top of page

十四 茅渟(ちぬ)の海 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 勝は、長行が京都を発って陸路江戸に向ったことを知って、己(おのれ)に大きなものを託されたと思った。長行とはいく晩も順動丸で語り合って過ごし、その考えるところはわかっている。さらに手を打って、三条実美卿か姉小路公知卿を順動丸に誘い出さなくていけない。勝は辛抱強く機会を待った。

 三月二十九日、大坂の勝の許に長州藩の山縣半蔵と桂小五郎が訪ねてきた。勝は、これを好機として、長州の攘夷論壇の一角を占める二人に丁寧に持論を展開した。

「海防、国防の本質は何てったって海軍だよ。砲台やらは海防の補助でしかあるめぇ。護国のためにゃあ海軍を興すことが一番で、大急務さ。これこそが後世の国の成り立ちを決めるってもんだぜ」

 勝は説いた。

「今さらもう遅いと言うて、手をこまねいて傍観すりゃあ、後で、もっかい海軍の議論が沸き起こって、結局、海軍興起の基礎が立たねえんじゃあねえのか。今すぐにできんでも、後世の国益を思わねえのは、心ある人の態度たぁ言えねえのじゃねえか」

 両人はこの熱弁によって何事かを強く印象付けられたと見え、直ちに海軍興起を朝廷に上奏すると勝に約束した。この時、桂、三十一歳、山縣、三十五歳。自ずと久坂や寺島ら最急進派の若者とは一線を画す大人のように見えた。二人は、勝が幕臣ながら、幕府を超えた視点から発言する人であることを知って勝を大いに尊敬したようだった。

 勝は、長州藩がどれほど朝廷に影響を持つかを知っているから、海軍興起の一件が上奏されると疑わなかった。ただ、上奏したあと、朝廷がどのような策を練るか、そこにいささかの懸念があった。海軍を興すことがどういうことなのか、わかった者は朝廷に誰一人いないだろうし、長州藩にもいるとは思えなかった。

 二人は、早速、京都に帰り行動を起こそうと腰を浮かしかけた。攘夷派の連中は話が早い分、やや性急である。勝は、押し止めた。

「ちょいとお待ちよ。こんなことも、上奏に付け加えておいちゃあ、くれめえか」

 勝が言うには、海軍興起を上奏してもらえれば大いに結構であるが、朝廷の主だった公卿が、摂海の防衛状況を実検すべきことも上奏文に加えてほしいと要望した。順動丸の上で海軍興起を公卿に直接説く機会を自分に与えよと言いたい気持ちをそっと滑り込ませた。

「百聞は一見に如(し)かず、海防が一体(いってえ)どんなもんだか手前(てめえ)の眼で見ておかなくちゃあ、策も立たねえ道理だわさ」

 山縣と桂の両人はこの件も同意し、うなずきながら今度は本当に急いで帰っていった。

 

                        *

 

 四月六日、長行は江戸に到着した。まさに、賠償金を支払うか否か、何度か延期された回答期限の当日だった。長行は、民を死なさないために賠償金を支払い、世界に伍してやっていくため開国を維持すべきであると信念をもっているが、本来の持論はひとまず胸に納めた。

 長行は朝廷の命を奉じて、賠償金は支払わず港は再度閉じるという立場で、英国と談判するのが己の使命である。信条に真っ向から反する攘夷をやらねばならない立場に立たされ、幾度もこの役を辞退したが、

「そこをうまくやるのだ。」

 と、慶喜が許さなかった。

 小笠原家伝来の弓射の心得は、上下には天地の間に仕えるが如く、左右には東西の端まで伸びるが如く会に入れと教える。会に至れば視線は的をとらえ、すでに無心。無我となって気力が横溢し機が熟したとき、矢は自ずと弓から放たれる。射手が弓を放つのではない。

 英国に賠償金を払うか払わないか、ぎりぎりの切所では、

 ――弓と同じことよ……

 長行は覚悟を決めた。長行は江戸に戻り、真っ先に下僚を遣って英国側にさらに回答期限を延長させた。幕府の意見をまとめなければならない。

 

 四月十五日、京都では、朝廷が攘夷に関する意見を募集する形をとった上で、十六日、長州藩世子、毛利定広が即日、策議十条を朝廷に献策した。攘夷急進派の公家と長州の志士が密に連携した手順だった。

 これは長州志士の主張がそのまま取り入れられた攘夷の具体策で、幕閣には面白くないものだった。ただ、道理のわかった者には第五条と第九条の重大なことが看破できた。

 

   一、兵庫港へ海軍局創建、環海戦守の策、吟味候様仰せ付けられ、造艦、製鉄等の諸場をも設置せ
      られたく候

   一、堂上方御人選にて、沿海巡見、戦守の備(そな)え見分(けんぶん)仰せ付けられたく候

 

   ひとつ、兵庫港へ海軍局を創建し、大坂湾の海を環(めぐ)って戦に備える策を吟味するよう仰せ付け、
   造艦、製鉄などの諸施設を設置されたい。
   ひとつ、堂上方から人選して、大坂湾の海を巡見し、戦の備えを見分するよう仰せつけられたい。

 勝の言う海軍興起がそのまま第五条に盛込まれた。これを実施しようと思えば、必ず開国、貿易富国論につながらざるをえない。第九条は、それを攘夷急進派に納得させるための公卿視察論だった。

 全十条のうち八条までは異国を打払うための直接的な策である。ただ五条と九条に限れば、異国を打払うために、貿易を通じて費用を捻出し、異国から技術を得なければならないことに必ず至る。勝は、自分の打った布石が効を奏したことを知った。本当に公家の巡見が実現するか楽しみにしながら、さらに別の手を打つことにした。

 勝は、老中板倉勝静に伺候した折、ある策を進言した。一橋公が江戸にご帰還あそばされた直後、三条実美公と姉小路公知公とが江戸におもむき、お二方の御唱導された攘夷がどのように行われるか、御自身の目でご覧になるようお願い申上げればいかがかと献策した。

 勝にすれば、三条実美と姉小路公知が海路、江戸に向えば、往復の船中の場は願ってもない上申の好機になると踏んでのことだった。

 三条実美、姉小路公知の東下、攘夷御実検を朝廷に奏上する案は、直ちに慶喜の取り上げるところとなって、四月十八日、慶喜自ら、鷹司関白にこの案を上書し要請した。四月二十日付けで、この件は不要であると朝廷で判断され、実行しない旨、勅答が下された。即座の反応だった。

 勝にもその結果が伝えられた。

「ふん、あっさり断るじゃねえか。海路、江戸に行くが怖えのさ」

 別に勝は落胆しない。それならそれで、次の手を考えるまでと、新たな策を練って機を待つことにした。

 

 江戸では留守居役、尾張藩主徳川茂徳がいかに生麦事件賠償問題を捌(さば)くべきか、連日、悩み抜いていた。茂徳は松平義建の五男で高須藩主となったが、実の兄慶勝が安政の大獄で井伊から蟄居を命ぜられたため、尾張藩に養子に入ってその後を継いだ。弟に松平容保がいる。

 四月二十一日、徳川茂徳は、京都より急遽帰った水戸藩主徳川慶篤とともに将軍名代の立場で幕議を開き、賠償金の支払いを受諾する旨ニールに伝えると結論を下した。この会議で、賠償金支払いに反対したのは、長行と外国奉行澤勘七郎のみだった。席上、断固反対する長行と澤に、徳川茂徳は腹立ちを隠さず、

「勘七、無礼なり、下がりおれっ」

 と怒声を発した。長行は、幕閣が支払わねばならぬとはっきり決心したと見た。長行は、己の役儀上、支払い反対を唱えたことが、却って幕閣に支払いの決断を促したことになって、内心、ほっとした。狙い通りだった。

 

 四月二十一日、同じ日の早朝、京都では、将軍家茂が攝海巡視のため大坂に向けて二条城を発した。大宮通りを南に下り淀城に立ち寄って昼食を取った。途中、石清水八幡宮に参拝したのち、橋本から川舟に乗り大坂の京橋口八軒屋の船着場に着御したのが五ツ時(午後八時)。勝たちは機嫌よく舟から降り立った家茂を出迎え大坂城に案内した。勝らが大坂城を退出したのは、もう深夜だった。家茂が離してくれなかった。

 勝は翌二十二日登城し、明日、順動丸にて将軍が西宮辺りに御成りになる旨、老中から下命を受けた。二十三日払暁、勝は、家茂のご乗船場とされた堂島川に出向き、用意万端、将軍を待った。勝は家茂を水路、先導し、四ツ時(午前十時)天保山沖から、家茂を乗せて順動丸を出帆させた。

 摂海はからりと晴れ上がり、初夏の空には悠々と白雲が浮かんでいた。やや強い西風を受け順動丸は快適に茅渟(ちぬ)の海を航行した。爽やかな潮風を受けながら、勝は十八歳の将軍家茂を案内して甲板上を見せて廻り、家茂が久しぶりに青年らしい快活さを取戻す様子を間近に見た。勝は嬉しく感じ、将軍御成の機会が大きな意味をもつことを確信した。

 家茂は攘夷急進派から悪辣な謀略を仕掛けられ、公然と敵対的な挑戦を突きつけられて不安な日々を送ったと聞く。頼みとする後見職一橋慶喜と政事総裁松平春嶽は互いに意見が噛合わず、効果的な補佐になっていないらしい。

 前月、すでに春嶽は板倉の制止を振り切るように越前に帰国してしまった。慶喜は江戸に向けて前日、京都を発った。京都守護職の松平容保は懸命に京都の治安維持に当たっているが、心労多く体調がすぐれない。

 協力を誓った山内容堂、伊達宗城ら公武合体派大名も前月末に帰国してしまった。板倉、水野の両老中は、忠義は尽くすが効果的な手を打てないでいる。おそらく家茂は、次々と、頼みと思う重臣が京都を離れ、若い己(おのれ)が無力だと思うことのみ多く、京都で鬱屈する日々を過ごしていたに違いと勝は思った。

 ――上様の気晴らしになるだけでも、この航海は価値があるってぇもんよ。ただ、気晴らしだけでぇ終わらせはしねぇわさ

 勝は己の計画を家茂にいつ開陳するか、時を図っていた。

 家茂は、船全体にみなぎる力強い蒸気機関の震動を感じ、舳(へさき)で白波を切り裂いて進む船の速さに驚いた。勝の号令で一糸乱れず操船に当る軍艦操練所の若い幕臣の姿に、あっけにとられた。我が臣にこのように頼もしい者たちがいることを初めて知ったように見えた。

 家茂は勝の思った通り、次第に元気が満ちてくるようで、船の技術というものに次々と疑問をぶつけてきた。勝は、家茂の早口の質問に丁寧に答えたが、完全に理解させられないことが多かった。家茂にとって、わからないところが多い分、勝を頼もしく思うようにも見えた。

 家茂は、勝が日本人の船方を率いて米国に渡航した人物であることを知っているが、航海の技を眼の当たりにし、このような軍艦を備え操船できる幕臣を抱えた幕府をあらためて見直す気持ちになったようだった。時折、嬉しそうに幾度も頷いていた。

 京都で散々に言われた因循姑息の幕府とは異なる力強い幕府がここにあると思い始めたに違いなかった。家茂の輝く眼差しを見れば容易に想像できた。

 大砲の試射では、家茂は、大股に足を構え堂々と実検したが、砲声の凄まじさと迫力に思わず声が出そうになるのを必死にこらえたようだった。順動丸の大砲は、筒先から飛び出す弾が全く見えないほどの威力である。

 九ツ(正午)前、和田ヶ崎へ到着、是非にという家茂の願いによって端舟にて上陸した。勝をいれてわずか五、六人の供奉である。和田明神の社(やしろ)で休息をとったのち、端舟にて神戸に向った。

 一行は順動丸に戻り、西ノ宮へ上陸するときは、端舟が西風にあおられ皆が頭から波をかぶった。家茂はそんなことさえ大いに愉快そうで、たしかに海の水は塩の味がすると笑いながら言った。心がはずんでいることが見て取れた。

 この航海で、勝は家茂から気の済むまで殿中作法なしで質問を受け、西洋船の船舶構造、操船の技術論から、海外情勢、外国海軍の事情、築地軍艦操練所の教育、摂海防衛論、日本全土の国防論まで幅広く答えた。家茂は、勝の説明がいちいち明快、本質を衝いて創見に満ちていると思ったのであろう、驚いて聞いたようだった。勝の狙い通りだった。

 勝は、家茂が頭の中にこれからの方策と展望を思い浮かべ易いように丁寧に説明した。おそらく家茂のなかで、驚きは尊敬へと変わり、勝こそは新しいものを見せてくれる人物だと思い始めたに違いなかった。

 順動丸に感嘆する家茂に、勝は、西洋船はたいしたものではあるが、金を積めば買えるのだと強調した。

「上様が三千の旗本をお連れになられて陸路、京都にお上りになられる費用で、このような船は何杯も買えるのございます」

 家茂には初めて聞く話ばかりだった。

「肝腎なのは、船を動かす船方にござりまする」

 こればかりは、即座に金で買うわけにはいかない。長い年月をかけて育成するより外ない。船一杯よりは、船一杯を動かす船将、士官、水夫、釜炊夫など六、七十人の船方を揃えるほうが難しい。その船方の力量で船の力が変わるということを勝は力説した。

「船方の力量が劣りますれば、出せる速度も出ず、当る大砲も当らないことと相成りまする」

 家茂は直ちに納得した。

 勝は恭謙そのものの態度である。

「優秀な船方を幾人、いや、幾組持てるか、それが日本の海防の力にござりまする」

「それには、幕臣だけでは十分ではございませぬ。日本諸国から志ある優れた若者を集め、鍛え、技を授けなければなりませぬ」

 勝は、敢えて、日本ということを言った。この時も諸藩から若い藩士を集めよと言わず、日本諸国から志ある若者を集めよと言った。勝は、家茂が日本という言葉に新鮮さを感じてほしかった。

 ――上様にとって、天下という言葉はお耳になじんでおいでであろうが、幕府だ、朝廷だというのではない、日本なのだと思っていただきたい

 勝の願いだった。家茂に、どこを見ればよいか、朧気(おぼろげ)にでもわかってもらえれば、これに勝ることはない。

 家茂の心の動きを十分に計って、勝は神戸の地に海軍操練所を開設したいと願い出た。幕臣を対象にした築地とは別の施設を構想していることが、家茂によく伝わったようだった。家茂は勝の眼差しをしばらくの間じっと見詰め、そして、にっと微笑んで頷いた。何かから吹っ切れた青年の素晴らしい笑みと見えた。

 帰航では、家茂が、夕日に染まった摂海を右舷に眺め、その荘厳な海の照り映えに今日一日を振り返っているようだった。その背には若者の満足感が見て取れた。

 勝は、神戸海軍操練所新設の台命を頂戴した嬉しさを隠し、家茂の背後に神妙な顔付きで控えていた。勝は家茂に忠義を尽くしたいと心から願った。夕刻、順動丸は天保山沖に帰航し、勝は家茂の供をして大坂城に還った。勝が城を退出したのはやはり深夜だった。

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第二章「重藤の弓-長行」十四節「茅渟の海」(無料公開版)

十五 沖つ潮風 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 勝が家茂を順動丸に乗せて摂海巡視から帰った翌四月二十四日、夜に入って幕閣から勝の許に、姉小路卿の件で命を下す書面が届いた。それによれば、二十五日朝五ツ(午前八時)、すでに大坂に下って西本願寺に滞在している姉小路少将のもとに摂海絵図を持参し、ご要望に応え摂海の防衛状況を視察するため順動丸にて御案内せよとのことだった。

 書面を読み進むにつれ勝は思わず手が震えた。姉小路卿を順動丸に乗せる機会がついに転がり込んできたのだ。

 毛利定広公の策議十条のためか、慶喜公の上書もあるいはなんらかの効があったかと一瞬思ったが、そのような詮索はもはやどうでもよかった。

「幕府の運もまだ捨てたもんじゃねぇ」

 勝は、江戸にいる老中小笠原長行の顔を思い浮かべた。天保山沖に碇泊する順動丸に明日の準備を整えておくよう、直ちに使いを出した。図書頭様の御念願が叶うのだ。船中、姉小路卿に大いに持論を語る嬉しさに、勝は一人、喜びを隠すのに苦労した。

 四月二十五日、麻上下(あさがみしも)を着け、勝は、五ツ(午前八時)より随分早めに西本願寺、北御堂に姉小路卿を訪ねた。広間に通されると、卿の脇座に、長州の桂小五郎、佐々木男也(おとや)、清水清太郎、寺島忠三郎、肥後の山田十郎、紀州の伊達五郎ら、七十人を超える攘夷派志士たちが列座していた。

 勝は姉小路卿から摂海警衛のことを問われ、海軍でなければ我が国の国防は難しいと答えた。砲台などでは全く不十分だという考えを暗に伝えたあたりから、志士たちも加わり大いに談論が盛り上がり、皆で国防の方策を議論した。

 この時期、ほとんどの諸藩はまだ西洋蒸気船はもとより、その操船にあたる船方をもたず、攘夷とは、侵攻する外国船を海岸の台場から砲撃して追い払うという構想が主だった。近代化に熱心な薩摩藩にして二隻の蒸気船を保有するに留まり、勝の言う海軍で国を守ることなど遠い夢でしかなかった。勝の一言に理屈立てて反論できる者などいるはずがない。

 姉小路も砲台で攘夷ができると疑わず攘夷を幕府に迫ってきたため、砲台などは不十分なものだと言わんばかりの勝の言いざまに気色ばんで反論を言った。勝はあっさり、一言返した。

「我が国土は海岸線が長(なご)うござりますれば、どこに台場を作ればよろしいとお考えですか。まさか、針ねずみのように、そこかしこに、びっしりと砲台を造って回ることもできかねると存じまする」

 動かぬ砲台で動く軍艦を打払う難しさを説かれ、姉小路は悔しそうに黙るしかなかった。

 百聞は一見に如(し)かずとばかりに、勝は、一旦は議論を打ち切り順動丸にお乗りになられて、またこの話を申上げましょうと誘った。

 午後になって、勝は、姉小路と随従する志士ら、乗組員をあわせ総勢百二十余人を乗せて順動丸を出航させた。皆が甲板上をきょろきょろと物珍しそうに見回す。この日、順動丸の乗組員にはさほどとも思われなかったが、姉小路には、風波がはなはだ烈(はげ)しく思われ不安な様子だった。

 二本の煙突から煤煙が上がって蒸気機関の震動が次第に力強さを増し、外輪がゆっくりと廻り始めた。姉小路に付き従う志士たちは船が進む前から声にならない驚きの声を上げていた。船が進みだしてからは、まさに驚きの連続だった。

 海上に出るや、生駒の山並みを右舷に見晴らし、左舷には淡路島がくっきりと遠望できた。一行から、先ほどの話の続きを求められ、勝は姉小路や志士らと再度、海防論を始めた。わずかな討議で、もはや勝の説に異を唱えるものはいなくなった。

 勝は、ようやく公卿にも攘夷派志士らにも、海軍の大切さに理解を得られたことがよほど嬉しかった。勝は、日本のためにこの説を主張し続け、七、八年を過ぎてなお、大きな賛同を得られなかった昔年の悔しさを思い出した。

 実際はこの船上でも、勝が思うほどに理解が得られたわけではなかった。反対できず黙っているしかなかった志士が大勢いて、今さら攘夷の考えを変えるわけにもいかず、勝の言うことはどこか胡散臭いと疑っていた。

 ――姉小路卿が勝の説にかぶれなければええんじゃが……

 船内で機関の運転を見せ、短時間の間、最高速度で航行して見せたところ、皆、外輪の回転と震動音の激しさに驚き、文明の威力を感じ取って衝撃を受けた。大砲を試射した時、皆の驚愕は最高潮となり、国産の大砲を知っている者ほど、順動丸搭載の英国製の大砲の威力に驚いた。

 勝は、この大砲など、英国海軍の制式砲と比較すれば、さほどのものではないことを付け加えなければならなかった。姉小路は、次第に寡黙になり、青ざめてきたようにも見えた。船酔いではないだろうと勝は思いたかった。

 この晩、順動丸は兵庫沖にて碇泊し、姉小路は兵庫で一泊した。昼の疲れで熟睡するか、西洋文明に衝撃を受け不眠になるか、勝にも予想がつかなかった。

 二十六日、一行は大坂に帰り、翌二十七日払暁、今度は再び順動丸に乗って、泉州堺に至った。姉小路卿は堺で砲台に上り、備え付けた大砲、小銃を試発するよう命じたが、準備が十分でなく警衛にあたる柳川藩家士を叱りつけたりもした。

 この日は堺に泊まり、翌日、紀州加太浦を視察した。摂海防衛では、加太、淡路間の二つの瀬戸と友ヶ島水道の三箇所の口を押さえることが重要な構想だった。

 ついで淡路島由良に渡って友が島水道を望み、砲台で試射を行わせた。摂海巡視を完了し夕刻、天保山沖に帰航した。

 五月朔日、姉小路は大坂城にて将軍と会見した後、この夜のうちに、八軒屋から三十石舟にて大坂を発った。翌朝、伏見に到着、京都にもどって直ちに参内した。摂海の巡視状況を報告し、己の意見を帝に上奏した。淀川遡上の舟中で練った言い回しは、以前との違いを目立たせぬよう工夫を凝らしたが、それでも攘夷の唱え方の陰影がどことなく異なるのは致し方なかった。

 姉小路は帰邸し、これからどうすべきか、さらに悩み、考え、心の動揺を抑えることに努めた。これまでの世界観をあらため、攘夷のあり方を再考しなければならない。頭ではわかっていた。だからこそ切羽詰まったような焦りにも似た感情が波打っていた。

 姉小路は、さし当たって勝を己の帷幄に加えようと、従五位下諸大夫を授けるよう老中板倉に書面を送った。

 

 五月七日、江戸では英国の攻撃を覚悟した町奉行が布令を出した。四月二十一日に留守居の幕閣が賠償金支払うべしと決断して以降、何度も締切り延長を英国に呑ませ、待たせに待たせて、もうこれ以上は無理だろうと腹をくくり最後の頃合いだと見切ったからだった。

 布達では、いよいよ兵端を開く時は、浜御殿で火矢を上げるからソレを合図に用意いたせと、江戸市中に伝えてあった。

 

      瓢箪(ひょうたん)(兵端)の開け初めは、

               冷や(火矢)でやる

 

 瓢箪酒の最初の一杯(いっぺえ)は冷や酒でやると掛けてあった。江戸の町は避難民でごった返し、家財道具を売るものが相次いで、高価な什器までが二束三文で叩き売られた。開戦瀬戸際の緊迫感が高まり、

「江戸は戦(いくさ)間違(まちげ)えなし」

 とばかりに、町は蜂の巣を突いた大騒ぎとなった。

 

 八日、大坂では、板倉が勝に、帷幄に加わってほしいという姉小路の願いを伝えたが、勝はなんとしても受けなかった。翌九日、勝が大坂城に登城すると、御所より届いた達しを板倉から見せられた。大坂城の主将を大藩に任じ、南海の警衛の指揮を取らせよというのが第一条。泉州堺の守りは柳川藩主立花飛騨守が疲弊しているので、大藩に代えよと第二条が続き、そして、第三条、造船所は長崎だけでなく、広大なものを新規取立てて各藩にも堅艦と巨砲が十分に行き届くようにせよと結んであった。

 勝は、姉小路に海軍建設を説いた結果、その意義が理解され、この達しが下ったと疑わなかった。我が微衷、ついに天朝に達したか、と体が震え興国の基礎がようやく立つと感激した。

 ――おいらの勝ちだぜ

 三条卿か姉小路卿を蒸気船に乗せよ、西洋船を見せながら海外事情を説けと長行に託され、正月以来、努力を重ねた。画策した結果、姉小路を蒸気船に乗せ摂海巡見の供をする機会をつかみ、ついに、姉小路を通して、朝廷に軍艦の重要性を理解させ造船所を建設せよとまで言わせた。

 広大な造船所などは外国の技術を導入しなければ建設できる筈がない。その莫大な建設費用は、貿易でなければ調達できる筈がない。どうみても開国論でなければ実行できないことは容易に理解されるだろう。こうなれば、即座に条約を破棄し攘夷を実行することが果たして良策なのか、新たな気運を盛り上げられるだろうと勝は思った。

 さらに数日後、勝の許に姉小路から書状が届き、一別以来の挨拶が好意的にしたためられていた。要件は、西本願寺と順動丸船上で聞いた話を他の公卿にも聞かせたく、一度、学習院で弁説してほしい旨、要請してきた。

 勝はこれを契機に、攘夷に気狂いした風潮を押し留められるかもしれないと大きな望みを持った。公知に弁説承知の意を書いた勝の返信には、力強い字が躍るようだった。

 ついで、勝は、姉小路の摂海巡視に関る何通目かの書状を長行に書いて、ついに多くの公卿に向って、海外情勢、日本の現状、海防の意義、海軍興起の策を説く機会が得られたことを伝えた。

 ――図書頭様も何かお考えがおありのような……

 勝は長行に何かありそうなことを予想したが、それ以上のことは想像さえできなかった。

 

 五月九日を迎えると、横浜の神奈川運上所では、長行から一切を任された水野筑後守忠德の指揮のもとに、すでに四十四万ドルの莫大なメキシコ銀貨を集め終え、二千ドルずつ木箱に詰めて待機していた。水野は、安政四年(一八五七)十二月まで勘定奉行の職にあったから、この任にふさわしかった。なにより、大きな危機を前に臆することなく剛腹に采配を揮(ふる)う指導力が光っていた。長行の人事の妙だった。

 江戸では混乱の中、紆余曲折の果てに、長行が生麦事件の賠償金十万ポンド・ステルリングに加え、東禅寺事件の賠償金一万ポンド・ステルリング相当をきれいに支払うことにした。邦貨にして、二十六万九千六十六両二分二朱余、支払うドルでは四十四万ドルに上る。

 この日、持ち重りのする二百二十箱の木箱を二十三台の大八車に積み、朝早くから本町通りを通って、続々と英国公使館に運び入れた。お陰で、浜御殿から火矢を打ち上げる必要がなくなった。英国側ではメキシコ銀貨を一枚ずつ点検するのに、急ぎに急いで三日間を要し、ようやくにして受取り完了となった。

 心ある幕僚は小笠原の鮮やかな手配りと度胸のよさに感嘆の声を発した。そして、これから朝廷の叱責を一身に受けるだろうと、老中格小笠原図書頭(ずしょかみ)長行の境遇を深刻に心配した。

 ―図書頭様の度胸のほどには、ほとほと感服仕りまする。ここからが本当の勝負でござりまする。何卒、御無事でお過ごし召されますよう……

 攘夷派による天誅でなければ、朝廷から圧力がかかって切腹ということさえ、十分に考えられた。

 

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第二章「重藤の弓-長行」十五節「沖つ潮風」(無料公開版)

十五節二章「沖つ潮風」
bottom of page