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五 銀を出さず 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 宝暦十二年(一七六二)六月十六日、江戸城内では嘉祥(かじょう)の祝いが例年通り行われた。この日、総登城し大広間に集まった大名や御目見以上の幕臣に菓子を賜(たまわ)る。

 家康の故事にちなんで、大鶉(おおうずら)焼き、阿古屋(あこや)餅、大饅頭(おおまんじゅう)、羊羹(ようかん)、大金団(おおきんとん)、寄水(よりみず)の六種の菓子と煮染麩(にしめぶ)、熨斗操(のしくり)、計八種をそれぞれ白木台に盛って、千六百余膳を大広間の二之間五十四畳と三之間六十七畳半の座敷にびっしりと並べ立ててあった。

 菓子は嘉祥頂戴と称され大名、幕臣にとって名誉の縁起物だった。ただ、この年の嘉祥菓子はいつもの年より小さく貧弱だったが、勘定奉行の倹約励行だと気付いた大名もいるにはいたようだった。

 その夕刻、石谷備後守清昌は勘定奉行に長崎奉行を兼帯し、十日を経て田沼邸を訪ねてきた。意次は奥の十畳の簡素な座敷で黙考しながら待っていた。清昌が部屋に案内されてくると、意次はにこやかに頷(うなず)いた。

 此度(こたび)、意次の姪で新見(しんみ)正則の女(むすめ)は、清昌の嫡男十七歳と婚約する話がまとまった。田沼家と新見家と石谷家は重縁で結ばれることになる。清昌は仕事上の同志にして縁戚。堅苦しい時候の挨拶など不要の間柄だった。

 本丸では中奥の御側衆詰所や、大廊下脇の勘定奉行詰所で、頻繁に談じ合う仲だった。この日意次は、清昌が長崎に赴任する活動方針について丁寧に打ち合わせるつもりだった。

 三年前、清昌が勘定奉行に就任して以来、家重の前で、意次と清昌は幕府財政改革の計画を論じてきた。家重、清昌、意次は順に四歳ずつの年長で、三人は若い頃、老中松平左近衞将監(さこんえしょうげん)乗邑(のりさと)(佐倉藩六万石藩主)が勘定奉行神尾(かんお)若狭守春央(はるひで)を腹心として、年貢増徴策に辣腕をふるった頃の幕政を見聞きして育った。

 神尾春央は年貢取立ての厳しさで名をはせた勘定奉行で、こんな言いざまでよく知られていた。

 

 胡麻の油と百姓は、絞れば絞る程出るもの也

 

 年貢を苛酷に絞ったため大規模な百姓一揆が頻発した。年貢率を巡って幕府と百姓が鋭く対立する時勢を家重ら三人の主従は共通に体験した。

 主従三人が目指したのは、もはや年貢の増徴ではなく、新たな方法で幕府の歳入を好転させる政策だった。年貢を多く絞り取っても、在庫が増えて米価が下がれば現金収入は増えず、むしろ暴落する米価を買い支える資金を要するほどだった。年貢と異なる別の歳入を考えなければならないという立場で三人は考えを同じくしていた。

 三人の頭に、勘定奉行職と長崎奉行職を一人に兼任させ、長崎貿易を幕府財務と直結させる政策案が漠然と見え始めたあたりで、家重は二人の俊秀に後事を託して譲位し、ついに逝(ゆ)いた。長崎において、唐(から)とオランダとの貿易からいかに効果的に利潤をえて幕府財政を改善させるか、交易体制の刷新が目標になった。

 勘定奉行に長崎奉行を兼任する特殊な人事の先例は、寛延元年(一七四八)に就任した松浦河内守信正を数えるのみだった。両奉行兼任人事の意味を理解しない老中の多くは、前例が殆んどない人事案に反対し、決定は難航した。

 家重は生前、堀田の没後に勝手掛老中を置くことを認めなかった。意次と清昌が手腕を発揮しやすいよう、この職を空席としておいたことが幸いした。おかげで勝手方(財務)に専管的な発言権を有する老中はおらず、清昌の長崎奉行兼任が辛くも承認された。

 従来の長崎奉行は、長崎の町を治め、交易をそれなりに管理すれば事足りた。石谷によって、それとは質的に異なる長崎奉行が誕生するはずだった。

「一歩、一歩、惇信院様の御遺言が実現していくようでございます」

 清昌は語った。

「備後殿の長崎赴任の前に、仕法の平仄(ひょうそく)を合わせておきとうて、今宵は御足労を願いました。御存念のほどをお聞かせ下され」

 意次はいつもの丁寧な口調で清昌を促した。これから幕府勘定を差配する長崎奉行として、あるいは長崎貿易を管掌する勘定奉行としてどのように活動するのか、構想を聞こうと居住まいを正した。清昌は軽く会釈して、淡々と話を始めた。

「唐人が長崎に持渡す品を増やすのではなく、金銀以外の品で長崎から唐人に買渡す品を増やすのが肝心でござる」

 清昌は、唐人が長崎に持ち渡す品目(輸入品)と日本側が買い渡す品目(輸出品)の比率をよく考え、輸入を増やさず、金銀以外の品を輸出すべきことを論じた。

「唐人の持渡品が増えれば、再び、お国から金銀が流出しないともかぎりませぬ」

 清昌のこうした考えは、新井白石の論考が基礎になっていた。新井は、六代将軍家宣に侍講として仕え、御側御用人の間部(まなべ)詮房(あきふさ)を助けて正徳時代の幕政を主導した儒者である。

 かつて石谷(いしがや)家本家に新井白石の女(むすめ)が嫁いだ縁もあって、清昌は新井が五十年以上も前に書綴(かきつづ)った『本朝宝貨通用事略』二十丁四十頁の手写小冊子を深く読み込んでいた。そこに並ぶ恐るべき数字を伝えたくて、意次に筆写本を用意したのはもう随分と前のことだった。

 新井は、慶長六年(一六〇一)から宝永五年(一七〇八)の百八年間に貿易を通じて海外に流出した金は七百十九万二千八百両、銀は百十二万二千六百八十七貫に上ると推計した。海外流出量は、この期間における日本総生産量の、金は四分の一、銀は四分の三に相当すると冷静に警告してあった。

 幕府成立以降、日本が唐産絹織物を唐商人や、ポルトガルまたはオランダの商人から大量に買上げ、その支払いに要した金と銀の莫大な量を知って驚愕したことが、意次と清昌が危機意識を共有する始まりになった。これほどの金銀の殆(ほと)んどを絹織物の輸入に費やしたことに焦燥を覚え、二人は同志になった。

 小判は金で、丁銀は銀で鋳造する以上、これほど大量に金銀が流出し続ければ、金、銀通貨を発行できなくなる日は近いと考え、長崎貿易に制限をかけた新井の政策がよく理解できた。藩札は紙で作れても、幕府の貨幣はどうしても、金と銀が必要だった。

 国から金銀が流出するとしても、国内で輸入絹織物は高く売れるから、輸入した日本商人と仲介した長崎会所に損はない。商人個人単位、あるいは長崎の町単位で儲かるにしても、国単位では金銀流出の損をこうむることを清昌はひどく気にした。

 金銀を輸出すると言っても、金銀で決済すると言っても、結局は同じことで、いずれにしても金銀が国から流出する。絹織物などを輸入する以上に、金銀でないものを輸出し金銀を取り戻したらどうかと清昌は主張した。

 金銀に代わる輸出商品が一体何かと考え、まずは銅、ついで煎海鼠(いりなまこ)、乾鮑(ほしあわび)、鱶鰭(ふかひれ)の俵物三品だと思い至るのは容易だった。特に清昌は吉宗の小姓だったから、吉宗がこれらの品々の輸出に力を入れたことを将軍の脇で直に見聞きしてきた。

 銅は宝永五年(一七〇八)までに二十二億二千八百九十九万七千五百斤(百三十万噸)もの量が流出したと新井が推計していたが、金銀と違って、新井の時代にはまだまだ掘れる見込みがあった。

 元禄十年を過ぎた頃から、銅の生産量が徐々に減り始めた。煎海鼠(いりなまこ)、乾鮑(ほしあわび)、鱶鰭(ふかひれ)などは尽きずに増産できる海産物だから、限りある天然鉱物より、国益上、はるかに望ましい輸出品だった。

 清昌は、砂糖、蘇木などの消耗品の輸入量を増やしても、商人が利を上げるばかりで国益に不利であり、逆に輸入量を減らしても、輸入品はかえって高値が付いて利が厚くなるから商人は不満を持たないと話した。持渡し(輸入)を拡大するよりも、俵物こそ多く買渡し(輸出)するほうがいいと意次に語った。石谷は俵物(たわらもの)を長崎流に俵物(ひょうもつ)と呼んだ。

「俵物(ひょうもつ)を増産し、買渡しを増やせるように致せば、唐人が銀を多く持渡していくと存じます」

 俵物はまだまだ品薄で、供給過多による値崩れの心配は当分、不要だった。米市場で年貢米をどう売り抜くか、米価下落に手を打ってきた勘定奉行の経験が裏付けにあることは明らかだった。金銀以外の品目の輸出こそ振興すべきだと清昌は言う。意次は大いに納得した。

「まずは、主に俵物三品を買渡し、それで不足する分は銅で巧(うま)く捌(さば)くということですな」

「仰せの通りです。そのため長崎会所を改め、地下(ぢげ)役人の規律を正しまする。さらに交易に用いる全国の銅を長崎会所で一括して管理したく存じまする。さらには俵物三品の増産を津々浦々に呼びかけ、漁民に励みを与えながら、買渡し分を伸ばしとうございます。これが伸びれば流出した金銀を買い戻すことができ、貨幣新鋳に必要な地金(ぢがね)調達に役立つことでございましょう」

 意次に清昌の構想がはっきり伝わった。さすがの者だと納得したのであろう、意次はにこやかに笑みを浮かべた。

「感服仕(つかまつ)った。備後殿は、勘定奉行に長崎奉行を兼帯するのですから、相当のことが出来ましょう。あとは江戸表でそれがしが備後殿の仕法をお助けいたす。本日はまことに貴重なお話を承り、御礼の言葉もござらぬ」

 対話が滑らかに流れ、新たな経済構想が二人の間に行き交った。話を終えて意次には、これまで積み重ねた議論が整理され、大きな絵図が頭の中に展(ひろ)がる気がした。

「それはさておき、御嫡男の清定殿はお健(すこ)やかですか。備後殿が一度、長崎から御帰任された頃、佳(よ)き日を選び寿(ことほ)ぎたいものです。今年秋にはご赴任の運びとなりましょうから、来年末には江戸にお戻りでしょう。その頃ともなれば、姪もいかばかりか喜びましょう」

「それがしも、時宜を見計らって佳(よ)き日を迎えたき望みに変わりございませぬ。それはそうと、さきほどより、時折かすかに、筝(こと)の音が遠くより聞こえてまいりますが、姫君のお爪弾(つまび)きでしょうか」

「これは、これは。お耳をけがし、いささか面映(おもは)ゆうござる。実は、新見(しんみ)の家から姪がたまたま遊びに参っております。我が家のむすめと従姉妹(いとこ)同士、筝などを遊び弾いておるのでございましょう。備後殿には、今宵、姪に御目通り賜りますれば、それがしも嬉しゅうございます」

 清昌がにっこりとほほ笑み、頷(うなづ)き返した。この話が良縁だと喜んでいる表れらしかった。二人は、紀州以来、父祖の代から続くかけがいのない縁を心の深奥に大切に収め、何気ない風で楽しそうに雑談を重ねた。

佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第二章「田に実らざる富」五節「銀を出さず」(無料公開版)

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