第二章 田に実らざる富
一 重きを背負う 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照
宝暦十一年(一七六一)六月一日、例年どおり加賀藩前田家より氷室(ひむろ)の献上があった。倫子(ともこ)は、届いたばかりの氷を大奥から二之丸御膳所に急ぎ運び入れ、細かく欠き割った。そこに蜜漬けの梅肉で香味を調(ととの)え、花穂紫蘇(はなほじそ)を添えて自ら氷菓を誂(あつら)えた。
そんな調理の合間にも、浜御殿で身に付けた技なのだと思い、舅の授けてくれたことなのだと思うことしきりだった。病間に入って見舞うと、家重は所望すると頷(うなず)いた。
「嬉しゅうございます。倫子の誂(あつら)えで、お気に召しますやら心配でございますが、暑気払いには宜しいかと……」
倫子は、小姓の手助けを借りながら甲斐甲斐しく、家重の背にそっと手を差し入れた。やせ細った背中をやさしくわが胸元に支えると、ひと匙、ゆっくりと舅の口に含ませた。
倫子は、食欲を失った舅が目を閉じて氷菓の爽やかな風味を味わうのを目にして、静かに耳元に語りかけた。
「今日、上様は六月朔日の月次(つきなみ)拝礼で、今頃、大広間で、在府のたくさんの御大名から御挨拶をお受けでございましょう。氷の解けぬうちに、わたくし一人で御見舞いに罷(まか)り越(こ)しました。前田家の氷をお召上がりになられ、さっぱりと暑さをお凌(しの)ぎ遊ばされますよう」
家重は、何度も倫子の胸元で頷(うなず)き、いく匙も美味そうに口にした。舅と嫁の細やかなやりとりに周りの小姓はみな下を向いて、肩を震わせた。
家重は日を重ねるにつれ次第に全身のむくみがひどくなった。一進一退を繰り返し、その都度、親しい身内や家門、譜代の大名から見舞いを受けた。家重は、家治と倫子の見舞いをなにより喜んだ。
まだ、さほど目立ちはしない倫子の腹に目を向け、よくよく大事をとるよう、なにくれとなく優しい言葉をかけたが、もはや、喃語にも力を欠いた。世を継ぐ嫡孫になるかもしれない新しい生命(いのち)と入れ替わりに、障害を背負い続けた肉体が一切の苦悩から解き放たれようとしていた。
六月十二日丑の下刻(午前三時)大御所、徳川家重が逝(ゆ)いた。享年五十一。ほとんどの幕臣にとって、声を聞いたこともなく、何を考えているかもわからず、尊敬と親近感の持ちようもない最期まで謎めいた将軍だった。
*
家重の厳かな大葬が済みしばらくすると、意次に、家治の御用取次を勤める多忙な日常が戻ってきた。下城して呉服橋御門内の屋敷に戻ると、意次は寝所の障子を開け放ち考え込むことが多くなった。どことなくかつての大御所様の風に似てきたと思った。
意次には、世の大きな変化に耐えるよう幕府財政の仕組みを作り直す責任があった。家重から託され、なんとしてでもやり遂げる不退転の信念を持している。できなければ、幕府財政の悪化が続き、同様に諸藩の経済が窮乏し、豪商が武家を超える経済力を握るに違いない。武家の世が危うくなりかねない。
今の世で武家社会が直面する財政危機は、なぜ起きたのか。
――米の生産量が格段に上がったこと、貨幣の流通が広まったこと、この二つが遠因ではあるまいか
意次は米の量と金回(かねまわ)りのことを常に考えていた。意次には、いずれのことも常憲院(五代将軍綱吉)の御代に萌芽し、ゆるやかに五十年を経て、いろいろの課題を引き起こしているように思えた。
幕府創設以来、百年近くも営々と新田開発に励み、国挙げての努力によって米の生産高が大きく増えた。この時期、子が多く生まれ人口が増えたが、それでも民が米を喰っていけるようになった。新田開発で耕すべき田畑が増えても、百姓の数は十分事足りた。
人口増と米生産増がよい循環で回った結果、元禄年間、庶民でも米を喰えるようになったのは素晴らしいことだった。
享保の終わり頃には、米がますます多く穫(と)れるようになり、人の数の増加を上回るほどになって米が余るようになった。その結果、それまでの米の価格が、維持できなくなったのは当然だった。この頃、米価の下落で幕府が四苦八苦したことを意次はいやというほど知っている。
元禄の頃、貨幣が広く流通するようになってからは、米による買い物が不便になって廃(すた)れた。米遣(づか)いから金遣いへと世の仕組みが変わった。ところが、百姓が水田に米という富を実らせ、それを武家が年貢として取り上げる仕組みは変わっていない。
金遣いの世では、年貢米を売り捌(さば)き、その代(しろ)を金や銀で得て、はじめて武家が貨幣経済に参加できる道理である。この機序(からくり)が世の中で盛んに動き、今や幕藩体制の脅威になりかねないことに幕閣はどこまで気付いているだろうかと意次は心許なく思った。
――米は一商品に過ぎなくなってしまった。その米に幕府財政の主力を置いて、歳入の殆(ほと)んどを依存し続ければ、幕府財政が崩壊するのではあるまいか
意次は心底、恐ろしかった。年貢米をいくらで売却できるか、武家にとって深刻な問題になるのは当然だった。いくら幕府が力んで市場に介入してみても、幕府の思うような高い米相場にならなかった。米価は、武家が関与できない機序(からくり)によって安い相場が続き、幕府も諸藩も困ったことになってきた。
享保年間、はじめの三年間は、大坂米市場で、米一石につき銀百二十匁(もんめ)を超える高値だった。大坂は銀遣いの経済圏だから、米も銀で取引される。それが、享保四年(一七一九)以降、まずまずの作柄の年では一石、銀四十匁ほどの安値に下がったことを意次は勘定奉行所の集まりに出て知った。
さすがに、享保五年(一七二〇)、六年のように二年連続で大水の被害を受けた年や、享保十七年(一七三二)浮塵子(うんか)の大虫害を受けた年のように、作柄がひどく悪い年には一石あたり銀百匁から百五十匁にも暴騰した。
享保二十年(一七三五)も米価は大きく暴落した。幕府は、売買を許可する最低公定価格を上米一石あたり銀四十八匁とする旨布達したが、闇相場では米一石が銀二十二匁以上では売れなかったと勘定奉行所の記録に残っていた。
――商いの世界では、幕威も何もあったものでないのじゃ。金(かね)の勢いが幕府より強い
意次は、この認識に立って世の中を見なければならないと自戒してきた。平年の作柄なら、幕府が標準とした米一石、銀六十匁という水準が保てない事態に至ったという冷静な認識であり、つらい覚悟だった。
享保に続く元文元年(一七三六)には、新しい貨幣が発行され経済が円滑に回った。元文、寛保、延享、寛延年間にわたって、米価が一石銀六十匁を下回ることは、あまりなくなった。まずまずの値が付く安定した米相場になって、幕府、諸藩の歳入は安定し、庶民はそれなりの値の付いた米を喰って安気に過ごした。いい時代で幕府も一息付いた。
吉宗が死んだ宝暦元年(一七五一)再び米価が下り始め、宝暦三年(一七五三)上米とされた広島米が四十匁を割り込むまでに暴落した。
大坂堂島の米市場で、年内に買い手がつかないまま年を越した越年米(おつねんまい)は、宝暦二年に過去最高の百八十九万俵(七十五万石)となり、翌宝暦三年には、二百四十八万俵(九十九万石)に膨れ上がった。在庫がここまで積みあがれば、米価下落は必至だった。
米価が安値になったので、諸藩が年貢米を大坂に持ちこんでも現銀収入は多く見込めなくなった。江戸では金が取引に使われ、御家人が幕府から給与される切米を札差に売って小判に換金する仕組みだから、米価安の相場では、直ちに現金収入が減って御家人の生活が苦しくなった。
たとえ米価安であっても、諸色と呼ばれる米以外の生活必需品の値も一緒に下がれば、生活はなんとかなった。しかし、諸色は高値が続き、下がるのは米価だけのことが多かった。
良い商品なら、金を持った商人がためらわずに買う世の中になった。高い金をだしても買いたくなるよい品々が多く商(あきな)われるようになった。幕府が華美、奢侈を禁じてもなかなか実効が上がらず、諸式が下がらないのは、貨幣経済の担い手にのし上がった商人の豊かな懐具合のせいだった。
意次は、家重が、世の金回(かねまわ)り、米価と諸色こそが幕府の最重要課題だと言ったことを思い出した。
――惇信院様は、有徳院様を亡くされた直後から米価安の試練に遭われた
意次は、吉宗歿後すぐに家重の直面した苦難を思い出した。あの頃、米価が暴落し、米を換金して生活する幕臣の窮状をなんとか救わなければならず、さらに幕府の歳入減少の対策を打たなければならなかった。
意次は、宝暦の始め、家重の側にあって共に苦労した。諸藩も同じ困難に直面し、武家社会全体が軋(きし)みを立てていた。家重の懊悩を脇で支え、一体、何が悪くてこうなるのだろうと主従で悩んだ日々だった。米の出回る量と金回りの不思議な機序(からくり)に翻弄される気がしたものだった。
その危機を救ったのは老中たちの打った経済政策ではなかった。宝暦五年(一七五五)におきた関東、北国、奥州の飢饉だった。米不足によって一気に米相場は急騰し、大坂米市場では一石九十匁ほどにも騰(あが)った。奥州で五、六万人もの餓死者をだした飢饉のおかげで幕府財政が救われたと知ったとき、家重と意次は屈辱的な思いを抑えきれなかった。
歳入の価値を担う商品が、平時に、幕府の希望価格を大きく下回れば、武家政権を健全に維持できるはずがない。田に実る富に依存する歳入体制が限界を呈しているのではないかと家重と語る日々を過ごした。
大商人は、米価変動を機敏にみて大儲けするようになった。投機の潮目を見抜き、相場を張って巨利を博した。米価が暴落してさえ、大坂堂島米市場の帳合米(ちょうあいまい)取引(先物取引)の仕組みを利用すれば儲けの種は尽きない。相場で得る利は、田に実らない価値であって、幕府が想定しない富だった。こればかりは武士に太刀打ちできなかった。
治められる商人が治める武家より経済的に強くなり始めた。それでは、と幕府が大商人から運上を取ろうにも、そう簡単ではない。勘定奉行が商家一軒一軒の大福帳を査閲できる体制にはなく、課税根拠を把握できない。
よしんば幕命によって大福帳を査閲できたとしても、入(い)りと出(で)の単なる羅列記録からでは、容易に商家の財務全体を把握できない。勘定所役人の総勢が足らず、経理能力もそこまで追いついていない。
店の間口一間あたりで運上額を決める案も出たが、田畑と異なり広い店ほど商い高が大きいわけではなく、年貢高を決める場合とでは勝手が違った。見方を変え、手立てを改め、仕組みを直す時だった。
――大御所様は大きな物を遺(のこ)されて逝(ゆ)かれてしまわれました。主殿には、重すぎる物でござります
意次の悩みは果てがなかった。ときに挫(くじ)けそうになる心を励まし、亡き主君を偲びながら、一歩一歩、歩むしかないと心を決めた。亡き主君、惇信院の遺言は重かった。
佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第二章「田に実らざる富」一節「重きを背負う」(無料公開版)