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八 度胸と怯懦と 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 文久二年八月二十二日丑半刻(うしのはんこく)(午前三時)、越前松平家上屋敷に急の飛脚が到着した。飛脚は大汗をしたたらせ、屋敷前に駆け込んで大門を叩きに叩いた。

「ごかいもーん、ごかいもーん」

 必死の呼びは常盤橋御門内の暗闇に滔々と響いた。

 越前藩では、書状を受取った門衛が取次ぐと、灯りがともり、邸内で驚きが広がり、緊張が走った。書状は、御用を務める横浜の越州屋善右衛門よりの飛札で、二十一日昼八つ(午後二時)、東海道を京都に向かう島津家行列が生麦村と子安村の間の松原を通行中、英人四人が馬上にて行列先供へ乗掛けたため、供の者がすぐさま斬り付け一人は即死、一人は腕を落とされ、一人は腹を突かれ、一人は婦人にて逃げ戻った旨、急報してきた。

 速やかな第一報によって、事件発生から半日たって春嶽は生麦事件を知り、冷や汗が流れ出るのを感じた。

 これより早く、山下御門内、備中松山藩上屋敷では、老中板倉勝静が神奈川奉行から早馬で生麦事件の報告を得た。板倉は間髪入れず、幕閣達に明早朝、至急登城するよう急ぎ要請し、大目付、目付、外国関係幕僚に登城を命じた。

 払暁、白書院入側(いりがわ)に一同会して評定を開き、冒頭、板倉が生麦村の一件を説明した。驚きの声でいったん席はざわめき、すぐに悲痛な沈黙と化した。幕僚の多くは薩摩を強く憎み、ことさらに異人を斬って幕府を苦しませるのだと責める声が高かった。ある目付は、速やかに兵を出して薩摩藩の行列を追撃しようとさえ言い立てた。

 春嶽は、島津にもし将軍尊重の念があれば、神奈川または保土ヶ谷のあたりに留まり、下手人を差出し幕府の命を待つべきであったにも関らず、捨て届けにして後難を幕府に押し付け、事もなげに出発した島津久光を国権において許すべきではない、と責め立て厳しい処断を求めた。

 春嶽は先代薩摩藩主、島津斉(なりあきら)とは刎頚の交わりを結んだ同志であったため、この場で、その弟のなしたことを強く批難せざるをえない立場におかれた。

 先ずは情報を正確に把握し、現場の混乱を収めることに主眼がおかれ、少数の幕僚を派遣することとされた。薩摩藩を追撃するなど今の幕府にできようはずもなかった。

 日が経つにつれ、この問題の対策は、強硬論あり、宥和論ありという有様で、幕府は大揺れとなった。特に、英国は幕府に賠償金を求めると神奈川奉行に強行に言い募った。

 そのうち、英国公使館から本国に事件を報告し対日方針を照会する船を出したと聞こえてきた。どうやら英国は、英国駐日公使館となった東禅寺がこの年五月、浪士に襲撃された事件も振り返り、自国民が殺害されているのに、幕府のぶらかした態度にいつまでも寛容な対応を取り続けるべきではないと決めたようだった。英国にとって、またとない機会になったのかもしれず、全て薩摩藩の仕業だと幕閣は思った。

 こうした緊張の中に、閏八月朔日、幕府は松平容保を京都守護職に任命し、幕府の考えが天皇、関白など公家要路に伝わるよう朝廷環境を整えるよう命じた。公武合体にむかう道筋をひらくことが目的だった。

 閏八月十九日、今度は、長行が若年寄に任命された。奏者番となって二か月と経っていない。奏者番弊害論を上書したことを咎められもせず、それどころか、早過ぎる異例の昇進を遂げたことに城内は唖然となった。さらに、あろうことか、長行の奏者番批判の上書がきっかけとなって、八月十八日には由緒ある奏者番の御役が廃止になった。役柄を失った元奏者番の大名たちは生色なく、悄然としていたから、長行が一人、抜擢される人事に、城中、複雑な感情が湧き起こった。

 

 この頃、久光は大事件を引き起こしながら、京都に無事戻り、大原と共に幕府相手の交渉に功ありと盛んに賞賛された。さほど長くないその時期が過ぎると、手のひらを返すように冷淡に扱われ始めた。久光の推す公武合体策に反対論が唱えられ、すっかり退潮気味となった。幕府の弱腰が伝わると、それならいっそ、幕府をさらに貶(おとし)めたらいいとの風潮になっていた。

 公武合体に代わって唱えられた長州の破約攘夷論が勢いを増してきた。各国と結んだ通商条約をまずは停止せよと、長州の急進派が主張する策を、久光は匹夫の激論と呼んで切って捨てた。驚いたことに久光は、あっという間に京都政界の支持を失い、長州藩の言論支配の力がいかに強いか思い知らされた。

 久光にとって朝廷の雰囲気が全く面白くなかった。大原は帰国を考え直してほしいと久光に懇願した書状のなかで久光を虎に喩(たと)え、泰然と京都に居ってくれるだけで諸獣は恐伏し、何事も上手く行くものを、と久光の帰国を必死に止めようとした。その行間には、自分の身が危うくなるという不安で満ちていた。

 生麦事件をきっかけに英国艦隊が鹿児島に攻めてくると知ったのを幸い、久光は英国艦隊を迎え撃つ準備のためと称し早々に帰国した。久光が不快の念を残し京都から姿を消すと、尊皇攘夷急進派の公家たちにとって格段に仕事がやりやすくなった。三条、姉小路らにとって、虎が帰国し、いよいよ近衞忠熙、青蓮院宮に圧力をかけやすくなった。二人は重鎮であっても、薩摩の後ろ盾がなければ何もできない腑抜けとみなされ、新たな勅使派遣の計画がどしどし進められた。

 三条、姉小路の考えついたのは新たな勅使を江戸に派遣することだった。目的は、幕府に攘夷を速やかに実行するよう命じ、さらに朝廷直轄兵団を新設させることだった。

 踏むべき手順は、幕府をして、速やかに攘夷に決せしめ、それを諸大名に布告せしめ、攘夷の実行計画に衆議を尽くして良策を定めしめ、最後に夷人を拒絶せしめる。鼻づらを引きずり回してでも、これを幕府にやらせるつもりだった。

 攘夷が発令されれば、外夷が摂津の海岸を劫(ごうりゃく)し畿内に乱入することも計りがたいため、御親兵と称する朝廷直轄兵団を組織するよう叡慮として幕府に迫ることを考えていた。表向きの理由としてはよくできていた。

 朝廷が武力を持てば、政治的にいっそう強い立場に立てるから、攘夷派の兵を京都に入れるよう画策した。もとより軍事的感覚などない青公卿の思い付きであり、天皇の考えでは毛頭ない。攘夷急進派公卿と長州、土佐の勤王志士らが練った案を勅旨とするだけのことである。

 

 九月十一日、江戸では長行が老中格を命じられた。奏者番になって三ヶ月、若年寄を命じられて一ヶ月に満たない。長行は唐津小笠原家の世子でしかなく、藩主でない者を老中につけるわけにはいかなかった。苦慮した老中は長行を老中格とした。

 老中板倉勝静と水野忠精は、人事上、無理を押してでも、それほどに長行を使いたいということだった。長行は老中格を命じられ、近く始まる生麦事件の対英交渉の主担当に内定した。

 水野は、決めたことを貫き通す強い意志を父親ほどには持ち合わせない。少なくとも、天保の改革を主導した父親のあくの強さはなく、その分、人当たりのよさで置き換わっている。持ち重りのする幕権を我が手に握りしめることを、実は怖がっている様子もあった。度胸を要する仕事のために度胸の据わった男を用意したということのようだった。

 ――塩谷宕陰が推した男なのだ。これを据(す)えれば、自分では手をくださなくてすむ

 水野はこう踏んだのかもしれなかった。

 長行は役料として一万俵を賜り、常盤橋御門内に役邸を賜った。さらに、外国御用に任じられた直後、行列に槍二筋を許され、堂々の威儀を張るよう達しがあった。板倉と水野が長行に期待するのは生麦事件の交渉で、長行の度胸と弁舌の鋭鋒で英人に立ち向かうことである。異国人に舐(な)められてはならなかった。

 

                          

 

 京都では悪謀が進んでいた。勅諚を幕府に呑ませる試みとは別に、三条、姉小路はもう一つの仕掛けを用意し、幕府に揺さぶりの手を打っておいた。これまで将軍上位の殿中儀礼を勅使上位に変えさせ、幕府に屈辱感と敗北感を与えようという案である。この策は将軍を貶(おとし)めるため、儀礼改変を幕府に迫る手法で、これからも広く使える手だと三条と姉小路はほくほくしていた。

 武家伝奏から京都所司代を介して、朝廷の意向を幕府に通ずるのが古来の鉄則だった。今回、三条は従来の伝達経路を全く無視し、京都守護職に就任した会津中納言容保の家臣が京都に先遣されてきた機会をとらえ、江戸において勅使の接遇を改善せよと言い送った。

 この伝達自体が、手の込んだ謀略だった。容保が朝廷の意向を幕議でどう諮(はか)るのか、容保と幕府の心根を見極めるよい試金石だった。かりに幕府が勅使上位の儀礼を認めなければ、その罰として、京都守護職の権威を失墜させればよい。所司代に続いて新設した守護職まで機能不全に陥れば、公武合体など無いも同然となる。

 逆に、幕閣が勅使上位の儀礼に改めれば、君臣の分を明らかにするに功ありと、幕府が嫉視するほど、容保を褒(ほ)めて朝廷側に取り込んでやればよい。幕府と容保の間に楔を打ち込める。

 どちらに転んでも三条、姉小路には損がない。幕府を差し置いて戊午の密勅を水戸藩に下したことによって、幕府と水戸藩を対立に追い込んだ手法と同じやり方だった。

 勅使を接遇する儀礼を将軍上位から勅使上位に逆転させ、まず幕府の肝をひしいでおけば、本筋の勅諚を呑ませることは容易になるだろうと、はじめから、幕府の弱り目を狙った策だった。このような奇手は、堅忍不抜の信念の前には弱いものだが、幕閣が堅い志操を維持できる環境になかった。

 

 

 

 


佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第二章「重藤の弓-長行」八節「度胸と怯懦と」(無料公開版)

 

 

 

 

 

 

 

九 攘夷なる妄説 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 幕府は勅使接遇儀礼の改変などよりはるかに深刻な問題を抱えていた。勅諚によって速やかな攘夷を迫られたらどう回答するか、いまだ決まっていなかった。

 幕閣、幕僚には国際情勢と開国の兼ね合いがよくわかっていた。開国論では、なによりも、清国のように国土を掠(かす)め取られてはならず、主人面した英国人と仏国人に国(くにたみ)が頤(あご)でこき使われ、国富が吸い取られてはならないと悲痛な論調で説く。異国に隷属する国の衰亡を恐怖する心が色濃く混(ま)じる論だった。

 開国の方針さえ取れば、当面、外国から戦を仕掛けられないことが大きな眼目だった。今、外国と戦になれば勝てないと告白するに等しい。世界情勢を見れば、今は戦に負ける。されど、開国、貿易によって富を蓄え兵を養えば、世界に立っていけると日本の未来を見ていた。

 一方、条約を直ちに破棄し、あれこれ考えず二念なく醜夷を撃(う)ち攘(はら)え、という攘夷急進派の主張は、それ自体に冷静な国家観はない。国際情勢の考察もなく、理路整然と語れる論旨がない。日本は往古から夷狄と付き合ってこなかったという歴史的な誤解さえ含んでいた。この説を唱える一派は、海外事情にうとく新しい知識は欠落していた。その分、水戸学の尊皇思想の教義と暗い情念だけがみなぎっていた。

 この論では、天皇が夷狄(いてき)をお嫌いあそばすために、攘夷が尊皇と同義となった。空論の割には、開国批判や幕府批判の強い言い回しになり、世界情勢を冷静に顧慮しない論であっても、声高に唱えられれば反論のしようもない。

 外国を撃ち攘うという武力行使の意味でなく、非武力的に開国停止を宣言し再び鎖国に戻るという政策でさえ実行すれば、外国から戦を仕掛けられ、必ず亡国におちいると全ての幕閣、幕僚が固く信じていた。最近の世界情勢を知れば誰にでも容易に予想がつく。

 にも関らず幕府は、朝廷から攘夷実行を迫られる。やれば亡国、やらざれば違勅、と板挟みに遭って、苦しい立場に立った幕府の中から新しい論がでてきた。攘夷を実行するため開国するという論だった。

 攘夷を行なうには、敵を知らなければならない。敵の武器を知って、それに匹敵する武器をもたねばならない。そのために開国して外国を知り、貿易して国を富まし、軍備を整え、兵を練った後に、然るべく攘夷を行ない、天皇の大御心に沿い奉るのだと唱えた。はじめ珍奇なように聞こえたが、ある意味、理にかなった策と言えた。ただ攘夷のために当面、開国を続けるのでは筋が通らない、迂遠であり欺瞞ではないかと批判を受けがちで、政策的な難しさを含んでいた。

 勅使が江戸に来て攘夷を迫れば、どう回答すべきか。春嶽は、信頼を寄せる横井小楠の説を採って、幕府に指針を提案した。横井は肥後の人、春嶽が尊敬し賓師の厚礼をとって教えを請う学者だった。

 横井によれば、まず、これまで締結した条約をいったん破棄し、その後、幕府が主体的に開国論をまとめあげ、勅許をもらった上であらためてこちらから外国に申し出て通商条約を締結する。こうした過程をとれば、異国の脅迫に震え上がって勅許なしに結んだ条約とは一線を画し、幕府が主体的な判断のもとに堂々と締結した条約という姿になる。

 日米修好通商条約は、攘夷論者から意地悪く言われるように、処女(おぼこ)が暴漢に脅されて、泣く泣く承知した約定のようなものであり、これを当時、姑息の処置と言い習わした。

 あるいはもっと強く、因循姑息とも言い、やむを得ない事情によって、幕府がいやいやながら不本意に何事をなす場合、決まって論難に使われる慣用句になった。同じことをしても朝廷側には決して使われない。

 姑息の条約を改めるため、まずは現行の条約を破棄すると外国に申立てるのだから、攘夷の建前も一応は立つ。この論は、条約そのものは悪くないのだが、締結の過程が宜しくなかったので、それを改めたらよいではないかという案であり、苦し紛れで、やや珍妙に聞こえた。ていねいに説明すれば、いずれ天皇が開国に賛成するとの前提が含まれている。

 あらためて条約を結ぶから、一旦、現在の条約を破棄してほしいと幕府が申し出て、外国が承諾するはずもない。この論の限界だった。春嶽はこの論を採用し、幕議では姑息の条約を改めるのだと威勢よく論陣を張った。

 春嶽の論を聞くうち、長行には、じつは春嶽の案こそが姑息なのではないかと思えてきた。春嶽がそう疑う様子は全く見られず、春嶽の限界かとさえ思った。

 一橋慶喜は、心の底から開国論者だった。日本の事情で一方的に条約を破棄するような勝手が通るはずもないことをよく知っている。いかなる事情が国内にあるにせよ、外国からみれば、国内問題のために外交問題にしわを寄せる態度を受け入れるはずはなく、それは、日本の信義の問題になると指摘するあたり、慶喜は正しい認識を持っていると長行は見た。

 慶喜の腹案では、自ら上京し朝議の場で、日本には開国論しか道はないこと、攘夷を実行すれば異国の属領に堕ちるか亡国に至るか、いずれかの悲運を免れず、とうてい採れる策ではないことを堂々、論じ立てようと主張した。

 十月朔日の幕議で、慶喜からそこまでの覚悟を聞き、紆余曲折の議論の末、ようやく春嶽の同意を得た。幕府の方針は開国に決まったかに見えた。攘夷を性急に迫る勅諚なら、これを受けないということになる。

 早速、一橋慶喜が十月九日に江戸を出達する旨布告された。この分では、東海道のいずこかで江戸を目指す勅使と出会うことになりかねず、これを避けるには、慶喜が海路、上京するのが一番だった。英国からディンギー号を購入する話がすでについていたから、いつでも使える準備が整っていた。

 十月三日になって京都より急便が到着した。これによると先月二十八日、参内した酒井雅楽頭(うたのかみ)は、天杯は賜ったものの、ついに天皇の出御はなく、会っていただけなかったと報せてきた。天皇御不予のためと説明されたという。

 幕議では、気に入らない相手に対し、天皇が会見に応じないという手段で対抗されようとしたのではないかと指摘があった。それを聞いた慶喜は、自ら勇んで上京しても、天皇に会ってもらえないのでは意味がないと急に腰が引け始めた。京都に行きさえすれば、何としてでも会って開国を説得してみせると強気には考えず、上京する意気込みが急速に萎(な)えたように見えた。長行は慶喜の逃げ腰を見て、白けた気持ちを味わった。

 ――このような御仁だったか

 腰抜けとの言葉までは、胸の奥に封じた。

 慶喜は幕府の苦い経験を思い出したのかもしれなかった。四年前、老中堀田正睦が京都に行き、参内して天皇の拝謁を賜りながら、ついに挨拶、儀礼を超える実質的な話を上奏する機会を与えられず、天皇に海外情勢をご報告できずに終わった。堀田が失敗したのだから自分こそは成功してみせるという具合には、慶喜の怜悧な頭は廻らないようだった。

 慶喜は、とびきり聡明な政治家と言ってよく、目先ははるか先まで利いた。しかし、政局の目利きができればこそ、いざと言うとき、もっとよい策はないかと無いものねだりを始め、ついに腰が引ける。長行は慶喜にそんな印象を抱いた。

 かつて水野忠邦、井伊直弼ならば命を賭して信念を貫かんとする気概があったが、慶喜はじめ、春嶽、板倉勝静、水野忠精には、もはや期待できない心胆だった。長行の眼前で、幕府の桶底が抜けたような光景が広がった。

 こうなれば幕府の腰も折れ、勅使が早急な攘夷実行を言ってくれば、その言うままに勅諚を奉戴するしかなかった。容堂から激烈な京都の雰囲気が伝えられ、ここは、開国だと思っていても一応、攘夷の勅諚を受け入れるしかないではないか、勅諚を受け入れず内乱が起きれば、政情は制禦不能に陥るかもしれず、いずれ開国論を論ずる機会が再びくるかもしれないと散々なだめられた。

 おそらく勅使は、攘夷の早期実行を言ってくると見当がつく。結局、その時は勅諚を受け入れざるをえないことになった。策も工夫もない話で、それこそ因循姑息の態度である。幕府のこの様(ざま)では、長行にとって、そのまま勅諚をお受けするためその日を待つしかなかった。

 

 十月二十七日、勅使一行が品川に到着し、松平春嶽らがこれを出迎えた。翌二十八日、勅使一行が新たに入った辰の口の伝奏屋敷に、松平春嶽、松平容保、水野忠精、板倉勝静、小笠原長行ら幕閣が参上し、天皇の御機嫌を伺い、旅の労をねぎらった。

 長行は挨拶する幕閣一人一人の様子を丁寧に観た。松平容保は、亡き正室の一周忌を終えたばかりと聞いた。

 ――法事を済まされ、もはや心は決まり、落ち着いているようにお見受けいたす

 容保は、近く一千もの兵を率いて京都に出達する。準備に多忙を極めるに違いない。

 長行は、ついで板倉の顔色から心痛を見て取った。

 ――板倉殿は、勅使接遇儀礼の変更要求は政治上の優位を朝廷がとるつもりだと、三条の詭計を看破なされた

 ――看破してはみたものの、従うしかござらぬ。もはや、どうにもなるまいかと……

 ――板倉殿は、幕府が危機にあることを案じ、夜も寝られぬのではないか

 長行自身も、あさってには常盤橋御門内の役邸に引き移る準備で家中は大忙しだった。生麦村の一件で英国から何事かを言ってきた時は、先頭立って英人と談判しなくてはならない。己の運と才覚でどこまでやれるか、懸念は常に頭について離れない。

 ――心静かにやるしかあるまい。弓を射る要領じゃ

 挨拶の終わりに、将軍が麻疹(はしか)にかかったので当分、謁見できそうにないと勅使に伝えた。幕府はこれまでにない鄭重さで勅使をもてなし、勅使はほくほく喜んでいるように見えた。勅諚を渡されるのが少し先延ばしになった。

 

 幕府が勅使迎え入れを準備するかたわら、長行が主導したのは、井伊大老、及び安藤信正、久世広周、内藤信親ら旧老中を譴(けんばつ)し、さらには、井伊大老を支えた幕僚を追罰することだった。安政の大獄を引き起こした罪を朝廷に謝罪し、天下の人心を公武合体に向ける構想の一環だった。元々、長行が意見書で上申してきた考え方である。

 これには幕府内にも反対意見が根強くあった。長行は一つ一つ丁寧に説明し、幕府唯一の策として公武合体を成功させたいのならば、朝廷の怒りを誠実に解く必要があろうと説得して廻った。老中の板倉、水野も同意し、譴罰、追罰者は相当の数に上った。

 これだけの手順を踏んで、十一月二十日付けで、故井伊掃部頭直弼以下に宛て、譴責文が公布された。本人の多くが故人または隠居となっているため、直接の宛先はその継嗣だった。

 主だった者の処断は、井伊家、十万石召上げ。元老中内藤信親、一万石召上げ及び溜間(たまりのまづめ)を解き帝鑑の間にお戻し。元老中間部(まなべ)(​あきかつ)、隠居及び一万石召上げ。元京都所司代酒井忠(ただあき)、加封一万石取り消し。元老中堀田正睦、蟄居。元老中久世広周、永蟄居及び一万石召上げ。元老中安藤信正、永蟄居及び二万石召上げとなった。久世広周、安藤信正は、井伊直弼暗殺の後、首を失ったにも関らず直弼を負傷者と扱ったことさえ譴責の理由の一つに数え立てられた。苛酷なものだった。

 長行は総ての譴責文を起草し終えた。かつての幕閣、幕僚の譴責が気の毒だと重々思った。涙を飲んででも、この犠牲をはらわなければ幕府は先には進めない。長行は深い詫びの気持ちを込めて自ら筆をとり、流れるような見事な筆勢で譴責の書状をしたためた。

 墨痕淋漓、内容を問わなければ、軸装して床(とこ)に掛けて眺めたいような達筆だった。幕府が粛然と自省の心をあらわし、幕僚に心がまえを変えるよう強く促し、朝廷へ誠心の詫びを表明したと世に示すことができると思った。これを出発点とし、公武合体の道に突き進む準備を完了した。

 この年、勅旨によって七月に松平春嶽と一橋慶喜が幕閣に入った。ついで、山内容堂が幕閣扱いとなり、松平容保が京都守護職となった。長行は老中格となって井伊大老の協力者と見られた幕閣、幕僚を処罰し朝廷に、幕府の公武合体の誠意を示した。その後には、生麦事件の後始末のため対英交渉の難役が待っている。幕府にとって前代未聞の最難関の重責を担うこととなった。板倉、水野にとって、とりうる最強の人事を布陣したのだろうと長行はわかっていた。

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第二章「重藤の弓-長行」九節「攘夷なる妄説」(無料公開版)

十 焦土と化すも 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 将軍が麻疹(はしか)から回復し勅使謁見となるまでしばらく間があいた。幕府は、容堂に三条実美との縁戚関係を利用し、勅旨の内容と内意をさぐるよう命じた。実美の母の実家は山内家である。容堂は鍛冶橋御門内の上屋敷に微行(しのび)で実美を招待し、一献を交わした。

 容堂は、勅使優遇儀礼にかける並々ならぬ実美の意気込みをあらためて知り、攘夷実行を幕府に迫る強い意志を感じた。実美は、よしんば日本を焦土となすも攘夷をご実行遊ばされたいのが叡慮であると意気揚揚、語った。日本を焦土となすという言い様が、ものの譬(たとえ)えとしても容堂には違和感を禁じえず、翌日、幕閣に実美の様子を伝えた。

 同じように、長行も、姉小路公知(きんさと)との遠い縁戚関係を利用し、微行(しのび)で会うことになった。場所は、最近、長行の賜った常盤橋御門内の役宅で、公知の滞在する伝奏屋敷からは道三橋を渡って間近の距離である。

 姉小路公知は、短小精悍にして色黒く、仲のよい三条実美とともに、黒豆、白豆と並び称されて、好一対だった。弁舌さわやか、ああ言えばこう言う口舌の巧みさをもって人の肺腑を衝くことで知られた。天保十年(一八三九)生まれの二十四歳、長行より十七歳の年少である。

 軽く酒が入って、もともとの饒舌がさらに精彩を増し、穏やかに笑みをたたえた長行を前に、公知は天朝の偉さから語り起し、攘夷を命ずる勅旨の意義を説き来たって、朝廷随一の舌鋒、面目躍如たるものがあった。

 ここでも、日本全国をあげてこれを焦土とするも、なお攘夷をとげるのが叡慮であるという言い様を聞くことになった。

 長行の見るところ、公知は青公卿に過ぎないが、なかなかの知性を持ち、指導力の故に、攘夷派公卿の中心人物に据えられたようだった。口達者だけではなく、なにより思考に柔軟性が見てとれた。

 ――おそらくは、長州、土佐の急進派志士に囲まれ、正しい情報を得られないまま、攘夷論の奇矯な考えにとらわれているのだろう

 ――公知に海外情勢を伝え、欧米の軍事力を教えれば、十分に理解するのではないか

 幕府、朝廷の諍(いさか)いを超えて、日本の進むべき道は開国論だと考えを変えてくれるのではないかと長行は期待を持った。

 ――この若者は真実を知らない、知れば攘夷論という妄説の呪縛が解けるのではないか

 長行は姉小路公知という青年を深く記憶に刻んだ。

 翌日、長行から、公知の振舞いや物言いを聞いた幕閣は、勅使の正副両人が幕府に攘夷を強く迫るのに、同じ譬(たとえ)えを使うことを気にした。この譬えは、よほど朝廷で広まり、安易に用いられていると想像された。

 海外情勢を知らない青公卿が、譬にしても、外国人を追い払うために日本を焦土にしても悔いがないと言い放つことは、許しがたかった。幕府にとって、日本が焦土になることは、朝廷の強い意志を表現する単なる比喩ではなく、今ここに在る危機だった。

 これまで、粒々辛苦、幕府は、ひたすら国民(くにたみ)と国土を守ろうと、外国と交渉してきた。焦土になることをひたすら避けるために、屈辱を乗り越えてきた。外国情勢をわきまえない青公卿にこのようなことをあけすけに言われ、ものの譬だと聞こうにも、存外、本気で言っているのではないかと、懸念は拭えなかった。

 

 勅使を迎え将軍の謁見まで間がある時期、幕府は三条らが勅書で何を言ってくるかほぼ掴み、屈託していた。そんなある晩、長行は水野筑後守忠徳を名乗る幕臣の訪問を受けた。長行は面識を持たないが、水野の強(こわ)もての威名をよく承知しており、屋敷に鄭重に招じ入れた。

 水野は、最近、お役御免となって政務から離れ、隠居して癡雲(ちうん)と号した。禄高五百石、長崎奉行の立場から日英条約の交渉、締結を主導した錚々(そうそう)たる能吏である。長行は水野の実力をすでに聞き及んでいた。いくつもの逸話の持ち主だった。

 安政五年(一八五八)日米修好通商条約が締結されて以降、水野は外国奉行に任じられ、横浜開港計画を立て、寒村に過ぎなかった横浜に堂々たる商都を建設した。条約では神奈川に開港場を設けると規定されていたが、東海道の神奈川宿は人々が多く行きかう宿場である。ここに外国人の居留地と貿易港を設け、日本人と雑居させるのは甚だ危険だと水野は考えたらしい。健全な行政感覚だった。

 神奈川宿と保土ヶ谷宿のほぼ中間地に芝生村の塩田がある。水野は、この手前で東海道から左に分枝する海岸沿いの細い道を拡幅し立派な街道に作り変えた。

 この街道の左手は一望の江戸湾で砂浜が真っ白に広がり、右手の潮溜まり際に平沼塩田の藻塩(もしおび)の煙が眺められた。野毛浦には海苔舟が点々と見られる景勝の道だった。東海道分岐から一里あまりで小さな漁村の浜に着く。

 水野はこの横浜という集落を開港場に選んだ。外国公使団は、和蘭(おらんだ)商館が長崎の出島に閉じ込められたように、隔離された貿易港になることを怖れ、この地を強く反対した。

 水野は、神奈川とはこの辺り一体の地域を言い、横浜とて神奈川の一角であると強弁して、条約の規定に違(たが)わないことを朗々と説いた。それが証拠に、ペリーと横浜にて締結した条約をわが国では神奈川条約と呼ぶのであると凄味ある口調で付け加えた。

 さらに、ここが水野の巧みなところだろうが、神奈川宿は高台にあって港湾との高低差は荷の積み下ろしに不便で、その前は砂浜が広がり浅瀬が続く。一方、横浜に砂浜などはなく、沖はいたって深く、大船でも岸壁近くまで接近できることに軽く触れた。

 しかも、神奈川にもまして風光明媚。遠く房総の翠巒(すいらん)、近く本牧の断岸、神奈川宿の台、権現山の眺めが一望にあって、最も幽邃(ゆうすい)にして、またとない佳勝の地であると説明した。水野の一言で外国公使団の反対は減り、その勢いを見計らって、横浜の開港場建設を強引に押し切った。

 また、水野は、一分銀とメキシコドル銀貨の交換比率について英米外交団と大論争をやってのけた幕府きっての経済通でもあった。その後、外交畑の優秀な幕吏が井伊大老に次々と罷免される中、一人、硬骨の気を吐いて外交に任じ、陰に陽に、幕府外交のあらゆることにあずかった。

 その精神は常に毅然たる格調を失わず、正論に拠って剛直な主張をなした。論旨明解、水も洩らさぬ緻密な論理はことの本質を鋭く衝くあまり、各国公使に恐れられ、ついには忌避された。

 水野は侃侃諤諤(かんかんがくがく)、相手の論に隙あるを見逃さず、見つければこれを衝かざることなく、歯に衣きせぬ言い振りは幕閣にも畏憚(いたん)され、この年七月、突然に箱館奉行を命ぜられた。

 特に松平春嶽は、硬骨の幕僚を使いこなす迫力と度量に欠けたか、水野を活かす人事でなく遠ざける辞令を達した。水野は開港されたばかりの箱館に赴任することを断り、ついに自ら御役を退いた。

 

 長行は、水野の名を聞いてその経歴と武勇談と言っていい逸話を思い起こした。その癡雲が長行の門を敲(たた)いて来た。

 小笠原邸の客座敷に通された水野忠徳は、丁寧に挨拶をなし、穏当にも

「日毎に寒うなりまする」

 と時候の挨拶などを述べて常識的なふるまいを見せた。

 長行も温容を保ち、一回り上の午年生まれの先達を鄭重に遇した。この時、水野は五十三歳、すでに老境にある年齢だったが、強い意志に満ちた明晰な眼差しは、韜晦(とうかい)のために抑えてはいるのだろうが、鋭さを十分に隠しきったとはいえなかった。

 かつて、秀才を喧伝された老中安藤信正をして

「ハリスは既に自己掌中のものとしたが、筑後だけは、まだそうはならぬ」

 と嘆かせた男である。安藤のように、自ら恃(たの)むところが篤く、部下の優秀さを中々認めたがらない男にして、水野には一目置かざるをえなかった。水野の背後からは、困難な外交交渉に力を発揮した重みとともに、信念を貫く硬骨の気迫が放射されているようだった。

 そこはかとない時候の話題から一転、水野は、三条、姉小路が伝えた勅諚内意に触れ、攘夷のためには国土を焦土とするも可であると両勅使が言い及んだことに話を転じた。

 水野が抑えた声音で話し始めた。

「今、勅使両卿の言うことが、果たして、小笠原公や容堂公の言われるような譬(たと)えであったとしても、驚くべきことではござりませぬか。嘉永六年黒船来航以来、幕吏のなすところ多少の過失をまぬがれなかったとはいえ、条約締結にあたり、心血をそそぎ、力を労したは、何のためでござりましたか」

 幕府は、常に誠心誠意、外国使節に応接し、わが国が世界列国に伍し、国土、国民(くにたみ)を安寧におきたかったからではないのかと、水野は長行に説いた。

 それをどうであろう、宇内の形勢を察しもせず、和戦の利害を考究することなしに、日本全国、あげてこれを焦土と化すも攘夷実行のためなら悔いはないと、勅使が天皇の言葉として言ったと聞く。

 しかも、前回の大原勅使のもたらした勅諚には、

 

    幕吏、奏して曰く、天下力を合わせ、以て夷戎を掃攘せんと。故に其の請(こ)う所を許す。而(しか)して

    幕吏連署して曰く、十年内必ず夷戎を攘(はら)わんと。朕甚(はなは)だ之を喜び、誠に抽(ぬき)んで神の
    祈りを以て其の成功を待つ

 

 とあり、国中協力して攘夷を十年以内に実施するとの幕府提案を帝(みかど)は嘉納されたのではなかったか。そのため衆議を尽そうと将軍が上洛することになっているではないか。

 前回の勅使帰還から三ヶ月しかたたず早くも次の勅使が来て、速やかに攘夷に決し大名に布告して攘夷の実行計画の良策を定めよという勅諚をもたらすのであれば、全くの齟齬、不整合も甚だしいではないか。

 水野の論理は、三ヶ月で再来した勅使のあやふやさを鋭く突いて、一転、幕府の対策を論じた。相手を圧倒する論理と眼光はいまだ健在であると見えた。

 水野は長行に向かって説きに説いた。

 三ヶ月前の勅諚と今回伝えられる勅諚の矛盾を見出したならば、幕府は、先ずその勅使をとどめおいて、閣老を上京させ、これが果たして叡慮から出たものかを朝廷に糺(ただ)すがよろしい。もし叡慮ではないとなれば、勅使の両卿は、勅諚を改竄する大罪を犯したものであるから、相応の厳罰に処すべきであると朝廷に宣言する。

 万一、叡慮から出たものであれば、幕府が誠心にこれを諫奏し、沮止(そし)したてまつるべきである。

 水野は、青公卿が不埒な勤王浪士にいいように言いくるめられ、踊らされて、思い付きを勅諚と僭称して江戸に上ってきたことを鋭く見抜いていた。

 ここから、水野の議論はさらに厳しくなった。もし天皇に幕府の諫奏が容れられない場合、国を保ち、民を安んじたもう天職を、天皇自ら異人嫌いの私心のゆえにこれを放擲し、日本を焦土に化そうとなされるのであるから、幕府が適当の処置をとるべきである、とした。

 これは、ご謀反とされ遠島に処せられた後鳥羽上皇の前例を踏まえていることは明らかだった。六百四十年前の承久の変である。

 長行は水野の話を聞いて驚愕した。たしかに理に適った正論で、法理的な立場を冷徹に踏まえていると思った。しかし、正義だと言ってこれをやれば、安政の大獄の再来となり朝幕関係は完全に破綻する。間違いなく、暗殺と内乱が引き起こされるだろう。

 長行は、驚きを内心に秘し、水野に向って淡々と顔色を変えず、今の幕府の方針を説いた。

「あくまで公武合体、日本の心を一つにし、幕府の誠意を朝廷に信じていただき、その上で、衆議を尽くして幕府の考えを朝廷にお取り上げいただくのが大方針である」

 穏やかに伝えた。

 実は、水野もそのあたりの機微はわかっているのだろう、法の論理を最も厳格に運用すればどこまでのことが主張できるか示しただけのようだった。さほど自説にこだわらず、議論を繰返すことを控えた。

 水野の言い分は長行によくわかった。前回の勅諚との矛盾を衝いて偽勅ではあるまいかと暗示してやるだけで、青公卿など歯の根も合わぬほどに青ざめるであろう。そこまでせずとも、勅使には堂々と対峙せよ、こちらが臆するような正当性を勅使は持っていないのだと言いたいようだった。

 長行は水野の建言を聞き、もちろん、取り上げはしなかった。しかし、その鋭利な論旨と豪胆な発想に深く印象付けられた。長行は水野が気に入った。使い道のある男だと思った。

 最後に水野がこう言った。

「真に攘夷説を妄信する輩は恐るるに足らず。攘夷を名として尊王を説き、其の志を伸ばさんと欲するもの恐るべきなり」

「攘夷論は薄禄非職の士流に盛んにして、厚禄奉職の上流に少なし」

 尊王攘夷の動きは倒幕の野心を秘めているという。物事の正鵠を射抜く水野の慧眼が長行の胸に響いた。

 おそらく水野も長行を気に入ったであろう。長行の帷幄の謀臣になってもよさそうなことをそれとなく示唆して帰っていった。長行は、この縁はきっと何かに使えると予感した。もし使えば、よほど剛直な策になると思った。

 ――さほど先のことでないかもしれない

 この晩、長行の長考が続いた。

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第二章「重藤の弓-長行」十節「焦土と化すも」(無料公開版)

九節二章「攘夷なる妄説」
十節二章「焦土と化すも」
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