第二章 述志
一 浅草御蔵前片町 前節に戻る 目次に戻る 次を読む ブログを参照
佐十郎は江戸に到着し、浅草に構える天文屋敷に向かった。天文方は幕府の若年寄支配の御役で、編暦、測量、地誌を掌(つかさど)る。十年前の戊午(ぼご)の改暦は、先代天文方の高橋至時(よしとき)が膨大な計算を元に完成させた立派な業績だった。今、天文方を勤めるのは至時の長男作左衛門景保だった。
佐十郎が浅草御門をくぐって神田川を渡ると、広い道がまっすぐ北に延び、半里(二キロメートル)ほど先の金龍院浅草寺の雷門まで続くと聞いた。この通りは日本橋や京橋の下町から浅草寺や吉原に通う往還だとか。佐十郎は、昼夜を問わないという往来の賑(にぎ)わいを驚いて眺めた。
この通りをわずかばかり行くと、並んで架(か)かる二本の橋に至った。右手に御蔵の塀が長々と続くのを見ながら、橋を渡って左に曲がり、御蔵前片町を突っ切ると新堀の畔(ほとり)に出た。
ここに架かる天文橋の正面が目指す天文屋敷だった。およそ二千五百坪と聞いた。敷地内に、渾天儀(こんてんぎ)が屋敷の棟瓦(むねがわら)を越えて高く組まれてあるのが塀越しに見えた。初夏の空は真っ青に晴れ上がり、背後に遠く富士山が望まれた。頂きに雪が消え残り、江戸を不在にする父に代わって、
――笑顔で迎えてくるっと
わくわくする思いで、佐十郎は、彼方(かなた)の富士を眺めた。胸中、仕事に取り組む意気込みが熱く湧き上がるのを感じた。
着任すると、早速、佐十郎は高橋作左衛門から天文方の任務と現況を聞かされた。天文方では、前年の文化四年(一八〇七)十二月、地誌御用の局を開設する旨、若年寄堀田摂津守(せっつのかみ)正敦を通して、大学頭(だいがくのかみ)林述斎(じゅっさい)と作左衛門の二人に下達された。作左衛門が中心となって、世界地図の翻訳刊行事業が開始された。魯西亜(おろしあ)船によって、樺太(からふと)、択捉(えとろふ)、礼文(れぶん)を襲撃され、精密な地図がどうしても必要となったからだという。
蝦夷地には、まだ日本人の測量が及ばない地域もあるから、欧羅巴(ようろっぱ)人の作成した地図を参照する方針となり、外国地図読解のため局を開設するに至った。作左衛門は、北方地域に関する兵要地誌の必要性を進言し、何をするにも、まず地理を把握しなければならないと幕府を説いたことがきっかけとなったと教えてくれた。
聞けば、作左衛門は父親の至時(よしとき)が文化元年(一八〇四)に急逝した後、天文方に任命されたばかりだという。この頃、満州語のできる日本人がいなかったため、レザノフが長崎に持参した満州語版のロシア皇帝親書を教材に満州語の研究を命じられたところだった。作左衛門はまだ若く、大槻玄幹や吉雄六二郎と同い年、佐十郎の二歳の年長でしかないことを知った。
こうして天文方のおかれた状況を知って、佐十郎は、まず手始めに、阿蘭陀(おらんだ)から輸入した地理関係の蘭書と蘭語表記の地図の翻訳を担当することになった。
佐十郎の蘭語の力量は数日のうちに天文方の皆に知れ渡った。天文方所員が少し質問するだけで、よほどの蘭語達者とわかった。長年わからなかったことを、掌(たなごころ)を指すように明快に、そして親切に教えてくれるという話が所内に広がった。
佐十郎は、口頭の説明で足りないと思えば、その場で蘭語の例文を示し実例をもって教えた。佐十郎のやり方だった。次々と例文を書きだしては、様々な用法を幾通りも教えた。教えてもらった方は口を開け、ひたすら感心して聞き惚れ、その明晰さに愕然となった。
これほど、わかりやすく蘭語を教えてくれた師はいなかったと所員の誰もが思ったようだった。それだけでない。佐十郎が蘭語を発音してみせると、阿蘭陀語とはこういう言葉だったのかと言わんばかりに、皆が皆、目を剝(む)いて唖然となった。中には、言葉を失ったあげく、音をたてて唾を呑み込む者までいた。
こうした所員の様々な話が行き交うなか、佐十郎は作左衛門に呼ばれた。
「そなたの蘭語の力のほどは、御父上が蝦夷(えぞ)に出達する前に、言い置かれていった通りだった」
「……」
佐十郎は、作左衛門から力量を認められたと、少しは嬉しくもあり、黙って静かに聞いた。
「将来、異国人との折衝、応接事務に就(つ)き、さらには魯西亜(おろしあ)語を習得するよう心掛けてほしい」
近年、日本に寄港する異国船に、蘭語だけでは対応できないことが多い。日本に阿蘭陀以外の異国船が近付いている証拠だった。幕府がこれを知って、蘭語以外の異国語を学ばせる計画があるという。ともかく、異国地図と地理書の翻訳業務だけでは、佐十郎を遊ばせておくようで勿体ないということのようだった。
各分野の蘭語書物の翻訳、蘭語文法と訳解の指導、蘭語発音の指導、魯西亜(おろしあ)語の習得、魯語書物の翻訳の業務が新たな任に加えられた。よほど盛り沢山の仕事で、佐十郎は、作左衛門から強く期待されるのを感じた。佐十郎は何の衒(てら)いもなく何事でもないかのように、一礼して淡々と命を受け、静かに仕事を始めた。
八月、佐十郎は、早速、『東北韃靼(だったん)諸国図誌 野作(えぞ)雑記訳説』六巻の訳稿を作左衛門に提出した。これは、最初に取り掛かった地理蘭書の翻訳で、三月(みつき)とかからなかった。亜謨斯的児覃(あむすてるだむ)市長、東印度会社社長、駐英阿蘭陀(おらんだ)大使を歴任した蘭人ウィットセンの著作『 Noord(北) en(及び) Oost(東) Tartarien(タタール人) 』第三版(一七八五年刊)から蝦夷、千島、樺太、東北韃靼(だったん)(タタール、満州)に関する章を抄訳し、その他の和漢洋の書物を参照して考証した地誌だった。
急を告げる北方の地政学的知識をいち早く知りたがった作左衛門から指定された蘭書だったから、作左衛門はじめ所員が貪るように争って読んだのは当然だった。
さらに佐十郎は『帝爵魯西亜国誌交易編』二巻を提出した。これは、『Historie(歴史) van Keizerlijk(帝国) Rusland(ロシア)』ブロデレット著を為八郎が前年の秋から訳し始め、多忙で完成できなかった訳稿を佐十郎が引き継いで抄訳したものだった。
八月、佐十郎は、立て続けに二冊の魯西亜関係書をこなれた翻訳にまとめ上げた。初めて知る重要な地誌、歴史の内容もさりながら、佐十郎の仕事の速さに作左衛門ら所員が驚嘆の目で見ていることを知った。五月に江戸に来たばかりで、
――わずか数か月でなしとげた仕事だとはとうてい思えぬ
というのが所内の評判らしかった。両書は、いずれも関係者の校訂を済ませ、翌文化六年の序文と凡例を付して正式手写本として完成する見込みとなって佐十郎の手を離れた。
この訳業によって、佐十郎は、魯西亜の東方進出の歴史を知り、毛皮獣を追ってシベリアからオホーツク海に出てきた国情を理解した。レザノフが長崎に来航したとき、なぜ、あれほど交易に固執したか、交易を許してやれば、どれほど魯西亜に好都合だったか、佐十郎は初めて理解し、当時、交渉に当たった父の苦労を思いやった。
交易を許されなかった魯西亜が恨みを含んで北方で掠奪を働いたのではないか、と推理する根拠にもなった。作左衛門も幕閣も、佐十郎の訳業を読んで魯西亜の国情を理解したに違いなかった。
――幕府も対抗する策ば立てるに違いなか
略奪を受けて、蝦夷地をこのままに放置して、いいはずはない。
この年、佐十郎が江戸でなし遂げた仕事はこれだけではなかった。蘭文法書『蘭語首尾接詞考』を八月に脱稿した。この書で、佐十郎は動詞の頭に前置詞を付加して動詞の意味を修飾する語法を解説した。これは所員に聞かれることが多く、佐十郎がよく例を示して教えたことがきっかけとなった。
たとえば、「aan」 は「宛てて」、「向かって」の意をもつ前置詞である。その語義に「者。于。辺。在。来。至。接」などの漢字を当てて概念を説明した。これを 「komen 来る」の頭に「首詞」として付加すれば 「aankomen」 の単語となり、「至り来る」すなわち「到着する」の意となると説いた。
さらに、名詞の語尾に付ける「尾詞」を説明し、たとえば、「vriende 友」に 「lijk」 の尾詞を付けた 「vriendelijk」 は「友のような、友好的な」と形容詞になることを教えた。
佐十郎は、初学課程を一通り終えた中級者向けにこの本を書いた。首詞と動詞、名詞と尾詞の多くの組合せを明快な規則の上に体系立って説明し、豊富な文例をあげて実用的に説き起こした。蘭学を相当やってきた者にとってさえ、今までの曖昧な認識が一気に明晰な知識となった。
「目から鱗が落ちるとはこのことじゃ」
「阿蘭陀人仕込みとはこげに凄いものかの」
天文屋敷で、この本の話題で持ち切りとなるのを聞いて、佐十郎は嬉しそうにほほ笑んだ。
佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第二章「述志」一節「浅草御蔵前片町」(無料公開版)
二 長崎八百屋町 前節に戻る 次を読む 目次に戻る ブログを参照
文化五年(一八〇八)十月、為八郎が半年ぶりに蝦夷(えぞ)から戻ってきた。天文方で佐十郎が休む暇(いとま)なく眩(まぶ)しいほどに活躍する姿を見て、幕府のため、馬場家のため心から喜んだ。息子を見る父親の目は誇らしげだった。江戸の町に晩秋の気配が深まる頃、去る八月十五日に長崎で異国船が不埒な行動に及び、大事件を起こしたことが天文方に伝わってきた。
作左衛門によれば、長崎に入港してきたのは、阿蘭陀船を偽装(よそお)い、蘭三色旗を掲(かか)げた英吉利(いぎりす)軍艦フェートン号だったと後にわかったいう。その日は、オランダ商館員が母国の船だと疑いもせず、長崎奉行所の検使に先んじて小船で向かったところ、その内二名が、船に拉致され、人質にとられた。
そのうえで食料、水を長崎奉行に強要してきた。英艦のやり方は町の破落戸(ごろつき)と変わらなかった。鍋島藩が警護の年番に当たっていたが、財政難のため定められた兵数を整えておかなかったばかりに、長崎にまとまった兵がいなかった。
長崎では、賊船を大砲で打ち払うこともならず、火船をぶち当てて焼き払うこともならず、奉行所は手も足もでなかったという。やむなく人質に取られた蘭人を救うため、長崎奉行は要求された食料を差し出した。
作左衛門の話から状況を知って、為八郎は強い衝撃を受けた。天文方の所員も皆が驚いて、作左衛門の話をじっと聞いていられないほどだった。
英艦フェートン号は、人質を解放し日本の屈辱を尻目にゆうゆうと長崎港を立ち去った。防備不届きの全責任をとって長崎奉行松平図書頭(ずしょのかみ)康秀が腹を切った夜の状況を聞いた時、為八郎は胸つぶれる思いを味わった。
――御奉行がお腹を召されたとは……
奉行所の困難、商館長ドゥーフの苦衷、自裁した松平図書頭の無念が頭を駆け巡った。付き合いの深い旧知の関係者が遭遇した災厄だった。他人事(ひとごと)ではなかった。長崎奉行所は、八百屋町(やおやまち)の立山役所、外浦町の西役所ともに大騒ぎだったと聞いた。
為八郎はつい先ごろまで、劫略を受けた蝦夷の状況調査に当たっていた。宗谷では間宮林蔵から樺太実地調査の報告を受け、緊張する北方情勢と対露関係に心痛していた。江戸に帰った矢先、今度は、故郷が英吉利から理不尽な屈辱を受けた報せを聞いたのだった。
為八郎は、南北腹背に狼藉を受けた情勢に、強い危機感を持った。祖国を踏みにじる国にいかに対処するのか、今後、侮(あなど)られないためにはいかに備えたらよいのか、外交の一翼を担う通詞の立場を痛感し、懊悩した。
間もなく、長崎の事件が旗本、御家人、各藩の江戸詰め武士にも広く知れわたった。江戸ではいっそう緊張感が増した。庶民が米の高騰に困り果てた末に、十月二日、幕府はついに米を払い下げて窮民を救った。いろいろの社会不安が江戸市中に高まって、幕府は何らかの手を打つ必要に迫られた。
そもそも、この年は、正月からよくないことが続いた。会津藩士が続々、蝦夷に向けて出兵し、江戸では、松の内の九日、十日と雪が降りしきり、五十年来の大雪となった。雪の重みで、多くの松が折れ、多くの家で屋根が抜けた。五月末、全国的に日照りが続いた。長崎のあたりも猛暑によって作物が枯れ果て、肥前各地の農民が雨乞いに騒いだと、後日、故郷の手紙で知った。長崎諏訪神社では長崎十二ケ郷の願い出によって雨乞い祈願が行われたという。
六月になると、初旬から今度は全国的に大雨が続いて洪水相次いだ。閏六月十八日から二十日まで再び大雨が降って洪水に襲われ、田畑(でんぱた)に大きな被害を被(こうむ)った。八月にはフェートン号事件が起こった。正月から、悪い年ではあるまいかと懸念されたことが本当になった。
「こん年は、日本にとって散々ん年やった」
為八郎は、直面する危機について佐十郎と話を交わし、国のために働けと息子を励ました。佐十郎は、自信を秘めた目つきで、父に向って静かに頷いて見せた。
佐十郎は、冬になると、大黒屋光太夫から魯西亜(おろしあ)語の指導を受け始めた。光太夫は、伊勢白子湊(みなと)の回船船頭で、江戸へ向かう回船が嵐のためアレウート(アリューシャン)列島アムチトカ島に漂着して数年を過ごし、そこから魯西亜国に行き着いた経歴を持っていた。
光太夫は数奇な運命をたどり、ラクスマンの来日した船に乗せられ、日本に贈る体のいい土産にされた。漂流から九年半後のことだった。異国に渡った罪状で、江戸の取り調べが済んでも故郷に帰ることを許されず、小石川薬草園内に屋敷を賜り、江戸住まいも長くなった。幕府の目の届かないところで、そこらの漁民や水夫に外国事情をいいように語られても困るというのが幕府の本音だった。
蘭学者の桂川甫周が光太夫から魯西亜(おろしあ)滞在経験と国情、風俗を丁寧に聞き出し、寛政六年(一七九四)、『北槎聞略』という書物にまとめ上げた。光太夫は、蘭学者たちの間で外国事情を伝えた著名人となった。光太夫はそうした関わりで桂川甫周や大槻玄沢と親しい仲だった。頼まれて佐十郎の魯西亜(おろしあ)語習得にひと肌脱いでやろうと、天文屋敷にやって来て親切に教えてくれた。
佐十郎は、魯西亜研究の命を受けてから桂川甫周のまとめた『北槎聞略』を幾度も読み返し、魯西亜の人情、風俗、習慣を頭に叩き込んだ。その中に、巻之九の最終項、「雑載」を読んで、かの国で人痘種痘を実施している記述を知ったときは、光太夫の観察の鋭さに感心した。光太夫の魯西亜滞在は善那(じぇんなー)が牛痘種痘を発見する前のことだから、当然、人痘種痘のことだった。
彼邦(かのくに)にては専(もっぱ)ら種痘の法を用う。その法はよき痘瘡(とうそう)の膿(うみ)をとり、腕、肘(ひじ)、寸
口(みゃくどころ)へすり付(つく)るなり。又痂(かさぶた)を末(まつ)にして鼻の孔に吹(ふき)いるるとぞ。
この記述から、トルコ式の種痘だけでなく、痘痂を粉に挽(ひ)いて鼻腔に吹込む唐式種痘も行われることを知った。五年前、吉雄献作から人痘種痘の話を聞いていたので、この記述の意味がよくわかった。
佐十郎は、天文方を訪ねる光太夫から驚くようないくつもの実話を聞く好機を得た。魯西亜(ろしあ)語とともに魯西亜の国情を学び、光太夫に幾度も質問を繰り返した。佐十郎の魯語帳は厚みを増していった。佐十郎は光太夫の恩義を『帝爵魯西亜国誌交易編』の凡例に明記して、その労を謝すことを忘れなかった。
佐十郎は魯西亜関係の知識を広げる一方、後進に蘭文法を体系的に教授するよう作左衛門から言われ、積極的に準備を進めていた。蘭文法教授の志は師の中野柳圃から受け継ぎ、今や確固たる己の志となっていた。
師が逝(ゆ)いて二年この間、佐十郎は蘭文法を体系立てて整理することに努めてきた。長崎で夜更けに勉強している時、亡き師の咳(しわぶ)く声が聞こえる気のする日もあった。そんな思いを察したか、父のはからいがあって、佐十郎は、この蔵前の地に、絶好の機会を得た。
佐十郎は当面、地理関係の翻訳をこなしながら、蘭語教授法の方針を考え続けた。作左衛門が佐十郎の塾開設を幕府に願い出てくれたから、その許可が下りるのを待っていた。前年、この年と、世間では多事多難だった。佐十郎にとっては、その危機の故に、江戸の地で新たな地平が開けることになりそうだった。
文化六年(一八〇九)正月、元日から大風が吹き募った。暮六つ時(午後六時)、日本橋左内町から出火し、大風にあおられて向こう通りの日本橋万(よろず)町、四日市町が類焼し火の粉は日本橋川を越えた。劫火(ごうか)は、河岸(かし)の小網町から照降町(てりふりちょう)、新材木町、葺屋町、両座芝居、難波町、元浜町一帯を総舐(な)めにした。
さらに、火は両国薬研堀の矢之御蔵跡まで及び、あろうことか、火勢は隅田川を越えて川向こうの本所表町まで一円に焼亡したというから、火事に慣れた江戸人でも驚くほどの大火となった。
両国と言えば、浅草御門の内で、蔵前の天文方からわずかの距離である。鳴り響く半鐘の音に、天文方の所員は総出で飛び火の防火に当たった。焼いてはならない膨大な書類を守り抜き、火は九つ半(午前一時)ようやくにして止んだ。
佐十郎は己の手稿が焼けるのを恐れ、風呂敷包みに絡(から)げて背負い、父子ともども、飛び火の警護についた。元旦の夜から、とんだ正月になった。どうも、悪いことが続くものだと、父子して心配を語り合った。
佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第二章「述志」二節「長崎八百屋町」(無料公開版)
三 両国橋南辺 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログ参照
天文方は、火事の騒ぎが終わって落ち着きを取戻した。二月を目前にしたある日の夕刻、為八郎は作左衛門から深刻な様子で相談を受けた。作左衛門はこの日、登城し若年寄の堀田に目通りしたあと、城内で懇意にする者から重大な話を聞き込んできたという。
幕府は、あとひと月ほどの内に、長崎の阿蘭陀(おらんだ)通詞数人に命じ、阿蘭陀商館の次席(へとる)に師事して英吉利(いぎりす)語を兼習するよう達しを出す。可能なら魯西亜(おろしあ)語も修めさせたく、そのため、研修生の人選が進んでいるという。
幕府は魯西亜の北方劫略やフェートン号事件があって、その備えの一つに魯西亜語や英語に習熟した通詞を長崎で育てることを決めた。その人選にどうやら馬場父子(おやこ)が入りそうだというのが作左衛門の聞き込んできた悩みだった。一年もたたず佐十郎が長崎に帰ってしまえば最も困るのは作左衛門だった。すべての構想が成り立たなくなってしまう。
為八郎は、作左衛門から苦衷を聞かされ、知恵を借りたいと深く頭を下げられた。為八郎は、父子(おやこ)で英語研修生に選ばれれば、家門の誉だと思ったが、内心は、もう少し佐十郎を江戸に置いて天文方の仕事を続けさせたいと願っていた。佐十郎とて、同じ思いに違いない。何と言っても将軍の御膝元で、対外関係の政策決定のために根拠と見通しをまとめる職責は、佐十郎の能力を何倍にも伸ばすことになる。
「高橋様は、天文方の大きな構想をお持ちと心得ますが、佐十郎は、それに必要な人材とお考えなのでございますか」
「言うまでもないこと。馬場殿と佐十郎なしで、我が構想を実現できるはずがないことは、ようご存じはありませぬか」
作左衛門は焦りを滲ませ、息せき切るように為八郎の問に答えた。
「そうと聞けば、考え易(やす)うございます。こうなされたらいかがでしょう。」
為八郎はしばらく考えて、ゆっくりと一案を語った。
「もし、幕府が、私ども父子に英語研修を命ずるのであれば、それに従うのが筋。そこは曲げられませぬ。その上で、高橋様の構想をどう実現するかの策を立てまする」
「策がありますか」
「まず、研修を受けるため長崎に帰るのは拙者一人と致します。佐十郎は魯西亜(おろしあ)語と英吉利(いぎりす)語を江戸にて独習させたいと早々に幕府に願い出るのです。佐十郎は、すでに光太夫殿に就いて魯西亜語の研修を始めているので、魯西亜語研修の機会に恵まれない長崎に行くより、このまま江戸にいるほうがはるかに有利であると若年寄の堀田様に説きます」
「いかにも、名案でござる」
「佐十郎は、長崎で、ブロンホフから英語の教授を受けてきました。蘭語ほどではありませぬが、かなりの力量を持ちまする。幕府が英語の師に指名した次席(ヘトル)とはブロンホフのことで、軍に入隊した時期、英吉利に赴任した経歴によって出島随一の英語達者です。佐十郎には親しんだ師であり、改めて長崎に行かずとも、江戸で独習するように、適宜、長崎から必要な英語の文献や手稿を送ってやれば十分でございます。その連絡は拙者が長崎の地に帰って行うのでございます」
為八郎は、幕命に反し父子が二人とも江戸に留まることはできまいと、幕命の重みを指摘したうえで、せめて佐十郎を江戸に置けるような一つの策を提案した。為八郎は、作左衛門からじっと顔を見つめられ強い視線を感じた。
「高橋様がこの策をお採りになるのなら、拙者は、幕府から語学兼修の正式の下命があって江戸を出達するより、あらかじめ、天文方から、御用満了、御役御免となって帰る格好をとっておいたほうが宜しゅうございます」
「さすがでござる。この話なら、堀田様とて否(いな)やはおっしゃるまいと存じます。佐十郎ほどになれば、長崎に行くまでのことはない。江戸に置いて、天文方の仕事のかたわら、語学研修に励めばよいのでござる」
為八郎は、作左衛門から深く頭を下げられ、うまくいってほしいと皆のために心の内で祈った。
文化六年(一八〇九)二月二十日、為八郎は江戸を出達し長崎に向かった。すでに、蝦夷地御用の仕事が満了し御役御免となった旨、天文方から正式な辞令が出ていた。幕府から異国語兼修の達しが出る前、佐十郎に江戸滞在のまま魯西亜(おろしあ)語と英語を学ばせたいと、作左衛門から堀田に内諾を得ておくことが重要だった。為八郎は、あとあと幕府の許しを得やすいよう子細な策を作左衛門に建言して、帰郷の途についた。
果たして二月二十六日、幕府より達しが発布された。英語と魯西亜語の兼修を命じられた六人の通詞は、本木庄左衛門、大通詞見習四十三歳。末永甚左衛門、小通詞四十二歳。馬場為八郎、小通詞格四十一歳。岩瀬弥十郎、小通詞並。吉雄六二郎、小通詞末席二十五歳。馬場佐十郎、稽古通詞二十三歳。中堅から熟達の域に入り脂の乗り切った最優秀の通詞たちで、幕府がこの国の最高水準の精鋭を選んだことは明らかだった。
五月二十八日、梅雨も明けて川開きの日、浅草から両国橋のあたりまで浅草川(隅田川)にはたくさんの屋根船が出て大賑わいだった。これから三月(みつき)の間、川岸では夜中になるまで茶店が開き、綺麗な絹張行燈(あんどん)を下げて夕涼みの客を迎える。初日のこの晩、暗くなったころを見計らって両国橋の南の辺りで花火が盛んに打ち上げられる。その楽しみに人々が勢いよく浮かれ歩き、さんざめく町の息吹が天文屋敷にまで遠く聞こえてきた。
作左衛門は、さきほど天文方に届いた『新鐫総界全図(しんせんそうかいぜんず)』の試し刷りを真剣に見つめていた。幕命を受け地誌御用を立ち上げてから、一年半でこの世界地図の作成に至った。江戸に来た佐十郎も途中から参加し蘭書を読んで協力した地図だった。
この世界地図には「日本辺界略図」と題する日本周辺の拡大地図が付図に添えられ、ここに、北は西百里亜(しべりあ)、ヲホツカ海、加模西葛杜加(かむさっとか)半島の南部から、満洲、朝鮮に及び、日本を中心に、南は江西、浙江、琉球全島までを一千四百万分の一の大縮尺で精細に描(か)いてある。
『新鐫総界全図』は新しい銅版画技術を試すための試作図だから、それほど大きくはない。両図ともに、縦七寸(二十二センチメートル)、横一尺一寸(三十四センチメートル)ほどの小ぶりな図だが、精密な線に刷り上がっていた。
――試作図として満足のいく出来だ
作左衛門は大いに嬉しかった。
作左衛門は、白河藩主松平定信侯の御用絵師、永田善吉の作品を見てその銅版画技術がいたく気に入り、試作図として新しく銅版に鐫(ほ)らせた経緯を序に書くつもりだった。
永田善吉、号して亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)は欧州伝来の銅版食刻(エッチング)に高い技術を持っていた。銅版の上に防食材で下地を作り、これを針で削り取るように図を描いた後、その線を酸で腐食させて凹版を得る。田善は下地作りに漆を用いるなど工夫を凝らし、独自の技法に達した絵師だった。
田善は作左衛門の熱心な依頼を快諾した。己の新技術のすべてを作左衛門の最新地図に盛り込み、明晰で繊細な線を刷り出した。作左衛門の地図は、これまでの絵図の概念を一変させ地図となって刷り上がってきた。
特に蝦夷地は、伊能忠敬と間宮林蔵による実測図を基に描かれた。樺太の西海岸は間宮の実地調査を反映し、北半分は未確定であることを細線で示しながらも、大陸と離れた島に描いてあった。
この当時、樺太は大陸から南に伸びた半島ではないか、という根強い疑問が欧羅巴(よーろっぱ)にあることを作左衛門はじめ主だった所員は知っていた。疑問の発端は、二十年余り前に仏蘭西(ふらんす)のラ・ペルーズ准将が二隻のフリゲート艦を率いてこの海域を探査した航海報告だった。
仏艦二隻が大陸と樺太に挟まれる海域を北上すると、どんどん両岸が迫って水深が浅くなるだけでなく、海水の塩分濃度が低下したと書いてあった。どうやら、これは海峡ではなく、奥深く切れ込んだ細長い湾がついには陸地となり、湾の奥に川が流れ込んでいるのではないかと想像したくなる所見だった。
結局、ラ・ペルーズは座礁の危険を避けるため、この海域を引き返し、湾かもしれない狭い水域の最奥を見届けることなくカムチャッカ半島ペトロパブロフスク港に寄港した。この地から陸路、シベリア経由で航海の顛末を本国に報告したため、欧羅巴で、樺太島か樺太半島か、地理学上の論争が始まった。論争は大きくなって学術本で論じられ、その洋書は長崎経由で日本に入ってきた。
幕府は先年、樺太探査に着手し間宮林蔵を派遣した。間宮は極寒の地で苦労を重ね、やっとの思いで樺太北部の西海岸に到達した。そこで海峡の向こうに大陸の山脈が延々と連なるのを見た。それははっきり海を隔てて驚くほど近くに見えたという。間宮は蝦夷地に帰還して、現地のアイヌの言う通り樺太は島だろうと、奉行に報告した。作左衛門はこれを遠く江戸で聞いた。
作左衛門ら天文屋敷の者は、あれやこれや、欧羅巴における地理学上の論争を蘭書で知るだけに、樺太を島と推定したこの新しい地図に誇りを持った。見れば見るほど地図は新鮮な魅力を放ち、地図を眺めて飽くことを知らなかった。作左衛門は、この印刷新技術を採用し、予定通り正式な大判地図を制作することを決断した。
作左衛門は直径およそ三尺(九十センチメートル)の正写影法による両半球図、八十六万四千分の一の縮尺図を構想していた。田善が、これだけ大判の銅版を鐫(ほ)るのに要する期間を考えながら、完成は来春かと見当をつけ、一人にんまりとした。
――伊能や間宮らの測量記録を使って、世界最高水準の地図を作ってやる
作左衛門は心に誓った。最近になって、蝦夷から樺太にかけて海岸線調査のすべてが作左衛門の手に集約される体制が整えられた。技術幕吏として作左衛門はまたとない幸せな立場にいた。
佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第二章「述志」三節「両国橋南辺」(無料公開版)