十 謀略の系譜 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む
平井収二郎は、武市半平太に次ぐ土佐勤王党の領袖だった。武市が勅使に随行し江戸に下向したあと京都に残って、土佐勤王党を掌握し、よく武市の留守を預かった。この間、攘夷公家の間を周旋して土佐人らしい策士ぶりを発揮した。
平井は、容堂が京都に来ると、正月二十九日、謁見を願い出て意見具申に及んだ。容堂に向かって、公武一和を廃し尊王攘夷を藩是に掲げるべきだ、と上奏した。
容堂にすれば、平井などは、公武一和か尊皇攘夷かを論ずる相手だとは思っていない。
――こやつは我が命に従うべき家臣ではないか
――上士の身分におりながら勤王党などに参加し、心得違いも甚だしいわ
――深い事情に通ずることなく何を血迷うて愚論を言い立てるか
瞬時に思いが走った途端、大喝叱声、凄まじい怒声を平井の平伏した頭上に投げた。
容堂には、我が股肱、吉田東洋を暗殺したのは、こやつの一味か、という思いがあった。いずれ証拠を集め断罪してくれようと胸に秋霜烈日の思いを刻んできた。
平井は、容堂の厳しい譴責の声に真っ青になって釈明を試みたが、容堂はじろっと冷たい視線を投げて足音荒く奥に戻った。翌日、平井は他藩応接役を解くと藩命を受け、周旋活動を一切禁じられた。この報せは、直ちに久坂玄瑞から実美と姉小路にもたらされた。
二月七日朝、土佐藩邸の裏手、高瀬川が流れ小橋が架かるあたりに風呂敷包みが置かれていた。包みを解くと生首がごろりとあらわれ、藩邸で大騒ぎとなった。
後刻、洛外唐橋村の庄屋、惣介の首と知れた。首は口に斬奸状を含まされ、斬首の理由を咥(くわ)える姿が無残だった。千種家の領地葛野郡唐橋村の庄屋惣介は千種家のために和宮降嫁に協力した不届者であると書かれてあった。文章は拙く、刺客は教養からほど遠いことが明らかだった。
学問のない痴(し)れ者が藩主の俺に脅しをかけるか、と思い、容堂は、奥歯を噛みしめ、春嶽宛ての手紙の端書きにこう記した。
今朝、僕が門下へ、首一つ献じこれあり候(そうろう)。酒の肴(さかな)にもならず。
無益の殺生憐(あわ)れむべし、憐れむべし。
容堂は、池内と惣介の二件の暗殺を己の公武一和策に対する攘夷激派の敵意に満ちた警告と受取り、いよいよ弾圧の腹を固めた。
数日後、容堂は、間崎哲馬を国許に檻送し待命とした。間崎が、青蓮院宮から令旨をもらって藩政改革の根拠にしようとしたことを咎めた。
「身分もわきまえず、余の与かり知らぬ所で出過ぎた真似をしおって」
怒りで体が震えるほどだった。藩政改革とは、要するに、自派の意見を聞く人物を藩政の枢要に据えるというだけのことではないかと奥歯をぎりぎり噛みしめた。
藩邸の庭先でこっぴどく面罵、叱責し、間崎が悄然となるのを見た。これで土佐勤王党の主だった者で残るは武市半平太一人になると思った。
*
実美は、久坂と寺島ら松陰門下が、強い思想を持っていることを知っている。なればこそ、武市と同様、国許で政敵を倒してのし上がってきた。土佐では武市らが吉田東洋を暗殺にかけ、長州では久坂らが長井雅楽を陥れ、切腹の罪を着せた。
国のためなら、志を果たすためなら、命も要らずと本気で思う筋金入りだった。それが草莽の強さだった。それは同時に、他人の命にも無頓着で、政敵を殺(や)ることに格段の躊躇を感じないようだった。かつて、久坂の師、吉田松陰は、孟子を引いて自らの覚悟を標榜したと聞く。
志士は溝壑(こうがく)に在るを忘れず、
勇士は其の元(げん)を喪(うしな)ふを忘れず
志士たるもの、斬られて死骸がどぶみぞにうち捨てられることを忘れず、勇士はその首を獲(と)られることを忘れず、と自戒した。松陰は、日常のうちに志士として勇士として、己の死の覚悟を自著の「講孟箚記」に掲(かか)げたという。
弟子の久坂、寺島らは、政敵にもその覚悟を求めた。松陰の弟子たちは暗殺した死骸を川に捨て、首は河原に晒し、師の覚悟のほどを敵に実践させた。
久坂らは、孟子に激励されて斬奸を行なっているようだった。この一門は暗殺、謀略を好み、有効な政治手段とみなす。それは姉小路、久坂、寺島、武市ら攘夷急進派の主だった者に共通した感覚と嗜癖で、実美もそれを良しとした。
急進公卿は、天皇の御意向に沿うよう攘夷実行を唱える一方で、天誅という手段を有効に利用した。実美は斬奸の恐怖を最大限に政治利用し、政敵から発言の気力と勇気を奪った。急速に朝廷内で影響力を及ぼし始めた。
どす黒い勢いを背景に、嵩(かさ)に懸(か)かったように過激な攘夷発言が相次ぎ、まともな政治環境が朝廷から失われた。武市らは、勅使一行に随行し江戸で功を立てて戻ってきてから、さらに自信がみなぎるようだった。時の政府を亡国の途に追い込み転覆を図るとは、こういうことである。実美はうまく事が運んでいると満足だった。
*
公武合体論では、朝廷が幕府の弱り目に権威を貸してこれを助け、公武が一体となって国の方針をたてて国難を乗り越えようと考える。実美らが、ことごとに攘夷を言い立て、公武合体に異を唱えるのは、倒幕を狙うからだった。一体どころではない。
幕府が弱れば幕府を倒す絶好の機会であり、その手段が攘夷である。攘夷を唱えれば、叡慮に沿って大義に立つことになり、対外関係において幕府を苦しめることができ、さらに各地から勤王の志士を引き寄せ朝廷の威権を高めることにつながる。一石三鳥の効果があった。
攘夷の結果、異国の醜夷どもが幕府に戦を仕掛けて来ようが、江戸が焼け野原になろうが、江戸町人が死のうが、幕軍が敗北しようが、それは倒幕のために、むしろいいことである。京都が焼け野原にならない限り、何もためらうことはない。幕府は日本すべての軍事、外交、内政を考えなければならないが、実美たち一派は攘夷倒幕だけを考えていればよい。実美は、この点も自派の有利な一つに数えている。攘夷こそ、国を分断する裂け目になる。
実美は倒幕思想を、久留米藩水天宮の宮司、真木(まき)和泉守保臣(やすおみ)の説によって確立した。真木の思想の基盤は水戸学を代表する著作、会沢正志斎の「新論」にあると知った。
この著作は激しい思想の故に、書かれた文政八年(一八二五)当初から密かに筆写で読まれるにすぎず、出版されたのは成立から三十年もたった安政期だった。ここから大いに広まり、会沢の思想は尊皇攘夷の先駆けとして世に強い影響を与え始めた。
真木は、天保十五年(一八四四)、三十四歳で水戸に留学し、短期間ながら会沢に直接、教えを受けた。その後、江戸に戻り、安井息軒らと往来し思想を深めて帰国した。
真木は、その後二年間、練りに練って、会沢の思想には全く含まれなかった倒幕思想を新たに注入して、「新論」とは異質の革命思想を構築した。倒幕に至る諸過程に具体性を裏付けたところが真木の独創だった。弘化三年(一八四六)の早い段階で、倒幕思想を唱えたのは驚くべきことだった。
翌弘化四年(一八四七)九月三日、真木は、孝明天皇の即位式を一目見ようと久留米から京都に出てきた。か細い伝(つて)をたどってその筋に熱誠あふれる願いを申述べ、ついに衷心(ちゅうしん)通じて参議の野宮(ののみや)定祥(さだなか)の知遇を得ることになった。
九月十日、真木は野宮定祥に初めて会う機会をえた折、「天保改正地球図」一巻を贈った。野宮は丁寧に手にとってこれをしばらく眺め、ふう、と息を吐きながら言った。
「これは、麿の持っている図より、よほどに精(くわ)しいものどす。さらに、麿の図とはえろう違(ちご)うとる箇所がおます。きっと、こちらが正しいのどっしゃろ。こりゃ、たいした図版どすえ」
大いに気に入ってもらった。
野宮は、早速、御即位伝奏の三条大納言実万(さねつむ)に声を添え、好意的に計らってくれた。真木は、名目上、野宮定祥卿の嫡男右近衞少将、野宮(ののみや)定功(さだいさ)卿の随身となって即位式に参列することを正式に許された。
九月二十三日未明、真木は、細纓(ほそえい)の冠、闕腋(けってき)の袍(ほう)を着し、太刀を佩いた。矢を負い、弓を手にとり宮中装束に身を飾った。身の丈(たけ)五尺八寸、しばしば相撲取に間違われることもある雄偉な巨漢が王朝古典の武官となって、堂々たる随身ぶりを見せた。
真木はもともと宮司で、この種の装束は着慣れている。定功卿の列に従って禁裏東辺の建春門をくぐり、昇殿する卿と離れて神嘉殿南廂の幔幕の内に整列した。
真木は、ここから御即位の大礼を熱心に拝観し、重々しい儀礼の一つ一つに至るまで、天智天皇に起源を持つ即位の礼式が千二百年を経て厳然と今に伝わっていることに感銘を受けた。
――皇統が不断につながる歴史にこそ日本の国柄ばい。異国に向けて誇るべき国ん値打ちばい
王朝王政を再び熾(さか)んにせよとの神慮を感じ取って、全身粟立つほどの感動を覚えた。
特に、それまで降っていた雨が天皇の出御とともにぴたりとやみ、あれよ、あれよと言う間に日が差して豊旗雲が薄紅色に染まり始め、神々しくも晴れ渡ったことに神威を見た。これこそ、今上の御代に兵刃の流血があったとしても、聖徳によって泰平がもたらされるの神意に違いないと信念をいだいた。この体験はそれまで考えてきた王政復古の確信をさらに強め、とりもなおさず幕府を倒す情念となった。
大礼が終わって数日後、真木は、三条実万と野宮定祥(さだなか)に即位式の感謝を述べた。その席で、感動さめやらぬままに、王政を復古するよう持論を説いた。
「その折には……」
倒幕のことを暗にほのめかし、命を捧げる覚悟を二人に伝えた。
これをもって、真木は倒幕論を唱えた最初の志士になった。ペリー来航から遡ること六年である。当時は破天荒で危険な思いつきでしかなかった。真木の熱情を打明けられた二人は、迷惑とも、なんとも言いようのない顔を互いに見合わせた。
安政五年(一八五八)、日米修好通商条約が無勅許のままに締結されて、真木は実万宛に倒幕を示唆し王政復古を説いた密書を書き上げた。直接に、前内大臣(さきのないだいじん)に上書するわけにはいかず、複雑な筋を経て実万の手許にようやく届けることができた。真木が霊感をえた即位の大礼から十一年が経っていた。
この密書は、実万が相当に興味を感じたものらしく、手文庫の奥深く残されてあった。やがて実美が手文庫に遺(のこ)された真木の上書を知った。
実美は、亡父(ちち)が幕府によって蟄居の憂き目に遭わされ、謀殺されたと信じていた。その怨念は抜きがたかった。亡父が引き会わせてくれたのか、と因縁めいた思いをいだき、真木の過激な思想をむさぼるように読んだ。実美は目から鱗が落ちたと思った。それ以来、真木の信奉者になった。
勤王の志士たちは、安政の大獄で国を憂える同志が捕縛され重罪を科せられるのを眼のあたりにした。志士たちは幕府に反感を募らせ、それは攘夷の感情と激烈に融(と)け合った。志士たちがひとたび真木の思想に触れると、これまで何をすればよいか先が見えずに悶々と悩んでいた攘夷の活動に具体策を得た。
そこには王政復古を目指して倒幕を準備する構想が具体的に書かれていた。夷狄を打ち払い、国を守れという単純な土俗感情を超えた戦術だった。
攘夷を大義とした親征の掛け声によって幕府の条約締結を違勅と責め、各藩から兵を募り、人心を引き寄せる。その兵を討幕軍に仕立てあげて一気に幕府を圧倒し、王政復古へと至る道筋を説いてあった。それは天皇中心、朝廷中心の新しい国造りを志向していた。
煽動力の高い真木の革命思想は、時期が熟し、ひとたび親征の軍を起こした時、磁力のように各藩を引き寄せ、官軍に抗(あらが)う戦意を失わせるに違いないと、読んだ誰もが思った。攘夷と倒幕の感情が焚きつけられるように一気に燃え上がり、怖ろしいほど勢いを増した。
真木の思想は攘夷急進派の公家と勤王志士にとって聖典になったようだった。怖るべき革命理論が出現したと実美はその価値を知った。あとは、真木の説く通りにことを運べば、亡父の仇をとれると目算を立てた。
佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第三章「貧の遺恨-実美」十節「謀略の系譜」(無料公開版)
十一 愚者と弱者 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む
実美、姉小路の二人は幼馴染で、長じて姉小路が三条実万に親炙して尊皇攘夷を誓い、実万の死によって二人は幕府に怨みをいだく同志となった。二人にとって、公武一体論を唱える公卿重鎮を策略で蹴落としたことが経歴の大きな割合を占める。時勢のはずみで攘夷別勅使となって、江戸幕府に手厳しい要求を嫌でも応でも呑ませてきた。
父、実万のように人好きはしなくても堅実な人柄と世評にも上る学識で、着実に業績を積んできた廷臣とは明らかに違うのだと、実美は実感していた。父のような高い見識の裏付けのないことは始めからわかっている。
「公知(きんさと)も同(おんな)しことや」
実美は謀友を思って呟いた。
二人にとって、交渉と合意を粘り強く積上げ建設的にものごとを進めた父のようなやりかたは得手ではない。もっぱら公武合体派を相手に政争をやってきたため、詐略や詭計を練るのに長(た)けはしたが、短兵急だと自身を振り返った。
どことなく地につかない口舌の徒であり攻撃的な物言いをする人物だと見られているのを自覚していた。相当の汚れ仕事まで躊躇なく手を染めたことに後悔はない。
――そないな所があの者たちに慕われるんやろ。それが力の源泉にもなっとるんや
武市半平太率いる土佐勤王党や久坂玄瑞、寺島忠三郎ら長州攘夷派から頼りにされ、気鋭の公卿と高く評価されていることを誇らしく思った。
――それならそれで、あの者どもを利用してやるまでのことや
*
文久三年(一八六三)の春、実美のある発言が幕府と朝廷の公武合体派をひどく憤慨させた。
「今の江戸は昔の武蔵野でおますさけ、武蔵は野に返っても宜(よろ)しおす」
平然とうそぶいた。外国から砲撃を受けて焼け野原にでも何にでもなればええと言わんばかりに聞こえた。また、朝議の場で実美は青蓮院宮に面と向って、あるまじき暴言を吐いた。
「宮は薩摩の因循な公武合体の説に惑わされ、近頃は佐幕のお振舞い。これまでの御意見とえろうに矛盾されてはあらしゃいまへんか」
横では、姉小路がにんまりと控えていた。
青蓮院宮は怒りで顔が青ざめ国事御用掛を辞任することを本気で考えたが、帰邸後、辞任されては、実美の詭計にはまるだけだと薩摩藩士らからなだめられ、ようやく思い留まった。この悪口は朝廷でも問題とされ、正親町三条大納言が間に立って実美が宮に謝罪するに至った。
政敵を追ったせいで、今では、実美ら攘夷急進派の意見は叡慮として世に発せられる。叡慮に公然と異を唱えられる者は、天皇を含め誰もいない。天皇の与かり知らない勅書、天皇の意に染まない勅書が濫発された。もはや攘夷の可否の問題でなく、攘夷実行の時期の問題に移りつつあった。
この頃になると、実美の過激な攘夷論が、実は、父を亡くした私怨ゆえに幕府を責め立てるものだと一部の有識者がささやくようになった。
「三条公の攘夷はお国のためではあらしまへん。己の怨みを晴らすためであらしゃいますのや……」
朝廷でも眉をひそめる向きが広まった。
中山忠能(ただやす)は生の耳たぶを贈られ議奏を辞任した。その七男、忠光は、文久三年(一八六三)で十九歳になった。父は穏健な公武合体を目指す危うげのない有力議奏で、帝の信頼が篤かった。ここ一年ばかり、息子の忠光が血気にはやって、どうしたわけか、激烈な攘夷論を唱えるようになった。
忠光は、前関白近衛忠熙を訪問し、切り口上であれこれ問い質(ただ)し、忠熙の返答にいちいち不承知を唱え、さらには、青蓮院宮を平然と国賊呼ばわりして、忠熙に強い不快の念をいだかせた。十九歳の青二才が、である。
忠光には、こうまで攘夷の道に導いてくれた攘夷志士の無頼な態度が輝くように素晴らしく見えた。攘夷急進派と親しく付き合い、天誅なるものを聞きかじってからは一度やってみたいと願うほどだった。矯激な青公家が訳も分からず、ただうずいていた。
忠光は攘夷期限を定めるよう朝廷から幕府に厳しく下命すべきだと思い立った。廷臣に反対の声が高く、さほど簡単に勅命をだせるものではないと知った。忠光の思考はここから過激に飛躍し、洛外に蟄居する岩倉具視と千種有文の坊主首二つを土産に持っていけば、前関白近衛忠熙と関白鷹司輔熙は幕府に勅命を出すことを承知するだろうと考えた。
この案を、長州の久坂玄瑞、寺島忠三郎、肥後の轟武兵衛に謀ると三人からすんなり同意された。一方、武市半平太、宮部鼎蔵からは大反対を受けた。そこは一派を率いる領袖の目配りで、ここまでやっては攘夷派の人望が地に堕ちることを知っていた。
久坂は生首の土産が準備できなくとも、鷹司を訪問し勅命を出すよう強(こわ)談判することはできると嘯(うそぶ)いた。世も末だとは少しも思わない。德川の世を末にするための策である。
こうした背景があって、二月十一日、堺町御門内東にある鷹司邸は、朝から殺気だった異様な雰囲気に包まれた。久坂、寺島、轟の三人が、半分押し入るように鷹司邸を訪問した。関白によって、攘夷実行日を明言するよう幕府に朝命が下されなければ、死すとも邸からしりぞかないと、意見書を奉って居座った。連中がそう言ったのなら、脅しではない、いざとなれば本当にこの屋敷で腹を切るだろうと思われた。
鷹司輔熙(すけひろ)、五十七歳は仰天し頭を抱えた。座敷で、あてつけがましく腹でも切られた日には、畳の替え、障子、襖の張替えなど、もろもろの始末で相当の掛かりを覚悟しなければならない。志士の憤死した座敷など気味が悪くて使えなくなる。
それだけではない。切腹の後に志士仲間から何かにつけて言い立てられ、悪くすると仇(かたき)とさえ思われ、どう脅されるかわかったものではない。生きた心地がしなかった。攘夷もいいが、輔熙にとって、とんだ災厄(さいやく)だった。
三人が持ってきた意見書なるものを家司から受取るとき、その時の様子を聞いた。眦(まなじり)を決し思い詰めたような若侍二人と、開き直ったようなふてぶてしい中年の武士だったという。
「あかん、最悪や……」
輔熙が震える手で書状を開くと、関白の権限をもって攘夷の期限を申し出るよう将軍に命じ、天皇と公卿の間の意思疎通をよくし、国事御用掛を選別して少数精鋭にしてほしいと三策が書かれてあった。平たく言えば、将軍に攘夷実行の日程を明らかにさせ、攘夷急進派が天皇と話す機会を増やし、公武合体の立場に立つ国事御用掛を罷免せよということらしかった。
関白に就任してわずか半月余り、鷹司輔熙は、穏健漸進的な公武合体を唱える前関白近衛忠熙や青蓮院宮に遠慮があり、一方で三条実美らの急進派からは攘夷、攘夷と日々突き上げられていた。
輔熙にとって実美は聟(むこ)でもあるが、聟からいたわってもらった覚えは少しもない。長州から、薩摩から、全く異なる意見を献策され、関白としてどうしたらいいのか分からないまま半月が過ぎた。
それやこれやで、意見書を読みながら茫然と気が遠くなりかけたとき、さらに運悪く、姉小路公知をはじめとする急進派の少壮急進の若公家十二名が、連署して攘夷を促す建白書を鷹司邸に持ち込んできた。
その者たちは邸内になだれこむように三人の志士と合流し、邸内はどやどやと喧騒に満ちた。さらに、たまたまと称して、長州藩世子毛利定広と徳島藩世子蜂須賀(はちすか)茂韶(もちあき)が輔熙を訪ね来て、関白は直ちに参内し攘夷の奏聞におよぶべきだと強く奨める意向を示した。
茂韶は安政年間、小笠原長行が世に出るきっかけをつくった蜂須賀斉裕の次男で、このとき十八歳。父の代理で京都にのぼっていたが、すっかり攘夷熱に浮かれていた。
攘夷急進派は、その勢いを駆って輔熙に参内して奏請することを要求し、その止(とど)まるところを知らなかった。騒ぎの中でさんざんに責められ脅された。日を改めて参内することを聞き入れられず、ついに輔熙はこの日の奏請を承諾せざるをえなくなって、屋敷を出た。
関白を取囲んだ血気の集団が御所に押寄せた。帝はその騒ぎに驚き、御学問所にて拝謁を許したが、変事に発展することを怖れた。
差当り攘夷期限を早々に聞こし召されたし
このような書翰を持たせ、一橋慶喜に勅使を向わせることに合意せざるをえなかった。全く、帝も不本意の限りであられた。
朝からの騒ぎは、こうして亥の刻(午後十時)に至り、収束する気配が全くなかった。議奏の三条実美、阿野(あの)公誠(きんみ)が勅使に、伝奏の野宮(ののみや)定功(さだいさ)、滋野井(しげのい)実在(さねあり)、姉小路公知ら六人が副使となって慶喜に勅命を下す一行の準備が整った。夜も更けて勅使一行が意気揚々、
「さあ、これからどすえ」
気合を入れて、一橋慶喜の宿館、東本願寺に強引に訪ねてきた。勅使が来訪するにふさわしい時刻ではなかったが、慶喜に緊張感をあおるようで、勅使はむしろ好都合と考えていた。
慶喜は、朝廷から勅使を派遣したと急遽知らされ、ただちに政事総裁職松平春嶽、京都守護職松平容保、土佐前藩主山内容堂の三人に使者をやって招集をかけた。老中格小笠原長行は大坂にくだるため夕刻、すでに京都を発って留守だった。
勅使一行の到着を聞き、慶喜がいかなる用向きかと座敷に出向くと、勅使から勅命と称する達しを申しつかって、近々にも攘夷を実行する期日を決定するよう迫られた。この決定によって、実美が口にしたとおり江戸が焦土になるかもしれず、大坂、京都が欧米の劫掠を受けないという保証は全くない。
慶喜に多くの思いが湧き上がって、腹の中が煮えくり返った。
――万延元年(一八六〇)、北京に営まれる清朝の離宮、円明園が英仏軍によって掠奪に遭い炎上したのと同じ悪夢が京都で起こらないと誰が言えよう。つい二年半前のことではないか
――一年前には、仏蘭西(ふらんす)艦隊を摂海に進攻させるべきだと仏蘭西国の新聞に論評が載ったことをこの者たちは知ってはいまい
――伝えようにも聞く耳を持たず、まわりの情勢を知らず、まるで政事の戯れ事ではないか
――この者たちは、幼童が抜き身の真剣を弄(もてあそ)ぶに変わらない
慶喜は一喝したい衝動をようやく抑えた。
勅使一行が攘夷期限を確定すべきと言い募り、なんとしても引き下がらない様を見て、慶喜は手に余る気分だった。夜は深深と更けてゆく。丑の刻(午前二時)、最後に春嶽が到着し、幕府側四人が揃った。
実美は、攘夷実行の期日を確定するよう強く求めた。昨年十二月、江戸で己が勅使となって、攘夷実行の勅諚を幕府に承諾させたのである。これを早く具体化することが重要であると慶喜ら四人に迫った。
慶喜は、勅旨どおり、主だった諸大名と公論を尽くし最善の策を定めて攘夷を準備するため、大樹公が近く京都に上られることになっているのだから、このような時刻に、このような場所で決めることではないと諄々と説いた。
「大樹公がまだ京にお見えでのうても、政事総裁と将軍後見がここにあらしゃるのやさけ、決められへんことはおまへんやろ」
実美は、慶喜の言うことがもっともであると承知していた。慶喜があきれ果ててこちらを見ている気配を痛いほど感じた。それはそうである。
――うちらは長州ん奴らに脅されよるさけ、身の安全んためには、ここはなんとしても期日ん確約を取らなあかんのや。そうでのうては、久坂や寺島らがまた騒ぎ立て、我が身に危害が及ぶかもわからへんのや
実美は、最近すっかり、主導権を久坂、寺島らに握られ、穏健な意見でも言おうものなら、射るような眼光で睨みつけられる立場になったことを自嘲気味に思った。自ら死を怖がらず、人を殺(や)るのも厭わない者たちにぞっとし、辟易することが多かった。底知れぬ不気味さを感じた。
――これやから、侍いうのは好かんのや
そう思いつつも、尊皇攘夷運動で長州、土佐の両藩志士と一蓮托生の間柄になってしまったことを忘れるわけにはいかなかった。
実美は慶喜の正論に怯(ひる)むものを感じ、べつの言い方でさらに迫った。
「攘夷期日を決めへんかったら、京にいる勤王志士が騒ぎだし、どないな変事が起きるやもわからへんのやおへんか。これによって宸襟(しんきん)を悩まし奉っては畏(おそ)れ多い。速やかに期日を決めなあきまへんで」
すると、間髪入れず、慶喜から反駁された。
「浪人などのことは恐るるに足りませぬ。ここにいる京都守護職松平肥後守が手勢にて、たちどころに鎮定仕りましょう。なにほどのことでもございませぬ。それでもご心配とあらば、不肖慶喜、いかようにも帝のお膝元を鎮めて御覧に入れまする」
実美は、見透かされた気がして己の発言を恥じ、しばらく言葉を失った。どうも慶喜は苦手だった。実美は、慶喜に困惑の体を見せてしまって対峙する気勢が萎(な)えかけた。
佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第三章「貧の遺恨-実美」十一節「愚者と弱者」(無料公開版)
十二 理に非ざる理 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む
実美の困惑を感じとったわけでもなかろうが、縁戚にあたる容堂と実美の二人で腹を割って話をしたらどうかと慶喜から提案があった。勅使と副使が八人もいて、大勢で激昂しながらまくしたてても好ましい合意にはならないと慶喜は場の雰囲気を読んだようだった。
実美と容堂はともに別室に移り、実美は、攘夷実行の危うさを丁寧に説かれた。結んだ条約を遵守することが信義の道で、これを失えば世界の中で国の成り立ちを危うくすること、今、攘夷をやって条約破棄、居留外国人の追立て、貿易禁止などの一方的な措置を取れば、間違いなく戦争が始まること、そうなれば多くの民に塗炭の苦しみを与えることなどを容堂が語った。
戦争になれば我が国を守るすべは限られ、最後は外国に城下の盟を強いられ、それこそ今上の御世の不祥事となって青史に千載の恥を残すことになる。外国の横暴に対抗できる国力をつけるには公武合体で人心をまとめ、そのうえで、営々十年を要するのだと、国際情勢を交えて容堂は懇々と説いた。
実美は、理の通った話だと一応は聴き、反論の余地を見出せなかった。しかし、気狂いしたような久坂や寺島らを説得する自信はとうてい持てなかった。連中は、武士には大和魂があり、腰間の一剣は攘夷破邪の剣と本気で信じ、こんな話に耳をかす筈がなかった。
大砲と軍艦では夷狄に一日の長を許したかもしれないが、陸戦ともなれば日本刀の負けるわけがないと豪語するのを実美は心強く思って見てきた。
長州藩の攘夷急進派は、夷狄などにたやすく負けはせんと本気で唱え、仮に欧米から攻撃されても、
「民の多くが死に、国土が焦土になったその灰の中から、日本の雄々しい芽が新しく芽吹くのだ」
これくらいの暴言を吐きかねない勢いだった。攘夷急進派は、新しい芽吹きのために民の死することがなんであろう、国土が焦土になることがなんであろうと論旨が飛躍し妄言に酔うところがある。
実美は、連中が残虐な天誅を誇らしげに語るその口で脅され、わが身も危ういのではないかと思ったことが幾たびとなくある。容堂の語る理(ことわり)がとうてい届かない連中であることをあらためて思った。
たとえば、一月二十三日、儒学者池内大学が大坂の難波橋に梟首された。大学は安政年間に、一橋慶喜を継嗣に推薦するよう公卿に周旋して回り、幕府から要注意人物と目を付けられた。安政の大獄では態度を一転、幕府に自首した態度を買われ、中追放の軽罪で済んだため、大坂に移り住んだ。以来、勤王志士の刺客集団から裏切者と白眼視された。
大学は実万とも親しく、少し前まで実美は師事していた。大坂で容堂に呼ばれた帰途に殺(や)られ、容堂に公武合体の態度を警告するための見せしめだったという噂を聞いた。
実美には、自分に向けられた脅しで、あまり穏健な策に逃げればよくない事が起きるぞと言われた気がして、震えが走った。さらに、その耳たぶがどうなったかを知って、あまりのことにぞっとした。全く他人事ではない。理屈が通る相手ではない。
黙りがちでいるところを容堂に尋ねられた。
「貴卿らは、即座に攘夷を実行しなければ違勅であると、しばしば公言されるが、それは本当に帝からでたお言葉なのでござるか。はたまた、貴卿らの意中から、違勅であると言うのでござるか」
実美はためらいながらも、綸言にあらず、我々の考えであると素直に答え、容堂はさもあらんと大いに頷(うなず)いた。
「貴卿らの最近の挙動は己の所信を邪魔されぬよう、幕府が天皇に上奏する道を閉ざしているように存ずる。古(いにしえ)から諫言の不要であった天皇がおわした例(ためし)はござらんのではあるまいか」
さらに言葉を重ねて迫る容堂に、ついに実美は悲鳴を上げるように叫んだ。
「麿の身の上も、少しは察してもらいとうおすっ」
容堂は驚いて、しばらくの間、実美の顔をみつめ、その声の意味を知ろうとした。
容堂は実美と座談を終え別室に向った。実美と別れた容堂は、そこで待っていた慶喜、春嶽、容保の三人に、実美が志士に脅されている事情を伝えた。勅書と言われる達しが、実は攘夷派の私見に過ぎない実態を伝え、みなを驚かせた。そうは言っても、いちいち偽勅であると決め付けていては公武合体が成り立たない。
容堂、慶喜、春嶽、容保ら四人は勅使一行との正式な会談の席に戻り、再び議論を開始した。朝廷の意のままにならなければ勅使らから因循と決め付けられ、筋の通らない言い合いを余儀なくされた。理屈もなにもなく、ただ勅諚であると一方的に言いつのるだけのことだった。
結局、聞く耳を持たず叡慮を真正面にふりかざして主張する相手に根負けする形で、慶喜らは、しぶしぶ攘夷時期の確定することに合意せざるをえなかった。
ついには、将軍が京都に十日間滞在し、海路、江戸に帰る際の天候の具合も考え、さらに江戸に帰って攘夷の準備に二十日間の猶予を見ることを前提に、四月中旬あたりに攘夷を実行するつもりでいる旨、慶喜、春嶽、容保、容堂の四人の連名で書面を書かされた。すでに夜が明け初めていた。
勅使と称するが、どこまで叡慮なのかと反論することもできたが、そんなことをすれば、とんでもないことになるのではないかと懸念がまさった。すでに気分で負け、穏健な道を模索する者の弱みで毅然たる態度を取りにくい心情に陥っていた。小笠原長行がこの場に居合わせれば、また違った展開になったのかもしれなかった。
幕府にとって、夜を徹して大きな愚策を受け入れたことになる。ほとほと困り抜いてやむをえなかったとは言え、またしても幕府の失点だった。騒ぎが終わり、勅使一行らが意気揚々、東本願寺から引上げていったのは朝の五つ刻(午前八時)。
実美らは鷹司邸にまかり出て報告し、伝奏の野宮定功らが参内した。そこは心得たもので、無理筋を通したと天皇の疑心をかき立てることにならぬように、ごくあらましを天皇に上奏するにとどめた。
二十歳(はたち)前の青公家のひょんな思い付きから、とんでもないことに発展し、夜を徹した二日がかりの大騒動が終わった。もはや、理に適(かな)わないことを言い立て、脅し、すかし、無理な合意を迫るやりかたが幕府に通用すると思われている。
この悪循環を断つには、毅然たる態度を持し、理不尽な話を敢然と拒否することしかない。幕府は自信を持てないままだった。井伊の施策を幕府自ら全否定するとはこういうことだった。実美らの打つ手を見ると、幕府の足元を正しく見切っているようだった。
鷹司邸の騒ぎが終わった翌日。文久三年(一八六三)二月十三日、実美らが計らって、新たに国事参政、国事寄人(よりうど)の職位を新設すると朝議が決定を下した。実美たちが、国事御用掛の多くを占める公武合体勢力に対抗するための策だった。実美は身内の一派を大幅に送りこみ、国事参政に四人、国事寄人に十人を新補した。この時、姉小路は国事御用掛から国事参政に転じ、大いに発言権を増した。
これまでの関白、武家伝奏、議奏という朝議体制の職位は、官位、家格によって決められ、中級以下の公家がこの職に就くことはなく、発言の機会はない。国事御用掛は主に上級公家が補任されたが、新設された国事参政、国事寄人の職は、中級以下の公家から多く任命され、官位、家格に関らず発言機会を与えられる。
もはや、実美、姉小路らを通ずれば、脱藩浪人、藩の下級武士など反幕化した勤王志士の意見を朝議に通すことさえ容易になる。この勢いを駆って、同日即刻、補任されたばかりの新たな国事参政、寄人たちが、公武合体派に攻めの手を打った。
すでに前年に懲戒された前関白九条尚忠、前内大臣久我建通、千種有文、岩倉具視に対し、さらに追罰を下し、今城(いまき)重子(しげこ)、堀川(ほりかわ)紀子(もとこ)に剃髪の命を与えた。この時、紀子は二十七歳、半年前の文久二年(一八六二)七月、宮中退出の命が下されるまでは、右衛門掌侍にして帝の深い寵愛を受け二皇女を生んだ身だった。岩倉具視の実の妹だった。
紀子(もとこ)に剃髪の命の下ったことを聞いて、帝がいかに思われたか誰もが容易に想像した。紀子を痛ましく思われるだけでなく、わが身に向けた警告とお取りになられても不思議はなかった。
十日後、今度は大原重徳が見せしめにされた。昨年、島津久光の警固をうけて勅使として江戸に下り幕府改革を申入れた功績もかえりみられることがなかった。些細な点をあげつらわれて罪を着せられ、ついに落飾、蟄居。
国事参政にとって反対派を圧迫することが初仕事だった。朝廷に残る公武合体派への見せしめと言ってよい。青蓮院宮は、そうまですることはなかろうと苦々しく思っても、ぐうの音もでなかった。こうして攘夷急進派は公武合体派を押さえ込むことに成功し朝廷を壟断した。安政の大獄と何が違うか、攻守が逆転しただけのことだった。
*
文久三年(一八六三)二月十九日 、四つ半時(午前十一時)、春嶽は二条堀川にある越前藩邸を出た。二条城の石垣を左手に見ながら堀川の河畔を北に上った。春もたけなわ、河畔の柳はすっかり青ばんで芽吹きが鮮やかだった。
向かうのは二条城北の京都所司代屋敷で、三町(三〇〇メートル)足らずのわずかな道のりである。この日、春嶽は自らこの会議を提唱し一橋慶喜、松平容保、山内容堂に出席を要請した。小笠原長行は大坂で砲台築造をはじめ諸々の指揮をとって留守だった。
春嶽はこの日に限って重臣を従え、よほどの決意を秘めて会議に臨んだ。広大な所司代屋敷では桜が満開で、処々に鶯が啼(な)き、通された座敷にも障子越しに聞こえてきた。床の間の水盤には桜と連翹(れんぎょう)が大振りに生けられ、春の風情が目を楽しませた。
――牧野備前守殿のご家中には、ゆかしき御家臣もおいでと見ゆる
牧野家は三河以来の譜代で、「常在戦場」の家訓を保つ尚武の家である。春嶽は、花のたしなみで今日の会合をもてなしてくれる京都所司代に少しばかり感謝を覚えた。
春嶽に随行した越前藩重臣たちも大目付、目付、京都町奉行とともに陪席した。皆が揃うと、春嶽は、集まってくれた足労に感謝する言葉を短くのべ、早速、本論に入った。
春嶽はやや高い声で整然と述べた。
「先ごろ、勅諚により攘夷期限を確定することを性急に迫られ、攘夷が急には実行できないことを丁寧に説きはしたものの、争うことができず残念な仕儀と相成った」
「一方で、凶悪な暴力をふるい、この地を血でけがす浮浪の輩(やから)が横行し、公家衆が真っ当なことを口に出すさえできなくなった。これらの輩(やから)を幕府が捕縛するのは容易(たやす)いことなれど、朝廷が暗に凶悪な行動を庇護されるため手をだせないでいる」
「世の乱れは明らかであるにも関らず、こうした次第に至るのは、朝廷、幕府の二途から政令が出るためであろう。まことに憂慮にたえぬ」
「この際、幕府から大政の権を朝廷に返上するか、従来通り朝廷より大権を幕府に委任なされるか、いずれかの道を決めなくては、最早、天下の治安は望むことができないと考え、本日はこのことを審議いたしたい」
会議の趣旨を説明した。
春嶽の意見はもっともであるが、幕府から大政を返上したいと申し出て、それを朝廷が受理したなら、公武合体どころか幕府自体が消滅し天皇主体の政権が立つことになる。春嶽の構想では、国の安定のため幕府が潔(いさぎよ)く大政を返上する態度を見せるが、現在の朝廷に執政実務を取れる人材はなく、返上したいと幕府に言われても受理せず、幕府にこれまでどおり委任することになるだろうと見ている。
あらためて朝廷が大政を幕府に委任することを再確認すれば、委任した以上は朝廷が政令をだすことを控え、政令二途の弊害が除かれるであろうという見通しだった。
整然たる仕組みをめざす理想主義と楽観主義が善意の砂糖にまぶされたような案で、春嶽らしい発議と言えた。
――かかる甘き案ではやるだけ無駄じゃ
こうした反対意見も口には出しにくく、幕府要人の大方の賛同が得られた。この案がうまくいけばそれに越したことはないという気分である。
小笠原長行のような穏やかな中に筋張った政治思想を秘める老中がこの場にいなかった。ましてや、水野忠徳のような硬骨豪胆の幕吏はなおさら、いなかった。水野は、強面(こわもて)の論客ぶりに老中さえもが畏憚(いたん)し一目置いた外国奉行だったが、この席にいれば、一喝したに違いなかった。
この構想に欠けるのは、尊攘急進派は明確に幕府を敵とみなし、兵力を背景にした倒幕を目指して準備を重ねる集団であり、天皇の統制をほぼ振り切って朝廷を壟断し、強い政治力をすでに掌中に収めたという視点である。
この点を見逃さなければ、表面は恭虔(きょうけん)な態度を維持しつつ、内では相手の一太刀を受ける構えをとれるかもしれなかった。攘夷急進派の公家、志士らが、そうまで幕府を敵とみなすつもりだとは幕府の誰もが思っていなかった。
京都所司代屋敷から一旦、散会とし、五つ時(午後八時)慶喜と春嶽は、青蓮院宮を訪問した。宮は二日前に還俗し中川宮と改称されたばかりだった。中川宮は穏健漸進の公武合体論を身上とし、当然のようにこの案に深く同意された。
この時期、中川宮は開国、攘夷いずれを採るかより、公武合体して国が一つにまとまることの方が重要であるとまで突き抜けた考えを持っていた。国論分裂こそが最も深刻に国益を損なうという考えは、それなりに卓見だった。
明朝、一橋慶喜、松平春嶽、松平容保、山内容堂の四人が関白鷹司邸に伺候してはいかがと提案された。近衛と同道して宮も席に加わり、相談の上、武家伝奏、議奏、国事掛を呼寄せ、十分に議論すればよいということになった。
翌二十日朝五つ半(午前九時)、四人が堺町御門東の鷹司邸を伺候した。発案者の春嶽は、越前藩邸を出るにあたり、今日は無事には帰れないであろうと覚悟の程を重臣に告げたという。渾身の折衝をしてのけるつもりだった。
関白鷹司輔熙は、春嶽らが来訪したとき、事前に実美らと話す時間がないことを悩んだ。そこで、参内を理由にこの日の会談を断って翌日に会うことを伝えることにし、その間に実美らと打合せることを目論んだ。輔熙は攘夷急進派を恐れ、内心はともかく、表面では摩擦なくやっていくことを最重要の方針としていたから、これは当然の反応だった。
実美の諒解なしに、幕府と妙な合意でも交わそうものなら、大変な騒ぎになることは明らかだった。春嶽ら四人は、覚悟を固めて伺候したものの、輔熙から程なく参内し下がる刻限も計りがたいと本日の面会を断られた。
その上で、輔熙から、四人の方々と相談することはもとより望むところなので、明日の午後に前関白近衛邸にてお話しましょうと、自邸を避けて面談を延期された。
春嶽の覚悟もいいようにいなされ、この日、一行は空しく帰るほかなかった。まさか、攘夷志士のように、主人が内裏から下がるまで屋敷で待たせてもらおうと居座る発想も度胸もなかった。
佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第三章「貧の遺恨-実美」十二節「理に非ざる理」(無料公開版)