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十三 嵎を負う虎 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログ参照 略年表を読む

 

 

  文久三年(一八六三)二月二十日、関白鷹司輔熙は、屋敷に訪ねてきた一橋慶喜、松平春嶽、松平容保、山内容堂の四人の幕閣に、言を構えて帰ってもらった。この日、参内し長州藩世子毛利定広を謁見する内約を捨て置くわけにはいかなかった。

 攘夷急進派にとって、国事参政と寄人の職に同志を送りこみ、次の目標は天皇御親征の実行である。真木の構想に沿った倒幕手順のため実美らが謁見を設定し待っていた。

 久坂らが練った建議を受けて、長州藩世子毛利定広は鷹司関白から拝謁を賜り、建白書をたてまつった。そこには、

 

    必竟(ひっきょう)御親征をも、あそばせられずては
    相
(あい)(かな)わざる御時勢と恐察たてまつり候

 

 とあった。ご親征をなさらなければ済まない時勢になりましたと、堂々と言及した。

 これまで賀茂神社、石清水(いわしみず)八幡宮へ攘夷安民の御祈願をなされてきたように、攘夷期限が決定になったうえは、あらためて奉幣使を差遣すべきことを建白し、そして、帝が直々に賀茂神社に参られ、泉涌寺(せにゅうじ)に祀(まつ)られる代々の天皇の祖霊に報告なされるよう提言してあった。

 建白書後半で、この儀は大堰(おおい)川や嵐山に物見遊山に出かける行幸とはわけが違い、異国の言うままに条約を締結させられた未曾有の大恥辱を雪(そそ)ぎ、皇国を堅磐(かたいわ)に固め、皇威を四海に顕赫(けんかく)するためであると断じた。最後は、

 

    草莽(そうもう)の者共、鳳輦(ほうれん)翠華(すいか)の御余光を仰ぎ奉り候(そうら)へば、
    如何計
(いかばかり)りか感発奮興(かんぱつふんきょう)(つかまつ)るべく

 

 と、天皇の御車に勤王志士が随従できるよう抜け目なく、出番を建言してあった。

 久坂が筆をとったものか、その論調は攘夷の熱情がほとばしり、行幸への気負いが息苦しいほどだった。先ずは行幸から始め、次第に親征に転化しようという狙いすました建白である。巧みなものだった。

 これが実施されれば、天皇自ら攘夷を実行すると世に示したことになり、一歩も引けなくなる。容易ならざることだった。中川宮と幕府と薩摩藩の公武合体論者から反論の口を塞ぐ強烈な一手だった。

 将軍供奉のもとに賀茂神社行幸を実施し、その勢いを駆って、次は石清水八幡宮の行幸を実施するのが攘夷急進派の狙いだった。これは、すでに親征に近づいた行幸となり、節刀を将軍に賜って攘夷の役を任命し激励すればよいと計画されていた。

 攘夷急進派が一つ一つ真木構想を実現していく足取りである。幕府の四侯が鷹司邸に伺候し面談を断られたその裏で、こうした謁見が行われていたとは、幕府も知らない。

 

 翌二十一日、幕府の四侯、一橋慶喜、松平春嶽、松平容保、山内容堂は、午前中に二条城で打合せ、近衛邸で開かれる午後の会談に備えた。この時点で、前日の毛利定広の建白書のことをつかんではいなかった。

 未刻(ひつじのこく)(午後二時)、四人は二条城を出発し、乾(いぬい)御門から近衛邸を目指した。四人はこの後、直ちに参内もできるよう、官服さえ用意し覚悟は十分であった。

 近衛邸では関白鷹司輔熙と中川宮が落ち合って会見が始まった。慶喜より、政令が二途に出るため政事が混乱し治安の維持もままならず、人心も一定しないことを説きいた。ついては朝廷から以前のように百事を幕府に御委任あらせられるか、幕府より将軍職を辞し政権を朝廷に返上するか、いずれか一方に決することなくして天下は治まらないと力説した。

 鷹司は、一々、事理当然だが、目下のところ関白に少しの威権なく、関白が任命されていないのと殆んど同様の有様であると朝廷の様子を語った。さらに、去る十一日の夜、慶喜の許へ勅使として公家たちが大勢押しかけ、夜を徹して無理難題を押し通したことに言及しながら、鷹司自身はあくまで不都合と思料したのだが、あの調子で強迫され、やむなく、中川宮にもご相談申上げることもできず、あのようなことになったと詫びめいた言葉を吐いた。

 近衛は宮中の様子を語り、この頃、帝は御近侍までもがことごとく激論家になってしまったことを厭(いと)わしく思召し、御手許の御用のおおかたは女房を召し遣われ、御近侍を遠ざけあそばすほどであると、さめざめと涙を流して見せた。

 鷹司は、激論も公家のみであれば関白においていかようにも取り締れるものを、後ろに勤王志士がついて良からざる悪知恵をささやくものだから、この取締りは幕府にお頼みするしかないと、やんわり志士の跳梁を許しているのは幕府だととれる微妙な言い回しを補足した。

 春嶽は、これより両殿下が御参内くだされ、一橋以下我々にも参内を仰せつけていただいて、帝の御前で会議を開いてほしいと食い下がった。鷹司は、参内は容易(たやす)きことながら、伝奏、議奏の両職を省いて御前会議を開けば、他日に紛議が生ずることになるとして、幕府から、伝奏、議奏を篤(とく)と説得してから取り計らうようにと宣(のたま)わった。

 春嶽にとって、朝廷官僚機構の複雑さを盾に鷹司、近衛から逃げられたようだった。幕府の複雑な官僚機構の頂点に立つ春嶽の立場からは、これ以上の依頼をできかねた。この日も、幕府の四人は空しく帰るほかなかった。

 

 実美は最近の朝廷で最も力量を発揮し、大きな影響力を行使する公卿だと自任している。そのゆえに、己に反感がつもり始めたことを感じていた。中川宮に暴言を吐き謝罪したと悪く言う者が多い。近衛も実美を内心よく思っていないだろうと噂になっていた。

 最近では、その華々しい活躍に対し、公家の中に実美を妬(ねた)む動きが大きくなってきた。正三位竹屋光有、正三位三室戸陳光、従三位高松保実らが中心となって反三条、反国事参政の策謀を練っているとの噂を知ったばかりだった。

 さらに、二十一日、近衛邸で幕府の主立つ四人が関白鷹司輔熙、前関白近衛忠熙と政令二途問題で話合いを持つことを知るに及び、実美は、これまで考えてきた対策を実行に移すことにした。その手は、意外にも実美の議奏辞職願だった。

 実美が辞任を希望し天皇が許さなかったということになれば、世間は天皇の信任が再確認されたと見て、あらためて実美に逆らうべきでないことを知る。どうせ、鷹司が勅許せず、の一言を言えばいいだけのことである。

 実美は、二月二十一日付けで武家伝奏あてに議奏辞職願を提出した。

 

    精神恍惚(こうこつ)多忙之事共これ有り、御用向(ごようむき)

    漏脱に相なるべく、談論応対等、十分行届(ゆきとどき)申さず
    候
(そうろう)ては国家の大事を誤り候儀出来(しゅったい)
すべし

 

 精神恍惚し多忙のことがあるので、仕事に抜け漏れがあって談論、応対が不十分では国の大事を誤ることもでてくるかもしれないと、二十七歳にしては慇懃(いんぎん)に過大なことを書き連ねた。

 批判を浴びないように注意を払って書かれてはいるが、謙遜が過ぎた措辞によってよく読むとふざけた印象を読み手に与える文章だった。どうせ、形だけの辞職願なのだ。幕府がその気もないのに大政を返上するなどとほざいたと同じ筋立てで、相当に含みのある文章に仕立てたつもりだった。

 どの道、天皇に三条実美の議奏辞職願が上呈される筈はなく、実美が舅の関白と打ち合わせた通り、天皇の知らないところで辞職願は却下となった。あとには、天皇の御信任は実美になお篤(あつ)く、ついに辞職希望をお許しになられなかったという実績が残った。

 これで実美に向けられた反感や批判は当面抑えられる。この時期、朝廷は実美らのこの程度の寝技で動かされていた。実美は内心、得意に思った。

 ――麿の力を思い知るべし 

 

                           *

 

 攘夷急進派の詭計は、ときに松平容保に向けられた。容保は京都守護職として京都に上ったのは文久二年(一八六二)十二月二十四日のことで、幕閣の中で最も早かった。先ずは兵力を持った容保が京都の地に赴任して幕閣の受入準備を整え、将軍の上洛に備えなければならなかった。

 以来、容保は京都の地で誠実に振る舞い、家臣一千の統率のとれた重厚な藩風とともに、会津藩の黒光りするような真価が次第に京都で理解されはじめた。

 朝廷にあって、漸進穏健の公武合体派の中で近衛、中川宮のように容保に好意を寄せる人々が現れ始めた。最もあつく容保に信頼をおいたのは、実に帝だった。一方で、攘夷急進派のように会津を忌み嫌う者たちがいて、会津を廻る色目がしだいにはっきりしてきた。

 会津藩は、京都に騒擾を起こそうとする者たちにとって何よりも目障りだった。会津の精鋭一千が粛然と黒谷の金戒光明寺に構えているのが不気味で、東山に嵎(ぐう)を負う虎という印象があった。攘夷急進派の間で、会津藩を京都から追い落とす謀略がさまざまに練られたのも当然だった。

 文久三年(一八六三)二月二十一日、容保は、他の幕閣とともに、朝から二条城に詰め午後は近衛邸を訪問し、政令二途問題に関する会議に参加していた時分、容保が留守にしている金戒光明寺の宿館に、武家伝奏の坊城(ぼうじょう)俊克(としかつ)と野宮(ののみや)定功(さだいさ)連名の書状が容保宛に届いた。

 それによると、学習院に、万一、狂気胡乱(うろん)な輩(やから)がやってこないとも限らないので、警衛の士を出してほしいと依頼してきた。学習院は、本来、天皇が不良公家の横行を嘆かれ、若い公家たちに孝悌忠信の儒教道徳と常識的な倫理感を身につけさせようと設立された教育施設だった。今は尊攘急進派の公家の巣窟に成り果て、そこでは、朝廷壟断の密計が練られ、攘夷倒幕の謀略が公然と語られ、時に天誅の話題さえもささやかれる。孝悌忠信とほど遠い屋敷となっている。

 十四年前、近衛忠熙が右大臣在任中、達筆の行書体で揮毫した学習院という勅額の文字が空しく見えても不思議はなかった。帝は父仁孝天皇の御遺志を継いでこの施設を立ち上げただけに、もっとも残念に思っておられた。

 ここは勤王志士にとって重要な拠点で、攘夷急進派の公家と語らう策源の場である。襲う者などいる筈はない。学習院を警衛せよと要請し、学習院に詰める会津藩士を挑発して事件を起こさせ、その罪を会津藩に問うて容保の京都守護職を罷免に持込む密計だと判明した。中山忠光が前関白近衛にうっかり語ったところから、幕府側は知るに至った。

 近衛は密かに容保に知らせ注意を促した。会津藩による学習院警衛の話は結局、沙汰止みとなって、会津藩を追落とす攘夷急進派の詭計は実現しなかった。

 二月二十三日、今度は足利将軍三代の木像首三個が鴨川河原に梟首される事件が起きた。三条大橋制札場南手に立てられた板札(はんさつ)には、木像首を等持院から盗み出して梟首に及んだ理由が書かれてあった。

 源頼朝から北条、足利に至るまで幕府を樹(た)て朝廷を蔑(ないがし)ろにした罪はこれ極悪、天地に容れるべからずとあり、鎌倉時代から室町時代に及ぶ歴史において、朝廷から実権を奪った罪で将軍を断罪してあった。真の狙いは、あてつけて徳川幕府を糾弾し、暗に将軍家茂の罪を問うべしと脅迫していることは明らかだった。

 将軍があと十日もすれば京都に着くという時期、幕府側は緊張の中に、あれこれ手配りをしている最中である。幕府の警備に冷水をかけるような事件だった。それまで、容保は志士に対し、「言路洞開」の立場に立って誠実に意見を聞き、宥和的な態度で接してきた。この凶事を見て、もはや誠意の通ずる相手でないと判断し、この事件を機に浪士の騒擾に厳しい態度で取り締ることを決意した。

 この事件に先だって、会津藩庁が事前に藩士を密偵として放ち、極秘に一味へもぐりこませておいた。会津藩庁は不穏浪士たちの内情を克明に知ることができた。

 二月二十六日夜半、黒谷の金戒光明寺を密かに出発した総勢百七十人余りの会津藩士たちは、祇園新地の妓楼奈良屋と二条衣棚にある一味の寓居を急襲した。酒宴の最中、浪人たちは達成感に浸って怪気炎を上げていたが、会津藩の急な出動に慌てふためき大騒ぎになった。多勢に無勢、中には自決した浪士もいたが、多くは捕縛された。

 翌日、容保が捕縛に至った顚末を武家伝奏の坊城と野宮に伝えて建議した。足利氏の如きは、たとえ将軍就任の正統性に尊皇賎覇論の立場からいろいろ議論があるにしても、当時は朝廷が大政を委任し官位を賜った将軍だったのである。これを辱めるのは、すなわち朝廷を侮辱するに等しく許し難いと、木造梟首事件の非を鳴らし、犯人の厳格な処分案を提案した。

 攘夷急進派の公家は、木造梟首事件の犯人が幕府に脅しをかけたという点でこれを同志とみなし、罪を問わないよう図(はか)りはじめた。幕府を貶(おとし)めることなら何でもよかった。公平に罪を吟味、裁定する能力ははじめから攘夷急進派の青公家に備わっていない。己に有利か不利かだけである。

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第三章「貧の遺恨-実美」十三節「嵎を負う虎」(無料公開版)

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 文久三年(一八六三)三月二日、足利将軍木像梟首事件を引き起こした者どもをどう扱うべきか、長州藩の入江九一と山縣小輔(有朋)、土佐藩の吉村寅太郎の三人の連署によって建白書が出された。いずれも身分賎しく、これまでは朝廷に建白するなど許される筈もない者である。

 これによると、冠位の者を斬首すれば位を授けた朝廷を軽蔑したことになって大赦できないというなら、井伊大老を討取った者は赦されるはずがないものを、現実には大赦したではないかと、容保に逆ねじを食らわせる言い回しを攘夷急進派の公家に教示してあった。

 私心なく攘夷を推し進め天皇に忠義を尽くすならば、天誅という名の人殺しをやっても、幕府を辱(はずかし)めても、異人を斬っても、幕府の建物に火をかけても、何をやっても憂国の正義と称(たた)えるべきで、罪に問うてはならないというわけだった。おかしな思想が背景にあった。上書した入江と山縣は吉田松陰一門らしく、動機さえ正しければ行動の非を問うべきでないという小理屈を一ひねり捏(こ)ねたものだった。

会津藩は、この種の言い様で曲がったことを正当化する心根を特に卑しんだ。藩士は子供の時分から

「ならぬことはならぬものです」

 と厳しくしつけられて育つ。

 薩摩藩にも

「議(ぎ)を言(ゆ)な」

 と浮薄な小理屈を嫌う藩風がある。いずれの藩士にも体に染み付いた習いだった。

 長州にあっては、あるいは松陰門下にあっては、そうではないということのようだった。謀略のためなら何でも言いたい放題に公言し、斬殺でも何でもやってのけることこそ草莽の強みだという。つまらぬ屁理屈を教わって攘夷急進派の公家は元気を出した。

 三月四日、朝廷から、捕縛された者は一片の私心なく憂国の情にかられた正義の士であり、捕縛するほどの罪とは認め難いとして、直ちに釈放するよう武家伝奏の坊城と野宮(ののみや)を通じ会津藩に命じてきた。

 これには、会津藩士が怒った。あの者どもが正義の憂国の士というならば、それを捕縛した我々は不義の士ということではないか、と大いに憤慨した。

 この日の朝、すでに将軍家茂は二条城に着御され、在京諸侯の参賀を受けた。容保はじめ幕閣は多忙を極め、終日、二条城に詰めていた。

 三月六日、昨日降った雪を踏みしめて会津藩の少壮血気の徒四十余人は服装を整え、抗議のために野宮定功の屋敷を訪問した。定功は病を称し会わなかったため、家宰の大下右兵衛尉が会津藩士らを応接し、会津藩の言い分がもっともであるということに、ともかくも収めた。

 会津藩士らは、さらに学習院に向かい、攘夷急進派の若手公卿を前に異論を述べるに及んだ。姉小路はこの様を好機と見て、直ちに使者を二条城の春嶽にやった。容保の臣数十名が学習院に押寄せ、木像梟首事件について暴論脅迫、その狂態寛容すべからず、もし容保がこれをなさしむるものなら、まさに処する所あるべし、と強く抗議を申入れた。天性の言いがかり上手を発揮した。

 容保は二条城に詰めきりだったが、騒ぎの一報を聞くと、若い家臣たちが公卿の陥穽(かんせい)にはまるのを怖れ、外島機兵衛を遣わして藩士らを無理にも引上げさせた。藩士は不満げな顔は隠せないものの、殿の仰せであるとの一言で、おとなしく整然と黒谷に帰ってきた。容保は、攘夷急進派の仕掛ける陥穽の筋書きをすでに読んでいた。

 京都守護職が罷免となれば、幕府がどれほどの困難に直面するかを思い、ぐっと忍従した。歯を喰いしばり、その思いを抑え、決して面に表さなかった。この事件を巡り、容保が攘夷急進派に対し政治的に負けたようにも見えるが、陥穽の手筋を防いだと見れば、負けてはいないのかもしれなかった。

 その晩、城から下がって、容保は家臣を呼び、その志を賞し一席設けた。家臣と酒杯を交わせば、どのような悔しい思いも晴れる。会津藩の一枚岩は最後まで堅牢であるということだった。

 

 三月になると、攘夷急進派は行動目標を三つに絞りはじめた。一つは御親兵の設置を幕府に認めさせ、十万石以上の藩から人数を出させること。二つは将軍が江戸に帰ることをさまたげ京都に長く滞在させること。三つは賀茂行幸とそれに続く石清水八幡の行幸である。これには天皇親征をめざし、その本格実行のための予備的な演習の意味がこめられていた。

 御親兵は昨年末、実美と姉小路が勅使として江戸に下り設置を要望したところ、幕府から鄭重に婉曲に断られた件だった。容保の言うところでは、京都守護職のもと京都に常駐する会津藩兵一千こそが朝廷の御親兵であり、これ以上は不要であると強く反対した。

 実美ら攘夷急進派の秘めた構想では、御親兵は天皇親征の軍を起こしたときに討幕軍の中核になる兵力である。まさか会津藩兵に討幕軍はつとまるまいと実美は腹のなかで冷笑した。

 会津の松平容保とならんで薩摩の島津久光を京都守護職に任ずるかつての構想は、帝や近衛を中心に朝廷のなかで断念されたわけではなかった。帝は久光を使って長州の攘夷急進派を抑えるおつもりだった。三条や姉小路、そして長州志士は、特にこの構想に反発し久光を嫌った。

 長州急進派の志士たちは、公武合体を目指す薩摩藩に攘夷の動きを押さえつけられ、いい顔をさせてなるものかと強く反発した。薩摩に対する妬(ねた)みと敵愾心がいっそう掻き立てられたようだった。久坂や寺島は、隙あれば薩摩に不利を計るよう常に隙を窺っていた。

 島津久光は、昨年、閏八月、京都を去って以来、帝の再三の召しに応じて三月に上京した。三月十八日、攘夷急進派があまりに強盛であるため、京都滞在わずか五日間にして帰国した。志士たちはほっとして久光の帰国に快哉を叫んだ。

 長州志士らが将軍を京都に留め置き、将軍に過大の重荷を背負わす動きが活発だった。将軍を江戸に帰して虎を野に放つことのないよう、策を講じた。将軍を京都にとめおけば、いいように利用することもできる。

 もともと将軍の滞京は十日間と決められていたが、種々の事情で延期となっていた。三月十七日、鷹司関白が一橋慶喜、板倉勝静、水野忠精を小御所に召し、将軍がさらに長く滞京すべき命を伝えた。十八日、三人は再び参内して、将軍が滞京のご要望を受け難いことを伝えた。

 翌十九日には将軍が慶喜を従えて参内し、江戸に帰りたいと申請したところ、天皇から将軍職は万事これまで通り委任するので、諸大名以下守衛の万端を指揮するように再度言われ、とうとう将軍は断りきれずお受けした。

 天皇も気がとがめたか、拝謁が終わって、別室で、十二歳の祐宮(さちのみや)が将軍と挨拶する機会を設け、和気藹々とした雰囲気を演出した。家茂は、帝にとって義理の弟、祐宮にとって叔父にあたる。帝は、家茂が気立てよく、素直で温順な性格であることを愛し、菓子やら織の紙入れ、組み物、銀の煙管(きせる)、印籠、銀の筆掛けを賜った。家茂は感激ひとしおだった。

 帝にすれば、三条実美らによって朝政を壟断され、政治と切り離された思いが濃い。この機会に将軍との親密な関係をことさらに強調したかった。常に幕府に不利を計らう三条らのやり方を暗にお咎(とが)めになったようにも見えた。

 帝は開国がお嫌いではあるものの、なんといっても幕府を大切に思われ、公武合体でいきたいとのお心だった。わが皇太子を将軍との対面の場に出し、手づから家茂に物を贈る行為が、実は帝の秘められた大きな政治行為だった。

 

 三月二十日、幕府は苦渋の決断を下し、会津の守護職とは別に御親兵設置を認め、十万石以上の大名に、一万石あたり一人の割合で藩士を出向させるよう布告した。実美がこの兵をつかさどる役目を仰せつかった。

 そのため、三条邸の門前はいつも駕籠や馬が市をなす勢いとなり、梨の木町は、ぼてふりが声をひそめる閑静な通りから、多くの武士が往来するに繁華な通りに変わった。

 

 三月二十一日、一橋、水野、板倉は再度、将軍を江戸に帰したい旨、鷹司関白に奏請した。生麦事件の交渉で賠償金の支払いが朝廷によって禁じられ、英国と戦になる危機にあることがその理由だと説明した。

 慶喜が、将軍は捨て届けとなってもお帰し申すと言ったため、関白も困惑しきって、翌日、将軍に参内するよう下命した。帝は、将軍に滞京するよう懇切にお諭(さと)しあそばされた。

 攘夷急進派が将軍を江戸に帰したくないのとは別の理由で、帝は将軍の京都滞在をお望みだった。帝にすれば、ここで将軍を京都に滞在させ、公武合体派を最後の崩壊から守りたかった。攘夷急進派の勝利をなんとしても避けたかった。

 こうした状況を聞きつけた長州の攘夷志士は、将軍が東帰するようなことがあれば、これを斬るとまで激昂した。三月二十二日、先ずは関白鷹司邸に押しかけ朝廷が将軍東帰を止めるまで居座ることにした。常套となった手段である。

 高杉晋作の下に、寺島忠三郎、野村和作、時山直八、品川彌次郎、伊藤俊輔など松陰門下を含む若手の急進派志士二十一名が結集した。鷹司関白は、これで何度目であろう、眦(まなじり)を決し、むんむんと汗臭いような若侍にまたしても屋敷に居座られた。

 邸内の家士もあきらめ顔で、好きにさっしゃれ、とばかりに放っておくしかなかった。鷹司関白が、ご苦労にも、深夜、丑の刻(午前二時)、禁裏を下がり、将軍の滞京に決まったことを告げるまで二十一名がいた座敷は、連中が帰ったのちも、しばらく、ひといきれと汗で妙に臭(くさ)かった。

 鷹司屋敷の下女の間では、血気に逸(はや)る汗臭い若い志士の妙なにおいを「攘夷臭い」と言いならわした。我が屋敷ではこのようなことがいつまで続くのかと、ほとほと困り抜いて鷹司関白が嘆いたと噂された。

 政事総裁の松平春嶽は、不条理に壟断された京都の政情に嫌気がさした。板倉が京都滞在を強く懇願したにも関らず、三月二十一日、捨て届け同然にして福井に帰国した。

 二十三日、一橋、水野、板倉は将軍の江戸帰還を急ぎ、京都出達の儀衛を整え終えた。すでに、その先駆けを出達させたことを知って、容保が、帝の承諾もなく帰るのは、公武合体策の破綻であると説きに説いて諌止した。容保にとって、公武合体が破れれば、京都に千もの藩兵を常駐させる意義もなくなるから必死だった。将軍の帰還は中止となった。

 二十五日には、小笠原長行が生麦事件について英国と交渉するため京都を出達し江戸に向った。同日、水戸藩の徳川慶篤が京都を発った。将軍に代わって江戸で攘夷の指揮をとるためと称したが、慶篤は到底、その器ではない。

 三月二十六日、山内容堂が帰国の途につき、二十七日、伊達宗城が帰国の途につき、公武合体をめざし、それぞれの立場で将軍を補佐してきたものたちが続々、京都を去っていった。

 公武合体派と攘夷急進派の政治抗争は勝負が見え始めた。将軍の周辺に残るのは、一橋慶喜、松平容保、板倉勝静、水野忠精くらいとなって、にわかに手薄となった。

 

 この時期、攘夷急進派の政治手法が完成したといえる。京都に参集した勤皇志士たちは長州藩士が中心となって、あれこれ攘夷の策を練る。真木和泉の著作を読んで思いつくもよし、妓楼で酒盃を挙げながら皆で思いつくもよし、あるいは娼妓を抱きながら思いつくもよし、幕府を苦しめ、攘夷実行につながる案ならそれで十分である。理も非もなかった。

 それを持って学習院に行き、あるいは実美、姉小路の屋敷に行って提案する。

「ほな、そうしまひょ」

 そうなれば、提案の内容に応じ、実美らが朝議で発議するか、あるいは、久坂らが長州藩世子毛利定広に言って、定広から関白に建議する手配をとる。

 志士たちの案はどのような筋から上げても、議奏や国事参政、実美、姉小路をはじめ、攘夷急進派の青公家の審議を経る。近衛や中川宮が朝議の場でうるさいことを言っても一言返してやれば黙るだけ。この頃では、何も言わなくなった。

 案が朝議を経て公式化されれば、適宜、役職名を以て達し、必要であれば勅旨の体裁をとる。帝につまらぬ瑣事を上奏してご宸慮をわずらわせることは厳につつしむべきであり、上奏は簡便をもってよしとした。帝から御下問を受けるような奏聞は下の下であり、多くの場合、上奏するまでもなく勅旨となった。

 重要なのは、帝が幕閣の者、あるいはその意を受けた諸侯を謁見する機会を避けることである。儀礼の挨拶だけなら謁見もいい。天杯を下賜しておけば喜んで禁裏を下がっていく。しかし上奏は可能な限り許してはならない。そこは上手(うま)くはからって、帝が幕府の意見に耳をお貸しにならないよう遮断することが肝要である。

 ――こら、きっと、あんじょう行くで

 実美がこう思えるまでに長い積上げがあった。天誅と梟首で恐怖を与え、特に目障りな者には腕やら耳たぶやら首やら、血糊のついた生ものを贈って脅(おど)し上げ、岩倉や大原ら公武合体派には追罰を与えて公家中の見せしめにした。帝の寵姫を剃髪にまで追い込んだ。

 志士を関白邸に押しかけさせ、欲しい回答を無理強いする手も有効だった。ようやく築いた仕掛けである。非を通すために、理が通らない仕組みを作り上げる苦心は大変なものだったと、実美はまんざらでもなかった。

「これが、時の政権を倒すということどす。非を通して理を通さへん。そのうち、非が理になってゆくもんどす」

 実美は、これまでの半年の道のりを思い、凄(すさ)まじくもここまで来たと振り返った。この勢いを盛りあげて倒幕に向うのだ。亡父の無念を晴らし、再び、屈託なく鮒鮨を喰えるようになりたきものよ、と真剣に願ったが、幕府を倒し新政府で何をしたいというわけではなかった。

 四月四日、武市は、薩長の調停案をまとめ上げ、国許で容堂の決裁を仰ぐため土佐に帰って行った。久坂は危険だから武市の帰国をやめるよう説いたが無駄だった。久坂が案じたとおり、この日、武市が京都を見た最期となった。

 四月十一日の石清水八幡行幸が終わって数日後、実美は、梨の木町の三条屋敷に久坂の訪問を受け、攘夷実行の策を十か条にまとめたと報告を受けた。よくできた内容だったが、そのうち二か条に違和感が残った。

 

 一、兵庫港へ海軍局創建、環海戦守の策、吟味候様仰せ付けられ、造艦、製鉄等の諸場をも設置せら
    れたく候

 一、堂上方御人選にて、沿海巡見、戦守の備え見分(けんぶん)仰せつけられたく候

 

 ――兵庫港に海軍局を創建するのやて

 ――造艦と製鉄ってなんのことや

 ――茅渟(ちぬ)の海の防備を堂上の誰かが見回るのやて

 これは何だと思い、久坂に問うたところ、長州は蒸気船をほしいと思い、幕府から金を出させてこうした施設を設立しておけば、いずれ攘夷のため、いいように使えると考えたという。公家から人選して、幕府の船に乗り摂海沿いの要地を見て回っておけば、海防について幕府と対等の知識が得られるだろうという。

 実美は、幕府軍艦に乗って摂海を巡見するなど御免こうむるつもりであったが、だれかが行くというなら、別に構わないと思った。

「まあ、ええでっしゃろ」

 実美は賛同し、長州から上書しやすいよう、明日にでも朝廷から在京諸大名に宛てて、攘夷に関する建白を求めることにすればよかろうと考えた。所司代の牧野に書状を書いて命じておけばすむことである。

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第三章「貧の遺恨-実美」十四節「ならぬことは」(無料公開版)

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 文久三年(一八六三)四月十五日、久坂は世子毛利定広の命を受け、藩主敬親に京都情勢を報告するよう命ぜられた。帰国の主たる目的は、馬関海峡で攘夷の砲撃に加わるため、三十人の同志を率い京都を発った。

 容堂が京都に滞在する限り、武市らは活躍できず、年が明けてからというもの、京都で攘夷活動を担ったのは長州の攘夷急進派志士と定広だった。それも、この日で終わると思うと、久坂は仕事に一区切りをつけた達成感とあらたな攘夷に胸が躍った。

 一方で、同じ日、朝廷から攘夷に関する建白を募集する旨、布達が出た。それに応じ、早速、翌十六日に長州世子毛利定広から策議十か条が提出された。当然ながら、朝廷の要請に応え、よく練られた案が翌日に速やかに提言されたと世間に見えて、諸藩の間で長州藩の力量が一段と光った。

 十八日、今度は、一橋慶喜が関白に宛てて申請した。慶喜によれば、江戸にて攘夷を実施するために異国と国交を閉じる交渉や、その後に起きる戦の実態を親しく天皇にご報告いたしたく、三条中納言、姉小路少将を派遣しご実検していただきたいとのことだった。

 実美は、巡見やら実検のことが続くではないかと、ややいぶかしんだ。己が関東に下向し京都の地を長く留守にすることは、この時期、できないと計算した。攘夷実行、天皇親征に向けてやることが多くあるのだ。江戸のことにかまけているなどできない相談だった。

 長州に諮問する形式をとり、その回答を踏まえて慶喜の申請を却下する形にしようと考えた。

「そもそも、攘夷の騒擾(そうじょう)した現場に、麿を呼ぶなど、一橋は何を詰まらぬことを考えておじゃるか。今度会(お)うたら、咎(とが)め立てして呉(く)りょう」

 即日、国事参政の豊岡隨資(あやすけ)、東久世通禧(みちとみ)の両卿によって諮問書が毛利定広に示され、その回答書が翌朝、長州藩重臣、清水清太郎によって武家伝奏野宮定功に届けられた。これを踏まえ、慶喜に達しが出た。

 将軍後見職の請願に対し、敢えて長州藩世子に諮問する形をとったことに、実美の悪意が公家風に仕組まれていた。朝廷の、というより実美の回答は次のようだった。

 

   国交を拒絶する談判を実検するため勅使が関東に下る件だが、これまで幕府に委任され、幕府から

   攘夷の期限決定を言上した上は、疑問のある筈もないので、攘夷決定の期限を間違いなく守って国

   交を拒絶し、天皇の御心配を安んじたてまつることになる以上、特別に、勅使を関東につかわす儀を

   下命する必要がない。

 実美の舌打ちがこめられたように、いまいましいことに対する冷淡、侮蔑、高圧的な文面が幕府に届いたのは四月二十日だった。明日は、慶喜が江戸に帰るため、参内して暇乞いの挨拶を帝に申上げ、その翌日、慶喜が京都を発つというあわただしい日だった。勝から提案を聞いて慶喜に取り次いだ板倉は、朝廷から返ってきた回答書を鼻先で読み飛ばし、慶喜は片頬をわずかに歪めてみせ、書面を破り捨てたりはしなかった。

 ――これはこれよ……

 四月二十一日、長州藩世子毛利定広が予定通り帰国の途についた。この日、一橋慶喜が帝に東帰の挨拶をすることを知って、定広は国許に安心して帰れると、多くの藩士に供奉させて京都を出立した。攘夷急進派の多くの志士と定広が不安を残すことなく帰国の途につき、京都での勝利を宣言したようなものだった。

 以後、攘夷のおもな舞台は馬関に移り、五月十日をもって異国船を砲撃しようと長州藩では準備に怠りなかった。多くの志士が長州に帰ったが、京都に残ったわずかな者の中に寺島忠三郎がいた。寺島は実美、姉小路と親密であり国許との連絡には適役だった。

 京都には、将軍家茂の側に板倉、水野の両老中が暗い顔をして控え、京都守護職松平容保が歯を喰いしばって黒谷に構えているだけとなった。幕府がこれ以上、公武合体の動きをとるわけにはいかなくなった。

 こうまで攘夷急進派から押し込まれては、幕府は京都においてなすべきことを失った。京都に滞在すれば、攘夷急進派から、いいように利用されるばかりで危険でさえあった。

 四月二十一日、将軍家茂は、京都二条城を発って大坂城に向った。将軍こそ、江戸に帰るのが本来の姿だが、帝に約束した手前、帰るわけにはいかなくなった。残す手立ては摂海巡見を理由に大坂に移り、大坂城を策源地として時勢を見極め、機会を待つことだった。

 京都では、実美、姉小路を中心に攘夷急進派公家が五月十日、馬関の攘夷実行予定日を待ちかまえ、天皇親征の機会をうかがっていた。将軍が大坂に下って間もなく、気になる噂が朝廷に聞こえてきた。

 将軍は一旦大坂に下り、摂海巡見ののちは報告のため京都に戻ってくる予定であったが、実は、巡見後、もう京都には戻らず、大坂から海路、江戸に帰るつもりであるという。

 この件は朝廷から幕府に問合せたが、直接、江戸に帰るつもりはないという穏当な回答が返ってきた。朝廷では、幕府の回答がどうであれ、将軍東帰の噂が流れた以上、真偽を確かめ、場合によっては江戸に帰ることを牽制し、阻止する必要があるという話になった。

 かつて、長州志士は将軍の東帰にあれほど反対し、捨て届けで帰るなら行列を襲撃し将軍を斬ってしまうとまで息巻いた経緯があった。京都に残る攘夷急進派の公家らは、長州志士の考えを引継ぎ、やすやすと将軍を江戸に帰してはならないと考えた。一方、悪くすると、英仏艦隊が摂海に侵攻してくるという噂が京都で広まっていたから、その備えに将軍が大坂に詰めるのではないかとも考えられた。

 同じ頃、実美らの間で長州から上呈された策議十策を実行する相談が持たれ、摂海巡見の人選をしなければならなかった。その目的に、摂海巡見の他に将軍東帰を阻止することがつけ加えられて人選が図られた。予想どおり姉小路が選ばれた。

 実美は、姉小路なら度胸と強気で幕船に臆することなく乗込むだろうと思った。また大坂城で将軍と会談し、もし、江戸に帰る心が少しでもあれば、帝の優渥(ゆうあく)な御配慮を思い出させ、将軍東帰の意図を挫(くじ)く弁舌も間違いなかろうと思った。

 

 四月二十三日、午後、姉小路は、七十人を越える志士を引き連れ京都を出達した。五月二日昼過ぎ、静かになった京都に、戻ってきた。直ちに参内し、帝に摂海巡見の様子を細かく上奏した。

 西洋船が優秀なこと、台場で守衛する藩の中には疲弊した藩もあるため交代させるほうがいいこと、欧米の艦隊が摂海に侵攻してくれば相当に危ういこと、摂海の侵入を防ぐには、淡路島の北、明石海峡と、南東の加太ノ瀬戸、中ノ瀬戸、南西の友ヶ島水道の四つの口を押さえなければならないこと、明石海峡、友ヶ島水道は相当に広く異国船の侵入を防ぐことは難しいことなどを滔々と語った。

 陪席した皆は姉小路の話を聞いてよくわかったと思ったが、実は、ではどうすればいいのか、このまま攘夷の方針を維持できるのかについて言及がなかったことに気付いた。言及がないから、これまで通りの方針だと思っていた。

 姉小路が故意に触れなかったことこそ、姉小路が最も深刻に悩んだことだった。実美は聞き終わって、これまでの姉小路の話ぶりとはやや異なるように思った。

 摂海巡見を終え京都に帰ってからというもの、姉小路の様子が少し変わったかと、あらためて実美は思った。この違和感はこれで何度目だろうか、この日、国事参政や寄人など、いつもの面々と学習院の座敷で歓談中のことだった。

 姉小路は大きな風呂敷包みを解いて、勝から土産にもらった砲丸二つを皆に見せ始めた。それは大きく、一同に回すと随分と重いものだと驚かれた。

「この玉を大砲(おおづつ)にこめ、狙いをつけたら、ほな、撃つ」

 姉小路は、順動丸の船上、西洋大砲(おおづつ)の試射を実見した体験を語った。轟音とともに撃ちだされた砲丸は、全く目に止まらなかったという。このように重い鉄の玉が目にもとまらぬ速さで飛んできて当たるものに大穴をあけてしまう。人にあたれば粉微塵であろう。

 凄いものではないか。夷狄(いてき)船の大砲(おおづつ)は四、五十町も砲丸を飛ばすというが、我が方の大砲はわずか十町ほど、夷狄から射すくめられることになるなどと語った。ずしりと重い鉄の玉と姉小路の雄弁で、攘夷急進派の若公家らには砲弾が飛び交う戦場(いくさば)の様子が少しずつ想像されはじめた。

 ついで、姉小路が包みからごそごそ取り出したのは、勝が米国にて購入し、このたび姉小路に贈呈したという西洋画だった。折目をていねいに伸ばしながら絵を皆のまえに広げてみせた。それは、せばすとぽる戦図と題され、クリミヤ戦争におけるセヴァストーポリ要塞の攻防戦を描いたものだった。

 英、仏、土耳古(とるこ)の兵あわせて五万六千が、要塞にこもる露西亜(ろしあ)兵五万を包囲し、激烈な砲撃戦を展開している様が活写されていた。

 この戦は一年間の激戦ののちに、安政二年(一八五五)秋、要塞が陥落して終わったと、姉小路の口から説明された。

 ――新御所が竣工する少し前のころや

 一同はそう思うと、妙に生々しく見えた。

 実美は、父が金子(きんす)の工面に苦しんで、八方頭を下げて回り、ようやく御所上棟式に参列できた苦労談を思い出した。

 ――あの頃のいくさなら、まだ、八年とたってへん……

 画面では、至るところで一同が手にしたような砲丸が飛び交い、強固な西洋の石造りの城壁にぶち当たって炸裂していた。戦場一面に不吉な煙(けぶ)がまとわり、凄まじい戦ぶりが描かれている。大勢倒れているのは戦死者の群れか、皆は丁寧に目をこらし、次第に戦の惨烈さが心に染みたようだった。

「夷狄はこげな戦(いくさ)に慣れとるさけ、強うなったのでおじゃる」

 攘夷とは容易なことではないと皆が思い、では京都に攻め込まれることはないのかなど、さまざまなことを思い浮かべて黙ってしまった。

 実美は、攘夷に恐ろしさを覚えた一同の心が手にとるようにわかった。士気に関ると思い、その場を収めるよう別の話題に変えるのに懸命になった。しかし、いったん、このようなものを見せられた一同を、別の話題に導くことはできなかった。実美は、はじめて姉小路に忌々(いまいま)しさを覚えた。

 

 数日後、夜になって、若い志士が梨の木町三条邸を密かに訪れた。寺島忠三郎、二十一歳だった。久坂玄瑞と常に行動をともにし、昨年、実美が江戸に勅使として下向して以来、すっかり実美の信頼を得て攘夷急進派の志士として奔走してきた。

 実美や姉小路とは、天誅をはじめ他言をはばかる謀略を練った間柄で、二月には久坂とともに関白鷹司邸に乗込んで、幕府に攘夷決行の日を決めさせる契機を作り、大きな成果を挙げた。松陰門下、屈強の攘夷急進派である。

 久坂は、寺島が姉小路に従って摂海巡視に出かける前、四月十五日に長州に帰った。寺島は京都に残り、時勢を見極めながら国元との連絡係りを務めていた。二十三日、寺島は姉小路に随う一団に加わって大坂にくだり、勝の順動丸にも同乗した。勝の弁説を聞く姉小路を間近に見てきた。その寺島が、夜分こっそりと実美に目通りを願ってきた。

 久坂は近頃厳しく実美に当たることが多かった。京都を去り、その弟分の寺島が残ってからというもの、実美は、少し心がくつろぐ気がした。久坂は頭脳鋭く、弁舌肺腑を突き、堂々たる文章には実美も舌を巻くことが多かった。久坂は、有能で攘夷を性急に求める分、気分の休まらないところがあったが、寺島は久坂の一歩後ろに控えた印象があって、気安く感じられた。

 座敷に出ると、寺島は挨拶も何も抜きで、単刀直入に切り込んできた。最近の姉小路をどう見るかと聞いた。姉小路が摂海巡見に行くまでは、全く隙間のない同志だった。それが大坂にくだり、幕船に乗り、勝の弁舌に触れてからは、攘夷の鋭鋒がすっかり挫(くじ)けたのではないか心配であると寺島は実美に訴えた。

 学習院で大砲玉(おおづつだま)を皆に見せ、醜夷恐るるに足らずと気勢をあげるかと思いきや、どうも洋夷はよほどに強(つお)い、油断できない、攘夷は危ういと言って、国事参与や寄人を怖がらせる有様だったことに触れた。

 国許では、五月十日深夜、馬関において、米国商船に攘夷の砲撃を撃ち掛けたと急報があったばかりである。もはや、長州藩は後戻りできず攘夷の道を突き進むしかない。その一方で、実美と並んで、攘夷派公家の領袖株である姉小路卿が、幕臣の勝ごときに籠絡され、攘夷危うし、などと言い始めるようでは、長州藩として立つ瀬がないと、実美に不満をぶちまけた。

 この期におよんで攘夷に腰が引けるようでは、長州藩一人が突進し、あとに続くものがいないことになる。長州だけが洋夷に袋叩きにされるではないかと、寺島の口舌は、ぼそぼそ言う割には、激烈にして容赦なく、実美がおさめようにも聞く耳をもたなかった。

 実美は、硬軟の口調を交えて言い募る寺島を黙らせ、姉小路卿の攘夷の心にはいささかの迷いもないのだと諭(さと)し、なだめた。寺島はむっつり黙って聞き、辞去の言葉をだして席を立つ今際(いまわ)に、

「成敗(せいばい)を問わず、と言うとるのじゃけん」

 つぶやくように言い置いて帰って行った。

 松陰門下が成敗を問わず、と言えば、意味するところ一つであることを実美はあとで気付いた。

 五月十八日、一同が学習院に集まったとき、再び姉小路が弁舌をふるい始めた。姉小路は勝の操艦する幕府軍艦に乗ってみて大いに感心した例を一つ一つあげ、蒸気機関の力強さ、蒸気船の速さを強調した。

 十日には馬関で長州藩が攘夷の砲撃を実行したことでもあり、摂海でこれをやればどうなるのか、洋夷の船が摂海に侵攻してきたらどうするのか、洋夷によって清国がどうなったのか、わからぬことばかりだから、一度、幕臣の勝を学習院に召して話を聞いてみたらどうかと提案した。姉小路は、学習院が意見のあるものに広く門戸のひらかれた施設であるとでも言いたげだった。

 幸い、勝は、京都に来ているという。姉小路は、摂海のことがわからなければ攘夷も、防備もあったものではないという勢いだった。姉小路は前日、勝と会っていろいろ話を交わしたことは一同に伏せたが、勝の説くところ、我々の行く手の導標(しるべ)になるかもわからんとまで揚言した。

 実美は、この時初めて、先日、寺島が息せき切って訴えた危機感がわかった。ともに歩んだ朋輩だったが、攘夷の勢いに水をさすのであれば、もはや忠三郎の気勢を抑えられない。

 ――忠三郎に諾(うん)とは言われへん、けど、あかんともよう言わん

 忠三郎のことである、すでに用意は整えたのではないかと思い、実美はぞくっとした。

 

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第三章「貧の遺恨-実美」十五節「成敗を問わず」(無料公開版)

三章十四節「ならぬことは」
三章十五節「成敗を問わず」
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