっか、考えてみんにゃなりもはん。もはや緩(ゆる)か手を打つ段は過ぎちょっち思わんにゃなりもはんで」

 宮は前々日、帝に拝謁し、西国鎮撫大将軍を断りたいとお口添えを頼んだところ、帝は何かに怯えるようで、埒が明かなかったことをあらためて左太郎は縷々(るる)聞かされた。もう頼りになるのは薩摩しかいないと、宮から繰り返し言われ、左太郎の策を待つと頼まれた。

 そんな状況下、政変の謀略が成立する筈がなかった。政変には兵がどうしても必要になる。ただ、左太郎には一つ、秘策があった。藩邸留守居役には秘密を保って国許の久光から直接命を受け、奈良原幸五郎と二人のみで動いている。左太郎の秘策はすでに久光の許しをえてあった。

 十三日早朝、左太郎は会津藩の秋月悌二郎に会いにいった。会ったことはない。かつて藩士の重野厚之丞安繹(やすつぐ)や大山格之助綱良が江戸の昌平黌に出入りしていたころ、留学中の秋月と面識を得たという話だけが頼りである。国許で二人から、秋月はなかなかの人物であると聞かされたことを覚えていた。あの秋月なら語るに足ると目星をつけた相手だった。

 

 朝、随分と早く、三本木の会津藩公用局に薩摩藩高崎左太郎を名乗る者が訪ねてくると、秋月悌次郎、広澤富次郎、大野英馬、柴秀治が応対した。朝から薩摩藩が何を言ってくるのかと身構えて座敷に居並んで挨拶を交わすと、高崎は、驚くような話を始めた。

「近頃、よう大和行幸ん話をお聞きにならるっち思いもす。そいが本日間もなく、お触れ出しにならるっどん、こんた真木和泉や長州人が三条一派と結託した恐るべき謀略でごわす。こん詔勅は偽勅も偽勅、帝は御親征などお嫌(き)れでおいでじゃっと聞いちょいもす」

「……」

「御親征行幸ん途上、俄(にわ)かに公卿、大名に詔(みことのり)を発して関東に下らしめ、天下に号令せんとすっ陰謀でごわす」

 秋月は高崎の話を聞いて驚きはしたが、心のどこかで、さもありなんという気がした。容保公も偽勅が横行し帝の御真意がわからないと、よく慨嘆されていることを知っている。もはや詔勅など信ずるに足らぬことに成り果てたのが昨今の京都だった。

「国事掛ん過激ん輩(やから)が、堂上を脅し上げ叡慮を私(わたくし)に矯(た)むっ以上、非常ん手段ん外(ほか)、道はなかと弊藩は心を決めもした。貴藩は守護職にて責任んあっお立場、しかも兵力を十分にお持ちち聞いちょいもす。兵を持った大名で君側を清むっ任にあたるったぁ、貴藩と弊藩んほかにはおいもはん」

「……」

「じゃっどん、今、我が藩では、皆が国許に帰っちょって、兵がわずかしかおいもはん。貴藩には、こん大事に共に当たらんこっお考えくださらんか。貴藩が応じてくださらんときは、弊藩独力にてこれに当たっ覚悟(かっご)でごわす」

「……」

 余りの提案に、会津藩側の沈黙はしばらく続いた。そのあと、驚いた表情を消し去り、左太郎が久光の内意をえていることを確かめ、さらに具体策を尋ねた。左太郎の語った策は、中川宮に中心に立っていただき、帝に攘夷急進派一掃の計画を説得し、真の詔勅を賜るという段取りだった。その上で御所九門を兵に守らせて厳に閉ざし、攘夷急進派を御所から隔てる態勢を取る。

 ――我が藩ではごうはいがねべ。我が藩が京都さ縁戚持(も)だねえのど違って、薩摩は近衞家ど親戚筋で、中川宮ども親しいど聞ぐ。こんじは上手(うま)ぐいぎそだ。薩摩の話に乗っでみでもいいのではねえが

 秋月は、武力を行使して攘夷急進派を一掃しようと会津藩が幾度も考えてきたことを振り返った。それだけではない。五月から六月にかけて大仕掛けな老中小笠原図書頭の率兵上京の試みもあった。

 されど、会津藩や小笠原の計画案では、朝廷内で計画を取りまとめ調整できる人物を欠くため、成功は覚束ないと断念してきた。朝廷内のとりまとめ役は命がけの仕事になる。そんな人物を欠いたまま計画を強行して、失敗するくらいなら、やらぬ方がよほどましだった。

 ――とごろが、今度の話は違う。中川宮も近衞前関白も大筋では賛同してるづ。中川宮は三条らに追い詰められ、必死になられでんだべ。早速(そっそぐ)、殿にお伝えしねっかならねべ

 秋月は、左太郎の語り口が方言を越えて美しい誠を含んでいるように思われ、この薩摩人を信じる気になった。ひとまず高崎に引き取らせ、早々に三本木の藩邸を発って黒谷の金戒光明寺に急いだ。

 容保は秋月の話を聞いて即断した。秋月は容保がここ数日間に耳にした話を聞かされ、中川宮が苦しい立場に追い詰められているらしいと知った。西国鎮撫大将軍の任命案件は宮を京都から追い払う悪謀だという。

 その宮が身を守るため、逆に三条の追い落としに乗り出すという話は現実味があると容保は言った。

「宮もこの局面では命がけにならざるを得まい。兵を擁し協力する大名を求めておいでなのだ」

 秋月にそう語る容保は、何らかの確信をえたようだった。早速、秋月は宮の許に参るよう命じられた。

「ほかには、前関白近衞公と右大臣二条斉敬(なりゆき)公にお話し申し上げることになろう。前関白殿には親類筋の薩摩が話を通しやすかろうし、そうなれば、右府殿には我が藩からお話申し上げよう」

 容保はてきぱきと秋月に指示を与えた。最後に秋月が上申した。

「八日さ、あらだに一陣四隊の兵が交代のだめ国許から京都さ到着いだしております。国さ帰る一陣は十一日さ出達し、まだ二日しか経っておりませぬ故、これさ呼び戻すのがよいど存じます」」

「されば、二陣八隊、計二千の兵が京に揃うわけじゃな。よかろう、手配せよ」

「ははーっ」

 秋月は高崎と同道し中川宮家を訪ね、諸大夫の武田と話をした。武田は、宮もお喜びですと言って、最後に付け足した。帝は数日続くご神事の最中で、いまだ僧形姿の宮がお近づきになることは宮中の禁忌とされるという。宮が帝に拝謁を賜るのは、十六日以降にならざるをえないとのことだった。 

 

 この日、左太郎が語っていたように、御親征の勅が出された。攘夷御祈願の為、大和の国へ行幸し、神武天皇陵と春日神社を参拝し、暫らく逗留して軍議し、伊勢神宮にも参るという。さらに加賀藩、薩摩藩、仙台藩ら六諸侯に金三十万両を献じよと命じてあった。この詔勅の帝に非ざる発出者は、六藩の周章狼狽など構いつけるつもりはなさそうだった。

 この夜、中川宮から書状を受取って、協力を依頼された会津藩と薩摩藩は、翌日、秋月悌次郎、広澤安任が高崎左太郎と奈良原幸五郎と極秘に集まって、これからの行動計画を打合せた。

 

 

 

 



佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第四章「名残りのほととぎす-公知」十四節「天覧に供す」(無料公開版)


 

 

 

 

 

十五 八月十八日夜雨  前に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 文久三年(一八六三)八月十六日、まだ夜明けに程ある頃、中川宮から連絡を受け、会津の秋月、広澤ら、薩摩の高崎、奈良原は唐門前の会津藩幕舎に身を潜め、中川宮の参内を待っていた。宮の考えでは、寅の刻(午前四時)に参内すれば、攘夷急進派の公家から見咎められることもあるまいということだった。

 寅の刻になっても宮の姿は見えず、待って待って、ついに、日が昇って公家らがぼつぼつ参内し始め、かなり立ったころ、宮のお乗物が玉砂利を踏んで参内されてきた。辰の刻(午前八時)だった。半刻(一時間)ほどたって、宮は退出してこられた。待っていた会津、薩摩の皆は事破れたかと生きた心地がしなかった。

 皆が宮の屋敷に行くと、武田相模を通じて、主上は時期早尚ゆえ後の機会を待とうと仰せだったと、今朝の拝謁の様子を伝えてきた。帝は自らの勅命による謀議にしたくないとの思いが強く、こと破れた場合の恐ろしさに立ち竦(すく)んでおられるらしい。

 帝からこうした対応を受けて、宮はふて寝でもしているのだろうと見当がついた。宮にしてみれば西国鎮撫大将軍を無理に押し付けられ長州に下らざるをえなくなる。秋月と高崎は宮に会えなかった。

 翌十七日、宮が、もはや手の打ちようもないと諦観の思いの募る頃、二条右大臣から激励があって、あきらめてはならないと中川宮を奮い立たせた。宮は気持ちを取り直し、二条と二人して、近衞父子、德大寺内大臣と計らい、謀議決行当日の受持ち部署まで決めた。ただ、長州に漏れるのを怖れ、関白鷹司輔熙にだけには計画を伝えなかった。

 二条公の主張で、今宵(こよい)子の半刻(十八日午前一時)に再度、宮が参内することを決めた。その決定のあと、偶然にも、帝から宮に相談があるから来てほしいと書状が届き、宮は返書に、子の半刻と申し送った。早速、宮は京都守護職松平容保と京都所司代稲葉正邦(淀藩十万二千石藩主)に書状をしたため、子の半刻に手勢を率いて参内するよう伝えた。

 子の半刻、参内第一着は容保、すぐ後に中川宮、続いて二条右大臣と近衞父子、稲葉所司代、最後は德大寺内大臣が参着した。宮は皆が見守る中、禁裏の中に入っていった。

 さほどの時間も経(た)たず、議奏加勢の葉室大弁宰相の名で勅命が下された。それによると、御所九門を固く鎖(とざ)し、許された者以外、入れてはならないと厳命してあった。許された者とは、守護職、所司代、因州、備前、阿波、米沢。

 反対に、決して入るを許さずと名指しされたのは、三条実美、三条西季知、東久世道禧(みちとみ)、壬生基修(もとなが)、四条隆謌(たかうた)、錦小路頼徳、澤宣嘉(のぶよし)、德大寺実則、長谷信篤、豊岡随資(あやすけ)、滋野井実在(さねあり)、烏丸光徳(みつえ)、東園基敬(もとたか)の十三人だった。帝の怒りが誰に向いているか、誰の目にも明らかとなった。

 明け方、朝命によって、因州侯、備前侯、阿波世子、米沢侯、土佐藩前藩主弟の五人を召し、続いて在京諸大名全員に参内の命を下した。手筈通りである。中川宮は、早速、次の勅旨を宣した。

 

     此頃、議奏並びに国事掛の輩、長州主張の暴論に従ひ、叡慮に

     あらせられざることを御沙汰の由に申し候(そうろう)事、少なからず

 

 長州の名をあげ、偽勅の悪事を公然と指摘した。それだけではない。このあとの文面で、御親征行幸の偽勅に至っては逆鱗少なからず、と最も強く糾弾した。当然、行幸は中止と見られた。

 

      議奏並びに国事掛の輩、長州の容易ならざる企てに同意し聖上へ

      迫り奉(たてまつ)り候(そうろう)は、不忠の至りにつき、三条中納言はじめ、

      追って取調べ相成るべく、先ず禁足他人面会止(とど)められ候事

 

 これで三条はじめ議奏、国事掛の二十余人の攘夷活動が停止させられた。

 宮中で評議が開かれ、長州藩の堺町御門守衛の解任が決まった。この門は九条邸と鷹司邸の間の道に建つ門で、長州にとって鷹司邸に接する好立地で攘夷急進派の拠点だった。三条は配下の御親兵と諸浪士併せて二千を率い鷹司邸に来て、勅命を拒む体を見せた。

 午後、執次(とりつぎ)の鳥山三河守が堺町御門に遣わされ、長州の守衛役を解任し所司代の兵に替えようとしても、長州藩は抵抗の色を示した。鷹司邸から兵が応援に出て一帯に不穏な空気が流れた。会津兵とわずかな薩摩兵が駆け付け長州勢に向けて陣列を布いた。薩摩勢は全ての藩兵を動員してもわずか百五十に過ぎず、兵数の少なさを補うためか、六門の大砲をごろごろ引き具して来て門前に砲列を布いた。長州方との睨み合いが始まった。

 朝議では、鷹司が長州兵は三万にも及ぶと発言したため公家たちが動揺し、会津軍勢の兵数をしきりに気にし始めた。容保が二千とありのままに答えて、却って不安を募(つの)らせたのかもしれなかった。容保は、軍事知識を欠くいわゆる教養人のひ弱さを改めて認識した。

 そのひ弱さゆえに幾回も混乱が起こり、謀議が失敗かと危ぶまれる場面があった。そうした中、米沢藩主上杉斉憲が堺町御門に説諭に遣わされた。結局、長州勢二千六百は、攘夷の先鋒となる、と書置きを残して堺町御門から撤退し、東山の妙法院に立て籠もった。

 長州勢は会津藩の襲撃がないことを見極め、未明になって二千余が長州に落ちていった。特に名指しで九門の通行を禁じられた十三人の公家のうち、三条、三条西、東久世、壬生、四条、錦小路、澤の七卿が同行した。長州行きの名目は攘夷先鋒と言うが、その実は違勅の徒が罪の軽からざるを自覚して罰を恐れて逃げるためだった 。官位剥奪で済めば儲けものだった。

 一行は、雨が降りしきり冷気の募るなか、襠高袴(まちだかばかま)に白木綿の鉢巻、剣を帯びて草鞋(わらじ)をうがち、蓑笠の雨仕度で蹌踉(そうろう)と落ちていった。ぬかるみの中、濡れそぼって体の芯まで冷え、時に弱音が出そうな行軍だった。

 

     世は刈り菰(かりこも)と 乱れつつ

     茜(あかね)さす日の いと暗く

     瀬見の小川に 霧立ちて

     へだての雲とは なりにけり 

 

 つらい行軍中、哀調を湛え七五調を延々と即吟するのは久坂玄瑞だった。奥歯を噛みしめながら、かっと見開いた眼(まなこ)に松明の炎(ほむら)がちらちらと映じ、捲土重来を誓ったことが見て取れた。

 

                         *

 

 容保は、長州勢が妙法院から落ち延びて行ったと聞くと、まずはほっと安堵した。戦を起こさず京都から長州勢を一掃し、政変は成功した。京都から非を遠ざけ理の通る治世を回復したということだった。

 容保は十八日深夜に召されて以来、宮中に伺候を続けた。十八日は子の半刻の真夜中から緊張を強いられ、朝、勅命が下って三条ら攘夷急進派が御所九門を差し止めになった。

 堺町御門では一触即発の険しい状況に到ったが、結局、長州勢が引き上げていった。ついに長州に落ちていったことが十九日朝、明らかとなり、山積する後始末に関わって夜に到った。

 容保は、今日一日を振り返るうちに、この一年間が頭の中を駆け廻るように思い出された。寝ていないため疲れを感ずるが、目が冴えて少しも眠気を感じなかった。丁度一年前の八月十八日、高須の実父義建の最期の病床を見舞ってきた。その少し前に父から届いた返歌で、京都で守護職を全うし勲功(いさお)をたてよと励ましてくれた。今でも諳(そら)んずることができる。

 

     親の名ハよしたてつとも 君の為め 

             いさをあらはせ九重(ここのえ)の内

 

 その二日後、父が身罷(みまか)ったことを想い起こした。

 ――明日二十日は亡き父上の一周忌じゃ

 その一方で、江戸上屋敷で国家老も入れて主だった家臣と京都守護職を受諾すると決めた日でもあった。大激論の末ひどく辛い決断を下したことを今猶(なお)忘れてはいない。それが一年たった昨日の政変につながった。

 ――今日で治安悪化に一区切りがつくとは言えまい

 容保は帝から労わりの言葉を聞き、黒谷では禁裏から遠いので中立売門内北側の施薬院を仮の住まいに宛てよと屋敷を賜った。容保は、丸二昼夜を寝ずに宮中から下がり、家臣から強く言われて、初めて横になった。二晩の徹夜を経て憔悴した顔から寝息が立つのに幾許(いくばく)もかからなかった。 

 

 八月十九日、政変の翌日、朝廷から容保と所司代の稲葉正邦に攘夷実行を督促する命が下ったことに、在京諸侯は朝廷の真意を訝(いぶか)しんだ。

 ――攘夷の勢いを押しとどめるための政変ではなかったのか

 帝にすれば、政変によって攘夷を捨て去り開国に改めたと思われることを恐れたものらしかった。性急に求めるではないにせよ、攘夷達成の御心は変わっていなかった。

 二十六日になると、帝は在京諸侯に対し、今までの勅命は真偽不明のものであり、政変後に出された勅命こそが真の勅命であると御宸翰を下した。これまで全ての勅命をなかったものとせよと言うに等しかった。偽勅の横行を公に認めるにも似て、勅命の権威が地に堕ちたが、止むを得ない処置とも言えた。

 十月三日、勅命に応じて島津久光がようやく上京してきた。二日後、久光から容保の屋敷に重臣が遣わされ八月十八日の政変で、大層世話になった旨、篤く礼を述べにきた。それまでに藩士同士の間柄は親しくなったが、この日以降、容保は久光と会い、互いに行き来して交誼を深めた。領国は会津と薩摩、遠く離れているが、会ってみると、どことなく尚武、忠義の気風に通ずるものがあった。

 十月九日、容保は二条右大臣斉敬に招かれた。今出川北門から一町東の二条屋敷に行くと、挨拶を交わしたのち、二条の指示で左右の者が下がり、容保は二条と二人きりで相対した。何事かと心を引き締めていると、二条から話があった。

 その大意は、先の政変では卿の指揮宜しきを得て速やかに騒ぎを鎮静し、深く叡感あらせられて重く賞賜したい叡慮であるが、卿のみに賞賜があれば却って物議を生じかねないことを恐れ、予からひそかに宸筆の御書と御製を代わって下しおきたいということだった。

 ごくごく秘密の御内賞だから表立って御礼などは堅く慎み秘密を守るようにと念を押され、二条から親しく御書と御製を伝えられた。

 

      堂上以下、暴論をつらね不正の処置増長につき痛心堪えがたく、

      内命を下せしところ、速やかに領掌し、憂患掃攘、朕の存念貫徹

      の段、まったくその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱これを

      遣わすもの也

             文久三年十月九日

 

 御書に添えられた箱の蓋を取れば、御製が入っていた。

 

         たやすからざる世に武士(もののふ)の忠誠の心を喜びてよめる

      和らく(ぐ)も武(たけ)き心も相生(あいおい)

                松の落葉のあらす(ず)栄えん

      武士(もののふ)と心あはしていはほをも

                貫きてまし世々の思ひで

 

 穏やかな和らぎの心と剛毅な強い心を相生(あいおい)の松のように二つながらに具(そな)えていると会津武士道の精神性を褒め、落葉がないほど掃き清められて松(松平)は栄えることだろうと称(たた)えてあった。次の歌では帝が武士と心を合わせて巌(いわお)を貫いたと詠み、二首併せて政変を成功に導いた帝と武士の協力を嘉賞してあった。

 容保は御製を見て感動の余り顔色が変わるのを感じた。御製を持つ手が震えた。父から返歌で言われたように、帝に勲(いさお)を認められたと思った。二条に深く礼を言い帝に深謝の気持ちを伝え呉れるよう、よくよく頼んで辞去した。二条とあれこれ話を交わす余裕を持たず、そそくさと屋敷をでた。尋常でない何かに出会ったような気がした。

 

 容保は、施薬院の寓居にもどり、改めて御製を読んだ。長い時間じっと見詰めてから箱に納め、考えにふけった。此度の政変は会津藩が京都守護職を勤める大きな里程標になったことは間違いない。かくも帝から信頼を寄せられ、感激し嬉しくもあったが、己(おのれ)の立場をどこに置くか戸惑いも感じた。

 幕府と朝廷と同じ向きを見ている時はいい。異なる向きを見るようになれば、己がどちらを向いたらいいか、突き詰めて考えても簡単には決められなかった。己の歩む道は、他人(ひと)から決められるのではなく己の歩みたいように歩むべきだと思った。家訓の定めたように将軍一筋に生きるか、帝への忠誠と大義に生きるのか、己が何れを望むか心を定めておかなくてはならないと思った。

 ペリーが来航してから今年で十年。あのときほどの盤石の重みが、今の幕府にあれば朝廷も公武合体の道を歩んでくれるだろう。最近では幕威が失われ、そう安心してもおれないと思うことが多くなった。朝廷が弱体化した幕府と合体する意味を見出さなくなるかもしれないと心配になる。

 将軍がようやく江戸に帰れたのは六月十三日だった。小笠原の乗ってきた蒸気船で大坂を出航したと聞いた。攘夷急進派から江戸に帰さないよう仕組まれて困っていたところ、大兵を率いて小笠原が京都に向かってきたものだから、すんなり江戸に帰っていいと許しがおりた。こんな様を見て、将軍の行動さえままならぬのかと、幕府の弱体振りを感ずる者が朝廷に多くいても不思議はないと思われた。

 容保が、小笠原を罪に問うつもりでいた朝廷に話を付けて、小笠原処罰を無用のことにした。

 ――小笠原は老中職を退き謹慎している頃か。その程度のことで済んでよかった。英国への償金支払いでひどく働いたから骨休めと思えば、それもまた善きか

 小笠原の計画には朝廷内の調整者が欠けていたから成功するはずはなかったが、攘夷急進派を追い払う狙いは参考になった。この挙があったから、薩摩から誘いがあった時も即断できたようなものだった。

 ――それにしても帝は依然、攘夷実行を幕府に迫るおつもりであられる。いきなり外国船を砲撃する攘夷ではないにせよ、一度開いた港を再び閉じ外国人の居住を許さない攘夷であれば、それを外国が受け入れるはずはあるまい

 ――されば、再鎖国か通商維持かの論争にならざるをえまい。攘夷の実行には、通商によって富を蓄え、武力を具えなければならない現実を帝にご納得いただけなければ、論争は収まりがつくまい

 攘夷急進派の公家や長州一派を追い払ったところで、攘夷論争に決着がついたわけではないことに、容保はあらためて心が重くなるのを感じた。行き詰まりを打開する何かが必要だった。

 容保は、薩摩はどうかと振り返った。八月十八日の政変を通じて薩摩と懇意になり、数日前には久光から重臣が遣わされ手厚い礼物を寄越したので、当方からも返礼する仲となった。

 久光は昨年四月、伏見で上意討ちを許し藩内の攘夷激派を厳しく抑えたことから見て、攘夷を目指すようには思えなかった。はっきりと言わないまでも、久光は開国に反対でないらしく、これからも良き関係を続けられる相手かもしれないと期待があった。

 容保は先代の薩摩藩主斉彬とは父子ほども世代が異なり直接の面識はなかったが、時の老中阿部正弘と開国に向けて協力関係にあったことをあとになって知った。その後を追って久光も開国貿易を目指していると思われた。ただ、今の時勢で軽々に公言できることではない。

 長州を追った今、幕府が有力な公卿や大名を引き込み、正論を以て帝に攘夷の危うさを説きながら状況をご理解いただけるよう地道に働きかけることから始めなければならないと思った。公武合体の立場から開国通商の方向を打ち出すにしても、そのあとのことである。

 ――道は見通せず、目指すのは遥かに遠いと覚悟を決めるしかなかろう

 暴論、虚説を排し、正論で議を尽くせることが大きな希望になるはずだと、容保は心を奮い立たせるのに必死だった。ひたすら苦しかった。

 ――今月二十二日は敏の三回忌だが、京都の地で大きな法要を執り行うことはできない。身内の集まりで定圓尊師に経を上げてもらおうか

 容保は、金戒光明寺の住持の穏やかな貴相を思い浮かべた。敏の思い出は封印して京都に赴任したが、身内でささやかに供養するくらいは許されるだろうと思った。

 年明け正月には、京都守護職屋敷が竣工する。釜座通りの南北二町東西一町の広壮な屋敷だから、藩士の分宿もなくなり、寓居住まいも終わりとなる。今後、予想もつかぬ大事件が起きることは間違いなく、新たな策源地で事にあたらなければならない。容保は、道の遼遠なことに気が遠くなりそうだった。

 書院からは、施薬院の庭の楓が寂しげに色付いているのが見えた。

 ――そのような先の先を考えても詮無きこと

 容保は、どこかで見たことのある風景だと思いつつ、そんな己の感情を押殺して決然と席を立った。

                                                 (完)

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第四章「名残りのほととぎす-公知」十五節「八月十八日夜雨」(無料公開版)

​                                                

 

                                       

四章14節「天覧に供す」
4章15節「八月十八日夜雨」

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