明和九年(一七七二)九月七日、満を持して、幕府は南鐐二朱判の発行を布達した。これは奇妙な貨幣で、銀で鋳(い)てあるにもかかわらず金貨単位の朱を以て数え、金貨を意味する判と命名してあった。
銀の品位は千分の九七八、「南鐐」の文字が純良な銀を意味する通り、ほとんど純銀と言ってよかった。長崎で、唐と阿蘭陀(おらんだ)から輸入した銀を営々、十年にわたって貯め込んできた甲斐があった。
幕府は、あくまで少額金貨であると強調し、二朱銀とは呼ばなかった。布達では銀で吹いた金貨である旨、堂々と告示した。
南鐐二朱判は明和五匁銀と比べ、矩形の大きさは半分ほど、量目は半分強の銀二・七匁(もんめ)。ただ品位だけは空前の高さとした。表面には、「南鐐八片を以て小判一両と換(か)ふ」と十文字の漢字を刻した。
一両は四分で、十六朱だから、この銀より成る金貨に二朱と刻めばよいものを、そうはしない。刻んだのは、むしろ、一両金貨との交換比率だった。南鐐二朱判の価値を金銀相場の縛りから解き放つ位置に置こうとした川井の熟慮だった。銀は南鐐二朱判に鋳(い)直しさえすれば、いつでも金銀相場から自由になれるという幕府の通告のようにも聞こえた
かつて明和五匁銀は、一両が六十匁の相場に即して設計され、十二枚で小判一両に相当すると一応は決めてあった。ただ、五匁と鋳印した以上、銀目で値踏みされるのは当然であり、銀安相場の許では、小判一両に換えるのに十三枚かそれ以上を求められることもあった。これが、商人(あきんど)たちの損を回避する対抗策で、こんなことでは、秤量が不要になっても金銀相場の解消につながらなかった。
此度(こたび)の南鐐二朱判はとびきりの高品位銀に鋳立(いた)て、商人が高品位貨幣に抱く安心感に訴えかけた。ひとまず安心させておいて、八枚で一両と交換すると鋳込み、小判との交換比率を固定的に明示した。
幕府が金貨銀貨の交換比率を固定したがるには訳があった。幕府と大名は、秋から初冬、必ず年貢米を大坂に持ちこみ銀に換える。そうなれば、この時期、大坂で必ず米価は下がった。
下がった相場で米を売り払って代銀を得た各藩は、今度は一斉に、銀を金に換える。江戸藩邸で年末の払いに金が必要だった。当然、銀安金高の相場基調になる。幕府と大名は、米から銀、銀から金へと交換のたびに不利をこうむるようにできていた。武家の損はすなわち商人の利だった。
それまで、金、銀二つの貨幣が独立した別個の流通世界をつくり、変動相場で金貨と銀貨が交換されていた。 金銀を相場に応じて交換する必要を減らし、武家のこうむる不利を解消することを狙う新貨だった。
南鐐二朱判は斬新な貨幣観を担うことになる。金だけで小判の必要量を賄(まかな)えるはずもなく、銀にも金貨の役を担わせる必要があった。世間に流通する金貨の量を増やせれば、金回りが良くなって景気がよくなる。商人は儲けを増やし、幕府が課税しやすくなる。
狙いはそれだけでない。南鐐二朱判の発行には出目があった。南鐐二朱判の一枚の銀量目は二・七匁(もんめ)、品位は千分の九七八だから純銀二・六四匁を含有する。八枚を作るに必要な純銀二十一・二匁があれば、一両ぶんの金の価値を創出できる。
この年の相場は銀安で、これまで流通してきた元文丁銀六十八匁が小判一両に換えられた。品位は千分の四五一だから、純銀として三十・七匁が一両に相当した。
小判一両と換えるには、南鐐二朱判の形にすれば純銀二十一・二匁で済み、元文丁銀の形にすれば純銀三十・七匁を要するということである。南鐐二朱判を吹き立てて浮くこの差が一両当たりの出目となり、通貨発行益になる。
明和七年から八年にかけて旱魃が続いた。八年八月は大風に見舞われ、明和九(めいわく)年(一七七二)二月に行人坂の大火があり、八月に風水害があって、近年の一連の災禍の救済に幕府は財政支出を増やさざるをえず、かなりの金を放出した。南鐐二朱判の出目は幕府財政を助けてくれるはずだった。
十一月十六日、幕府は、天災続きの世を終わらせたいと、めでたい字を選んで安永と改元した。世間からは難儀な年だったと狂歌で揚げ足をとられ、恒例の挨拶のように市中で言いはやされた。
年号は安く永しと変はれども
諸色高直(こうじき)いまに明和九(めいわく)
明和九(めいわく)も昨日を限り今日よりは
寿命ひさしき安永のとし
安永二年(一七七三)正月からぼちぼちと諸国に痘瘡がはやり始めた。江戸では三月になって患者が急増し、五月まで目を覆(おお)いたくなるような猖獗(しょうけつ)が続いた。
幕府は、朝鮮人参の国産化に努め、すでに日光今市で生産に成功していた。これを使って町ごとに五両相当分を下賜し、疫病患者の療養に努めよと布告した。
人参代四千両のほか町人の支援に相当な額を支出したのは、町人も国の宝だと考えを貫きたいからだった。今市産の国産朝鮮人参は、朝鮮からの輸入を減らし銀の流出を抑えて財政上の効果を上げてきたが、江戸の町の痘瘡には効かなかった。
手のほどこしようがなかった痘瘡が、ようやく下火になった頃、町奉行所が棺屋(ひつぎや)たちを呼び出し集計したところ、痘瘡流行の時期、江戸市中で十九万個の棺桶(かんおけ)が売れたとわかった。二十五年ぶりの大流行となった。
二月、倫子の産んだ万寿(ます)姫が十三歳で亡くなった。五月には、一橋宗尹(むねただ)の六男で治済の弟、一橋鎌三郎が十七歳で亡くなった。六月には尾張藩継嗣、徳川治休(はるよし)が二十一歳で亡くなった。
治休は尾張中将と呼ばれ、江戸の町でも人気の高い若君だった。何より、万寿姫の許婚(いいなずけ)だった。江戸中が若い二人の死に涙し、自らの家族の死を慰めた。今回の痘瘡は、初め、庶民や、中間(ちゅうげん)のような低い身分の武家に蔓延し、後半、高貴な権門を容赦なく襲った。
御屋敷へ町からうつる疫病は
はじめ中間(ちゅうげん)をわり中将
こんな世相でもめでたいことはあった。十月五日、一橋邸でお富が子を産んだ。死産、夭折の乳児を除けば、事実上、治済の第一子で、しかも男児だった。正室は三年前に十五で亡くなっていたから、今や、お富が世継ぎを産んだ御方様となった。
出産を聞きつけた岩本正利は、通い慣れた道を急ぎ一橋邸に駆け付けた。祝いの挨拶のあと、いつものように西之丸内の話を微に入り細にわたって治済の耳に入れた。ただ一つ、幕臣の間で、お富の産んだ男児が上様のお胤(たね)ではないかと窃(ひそ)かに噂する向きには触れなかった。
*
十一月、勘定奉行石谷清昌は、小石川役宅の奥座敷に座って、この日開かれる会合の様子をあれこれ想像した。都合をつけて必ず出頭せよと自らの名で差紙を送達した以上、大勢が集まるに違いない。参集する筈の者たちとは、霞ヶ浦、北浦周辺の河岸(かし)の舟問屋や舟持惣代だった。
清昌は長崎奉行の兼帯を解かれ、勘定奉行専任になって丸三年、この間、幕府財政を支える新しい歳入源と経費節減策を検討してきた。明和八年(一七七一)には倹約令を布達し、五年と区切った倹約令を今まさに実行中である。
明和九年(一七七二)には南鐐二朱判を発行し、新しい貨幣観を世に問うた。次第に受け入れられてくれば貨幣流通に大きな影響を与えることになるだろう。多くの政策を積み重ね、それぞれが良い作用をもたらし、人々も、諸侯も、そして幕府も富むに違いない。南鐐二朱判はその大切な一環をなし、国全体を見据えた長期の政策であると清昌は強い確信を持っていた。
行人坂の大火、旱魃、風水害、痘瘡流行が連続し、幕府も人々も痛めつけられた。幕府は少なからざる支援金を各方面に与え、手当することに努めた。民のために当然だった。
――これからは百姓だけではない、広く町人に運上を負担させなければなるまい。運上は、この世を生きて楽しむ木戸銭のようなものじゃ。町人が力を付けたのだから、儲けに応じて木戸銭を払い、払った以上は堂々と世を楽しむことじゃ。
――それには、皆の生業(なりわい)が生き生きと回り、工と商が活気を持ち、金が円滑に回り、人々が楽しく生きられるよう幕府が仕組みを整えるのじゃ。
清昌はいささかの自信を持っている。
――上様を頂点に、主殿殿、川井久敬と己(おのれ)が力を合わせれば、惇信院様の御遺言を成し遂げられるのではないか
清昌には、最近二年間、懸命に調べてきたことがあった。江戸の物流を担う関東全域で、河川舟運の河岸(かし)を整備し、運上を取る計画である。
近年、農民は米以外に銭になるいろいろな作物を作る。作れば、それを然るべきところに運搬しなければならず、こうした運送が大きく増えてきた。そうなると、農閑期に牛馬を使って運送を請負い、駄賃稼ぎを手掛ける者が出てきた。
これまで宿場では伝馬と人足を常備して、荷が来れば宿場間を輸送する。荷は宿場ごとに継立(つぎた)てて、逓送(ていそう)することが公用すなわち武家の輸送だった。これでは宿場ごとに荷物を別の馬に積替えなければならない。荷主から見れば馬鹿な話だった。積替えれば手間がかかるだけでなく、荷傷みが生じ、高額で遅い運搬しかできなかった。
駄賃稼ぎの者たちは、口銭のかかる宿場問屋を避け、道でもない所を、草を掻き分け縦横に歩いた。次第に、踏み跡が牛馬の踏み固めた立派な道となって、宿場や関所の少ない有利な運送路が自ずと開(ひら)けていった。
この新道を利用して、農閑期、駄賃稼ぎの者が近在から頼まれた換金作物を一定の長距離を付通(つきとお)しで目的地まで運んだ。安く早く荷傷みの少ない輸送が個々の馬主の責任のもとに行われ始めた。
新道を通った陸送から河川舟運に積替(つみか)えるには、公認河岸(かし)とは別な河畔(かはん)で船積みし、船揚げすることが普通になった。河岸の口銭支払いを安く抑えるためである。
新河岸では、公認河岸より規模や設備が劣る分、口銭をぐっと安くした。運賃が安ければ頼まれる荷の量が増え、それなりの商いになって、今では相当の数に上っていると考えられた。実態は奉行所にもわからない。
農民の精力があふれるように噴き上がって、既存の運輸体系からはみ出し始めた。公認河岸にとって独占性を侵食され死活問題になって、新河岸を違法と訴える係争が俄然、増えてきた。
揉め事の起きない運用規則と公正な運賃を定めて河岸を使い易くすれば、河岸から適正な運上を取ってなお、物流は向上、増大すると清昌は目算を立てた。
――新河岸は民の力で立派に立上がってきたのじゃ。舟運を公許してやって儲けを上げさせ、運上を取ればよい
その算段は立ててある。すでに二年前、己の名で代官所から、佐原、木野崎、小見川、阿玉川、滑川の利根川五河岸(かし)の代表に召喚状を送達し、河岸吟味を行った。河川舟運の実体、集荷品と運送量、河岸と舟運機能の担い手など、呼び寄せた河岸の代表者から詳細に聞き取り、実績を証拠だてる帳面や送り状の提出を命じた。
これをもとに、幕吏が実地に河岸に出向き吟味した河岸は、これまで十一に及んだ。この日は、さらに聞くべきことを聞き、来年には大規模に河岸吟味を進めるつもりでいる。およそ百五十から百六十の河岸に出張(でば)って吟味し、一気に運上金を決める手順を準備している。
運上がさほどの額にならなくともよい。広く薄く利益あがる所に課して、民が働きに応じて運上を担う心構えを養わせたいと考えた。運上を担えば幕府は独占を許し、大いに酬いてやるつもりだった。
それだけでない。新河岸がたとえ藩領にあっても、運上の納入先を藩でなく、幕府にするというのは、これまでにない試みである。藩の収益に幕府が手を突っ込むのは理に合わぬと、どこぞの藩から苦情がくるかもしれない。清昌は、関東一円の河岸の整備、統一的な運用、舟運全体の底上げは幕府が担って支援すべきことであると反論するつもりでいた。一藩でできる話ではない。
そうして、藩領を越え関東一円で共通の規則に基づく舟運体系を整備する。藩領の河岸から上がる運上が藩に行くわけではないことを知らしめるいい機会だった。
――困窮した折には、幕府が藩を助けてやるのだ。河岸運上を幕府が取って悪いはずはなかろう
この日の会談で直接吟味にあたる勘定組頭の辻守美と御勘定の佐藤重矩が頑張るだろうと、清昌は一人、にっこりした。この朝、小石川の勘定奉行役宅は、ひどく冷えた。
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