安永四年(一七七五)春、幕府は活気に満ち、幕吏一人一人が活発に動いていた。四月朔日の月次(つきなみ)登城の折に、月番老中松平武元(たけちか)(館林六万一千石藩主)から、翌年四月、上様が日光東照宮を社参されると、御三家と在府の諸侯に伝えたからだった。
明和八年から始めた倹約令により、幕臣一同、孜々(しし)として経費を積み上げた。苦しかった足掛け五年の倹約は四月で満了となり、当初の予定額を達したのだろうと幕吏は噂した。各部署の御定高(予算)が緩(ゆる)くなるわけではなかったが、ともかくも苦しい倹約の時期が過ぎた。
来年の日光社参が実現すれば、享保十三年(一七二八)の有徳院様の社参以来、四十八年ぶりの壮挙だと、久しぶりに気の晴れる話に、幕吏は皆、嬉しそうだった。
日光社参に供奉する者を決め、御成道(おなりみち)沿いの領地を治める大名に警衛を申し付けるなど、やらなければならない準備が山のようにある。だれしも経験がないから、埃を払ってかつての書付を見るしかない。
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六月も中頃、意次は、石谷清昌と川井久敬と連れ立って、市中の料理茶屋に行くことを思い付いた。以前は折をみつけて、町の様子を微行(しのび)でみて歩いた。身分が上がるにつれ、町中の微行(しのび)歩きも控えざるを得ないようになった。弟の意誠(おきのぶ)が元気なころは、市井の風聞、巷説などをよく聞かせてくれた。一昨年に亡くなって、意誠ほど為になる話を持ってくる者はいなくなった。
この日、久々に身分を隠し二人の勘定奉行と町中(まちなか)に出向き、政策が上手く回っているか、その兆しを探してみたいと思った。意次の選んだのは蛎殻(かきがら)町の田沼家下屋敷からすぐ近く、中洲築立地だった。ここは、もともと新大橋のすぐ下(しも)、大川と箱崎川の合流する辺り、三派(みつまた)一帯に広がる洲だった。
日本橋大伝馬町二丁目に、馬込勘解由(まごめかげゆ)という顔役がいて、代々、伝馬役と名主役を務めていた。この男がこの辺(あた)りを埋立て、浜町から突き出して新開地を造成したいと願いを届け出たのが明和八年。幕府が差許したところ、一年で埋立てを終えてみせた。民の力を上手く集めたとかで、利が見込めれば銭金(ぜにかね)はすぐにも集まるものらしかった。
それ以降、三年の間に続々と町屋が建った。今では三股(みつまた)富永町と名付けられ両国にも負けない殷賑(いんしん)の地となった。江戸でも指折りの町である。ここの楽庵(らくあん)を訪れようというのがこの日の計画だった。
意次は、蛎殻町の下屋敷と近いので、これまで折を見て埋立て普請の千変を眺め、町屋の建ち並びゆく万化を見守ってきた。価値のない川洲がたいそう賑わう町に変じた。
百姓が新田を拓(ひら)くように町人が繁華の地を造り、収穫高を高めるように売上高を高めた。両者の努力に違いがあるとは思えなかった。田に実る富と、繁華の地に上がる富と、いずれもが、民を潤し、武家を利し、幕府を強める柱となる仕組みを考えなければならないと、その都度感じた機縁の地だった。
田沼家下屋敷に石谷と川井が到着した。邸内で、女中に手伝わせて微行(しのび)の装いに着替えた姿を互いに見せ合った。
明和初年から羽織丈(たけ)は長くなり、裾から二寸明(あ)きなどが普通になって、小袖と対丈(ついたけ)といっていいほどの長い羽織である。羽織紐も長々と〆(しめ)るため、随分と垂れ下がるのがよしとされた。
優柔というか、だらしなく着崩した風が好まれた。風俗の乱れと嫌う向きもあるが、意次は、これはこれ、民の生んだ世相ではないかと、楽しんでいた。
川井は、背丈が低いところに長い七子(ななこ)の羽織をぞろりと着付けて、すっかり、ぞろっぺいを気取っていた。
「なんと、これは見事なお似合いようじゃ。粋な姿に茶屋の女も見惚れましょうぞ」
意次も石谷も笑いを抑えきれず、川井はにやりとしてみせた。
石谷は、八丈絹の袷(あわせ)で誂(あつら)えた山岡頭巾(ずきん)まで用意してきた。試(ため)しにかぶってみせると、御納戸茶(おなんどちゃ)の暗い青緑の風合いが秀麗な顔つきに苦みを加えた。
「うむ、渋いのお。よくお似合いだが、三股には舟を出すゆえ、頭巾までは御不要かと存ずるが……。それとも水茶屋辺りをぞめき歩くのに御入り用かの」
意次がにやにや、からかっても石谷は動じない。
「艶(あで)やかな場を空過(ぞめ)くには、あったほうが宜しかろうと存ずる」
三人は大笑いしながら身仕度を終えた。供の者たちに三股富永町の船宿で待つよう言いおき、脇門からそっと出た。稲荷堀(とうかんぼり)沿いを緩(ゆる)やかに歩くと、隣家の酒井邸との境に到った。そこが舟着場で、屋根舟が待っていた。
三人を乗せて船頭がゆっくり艪(ろ)を遣(や)ると、開けた障子から堀筋が箱崎川に合流するのが見えてきた。右手に行徳河岸(ぎょうとくがし)を望みながら合流点で舟を左に遣(や)り、蛎殻河岸(かきがらかし)を左に永久橋をくぐった。この先は川幅が広くなって右手に田安家下屋敷の海鼠塀(なまこべい)が延々続くのが見えた。その屋敷塀が切れて川面になった向うに三股富永町が見え、三味線、鼓、太鼓の囃子(はやし)が遠く聞こえてきた。ここまでくると爽やかな川風に汐の香が感じられた。
三人が船宿の前で屋根舟から降りると、あたりは大変な雑踏だった。煮売り、煮肴(にざかな)、綿飴(わたあめ)、玉子焼、胡磨(ごま)揚げ天麩羅、西瓜(すいか)の立売り、桃、真桑瓜(まくわうり)、餅菓子、干菓子など、屋台見世(みせ)に買い喰い客が黒山のように蝟集(いしゅう)していた。そこで払いに使われているのは四文銭だった。
三人は大勢の人がさんざめく様子に感心して顔を見合わせた。蒲焼の香と玉蜀黍(とうもろこし)団子の付け焼きの匂いが辺りに薫じ、たまらなく食欲をそそる。
――これが近ごろ出始めた屋台見世か
物珍しいだけでなく、さほど元手がかからず簡便な屋台で小商いを始める工夫に感心した。明和九年の大火で見世を失った町人が、大変な苦難があったろうに、こうして前を向いて歩む姿は胸を打つものがあった。
――民は歩みを止めぬ。見上げたものじゃ
川端に設けた葦簀張(よしずば)りの水茶屋の前で、娘盛りの別嬪が客を呼び込む声が明るく響く。夜店の主人は客を呼び込み、見世物では猿の軽業(かるわざ)に歓声があがる。騒々しい音の渦の中、生きるたしかな力が漲(みなぎ)っている。
賑わいの中を楽しそうにそぞろ歩く人々が連れと語り合い、団扇(うちわ)を使って涼み、上(のぼ)ってきた大きな月を眺め、大川に向かって息を吸い込むのを見て、意次たちは互いに頷(うなず)き合った。町行く人々が人生をしかと生きていると、三人が三人とも見切ったようだった。
意次は、町を歩みながら、周りの屋台見世や見世物、辻売が千燈万照し、多くの料理茶屋の櫛比(しっぴ)する賑(にぎ)わいに民の力強さを感じた。民が楽しく過ごせる世を築いたのだと、為政者の手応えと喜びを噛みしめた。
三人は、この地が両国を越えて賑(にぎ)わうのも、さもありなむ、と話しながら、この九千六百七十七坪の土地がいかに民を楽しませ、いかに価値を生むか周りを見渡しながら歩いた。興味津々だった。
奥まった一画に着くと、大川に沿うて建つ雅趣あり気な構えが楽庵だった。黒塀沿いに門を入ると、待っていた三人の女中の挨拶を受けた。あたりは夕闇が濃くなり、山梔子(くちなし)の香がかすかに匂う中、刈込沿いに庭の奥に案内された。
女中一人一人が手燭をかざす後を、苔(こけ)の中に打たれた飛び石伝(づた)いに行くと、見梅門に到った。石燈籠(いしどうろう)のほの灯りの中に、切妻屋根と丸太柱の中門を見て、意次は外と内の露地を閑寂に結界する趣向をあらためて味わった。
――儂(わし)は茶事には疎(うと)いが、この茶屋にいつ来ても、杉皮で葺いた切妻の小門は確かに風情じゃ
女中が華奢な竹簀戸(たけすど)を開き、内露地(うちろじ)に三人を招き入れた。植え込みの中の曲がった道をゆるゆる行った庭の先に、一気に大川の川面(かわも)が広がった。月が中天から一面に差し照らし、三人は、月と川と夜雲の大観に、しばし見とれた。
川開きを過ぎた大川には幾艘もの屋形船が明かりを灯(とも)し、新大橋の脚からこの辺りにかけて川遊びの最中だった。さすが江戸随一と賞賛される月見の名所だった。
三人は茶室風に設(しつら)えた水辺の離れに通された。建屋の軒に提灯(ちょうちん)が架け渡され、座敷から眺めると、紅灯があわあわと川面に映えるさまは瀟洒で妖艶だった。大川を見晴らすよう障子を開け放した座敷に、川風がゆるやかに夜気を運んできた。隅に蚊やりが燻(くゆ)り、静かな時が茶亭に流れていた。
間もなく女将(おかみ)が中居を連れて挨拶にきた。年増盛りの女将は人生の歩みを色香の残り香に映じ、若い中居の匂い立つ色気と互いに引き立て合うたたずまいと見えた。女将は腰高の夏草文様の小袖を裾引きに着付け、幅広の帯で区切られた上の半身は路考茶(ろこうちゃ)の渋い色目でまとめてある。歌舞伎女形役者、二代目瀬川菊之丞、俳名路考の好んだこの色こそ、江戸の流行(はや)りの先頭を行く。民の洗練された風俗に三人は目を遣(や)った。
女将は意次を馴染みの客と遇し、贔屓(ひいき)に与(あず)かる礼を格式高く述べた。そのあと物言わず小首をかしげ、目交(めま)ぜで意次に二人の紹介を請うた。二人の身分を知ったうえは、女将が雅俗嚙み分け、過不足なく席を巧みにもてなすことを意次は知っていた。
「少し来ない間に町全体の構えがすっかり整ったようじゃ」
「すっかりご無沙汰を賜りまして。富永町とて、三日会わざれば刮目すべしの何とやらにございますよ」
「ふむ。まあ、そう言うな。御用が立て込んでおってのう」
二言、三言、意次と軽口をたたき合い、女将はわきまえて、静かに下がっていった。
「始めは人払いにしてあるから、まずは話をしておこうかの」
意次は口火を切って、二人の意見を促した。石谷は、この新地の賑わいが江戸の繁栄と民の力強さを表していると概観し、この力を育てつつ、幕府に取込む策が重要だと述べた。
川井にもとより否(いな)やの在る筈もなく、民の力を伸ばすに不可欠な低額貨幣は、すでに四文銭と南鐐二朱判が整っていると指摘した。幕府や大名が、豪商との決済に使うのは米俵と小判と銀である。これからの世では、町人の奉公口を増やし町人が食っていきやすくするのが重要で、低額通貨こそが鍵を握ると持論を展開した。
民の力を育てつつ、百姓と同様、町人にも担税力を認めて税を取る。取る以上は踏みつけにするようなことがあってはならず、悪いようにしない工夫が必要となる。三人はこれまでの合意を改めて確認した。
「幕閣、幕僚は、農の年貢に慣れてはいるが、工商への課税に不審を感じまいか」
意次の懸念に石谷も川井も意見を言った。
「貴穀賤金と肩肘(かたひじ)張って工商への課税を祖訓に悖(もと)ると考える向きは、もはや御心配に及びませぬ」
「幕府が、民業を盛んにするよう指導することにも反対の向きはございませぬ」
「つい先ごろ五年の倹約令を満了し、年貢以外の増収こそが大切だと幕僚も痛感してございます」
「お家が苦しい時に家臣たるもの、命を張り禄を返上してでもこれを援(たす)けるのが武家の習い。百姓とて苦しくとも毎年年貢を納めまする。こうして士農が国と世を支えるのだから、力をつけた工商に広く運上を負担させ、世を保つ一端に加えても罰は当たりますまい」
武家が商いに関わっていくことに、幕臣全体が納得するまで時間をかけた。これからは工商の生業(なりわい)を盛んにし、運上金をかける仕法が大切だった。年貢を取り立てるのは村からであって個々の百姓からではないように、工商の運上は同業者の株仲間を対象とするのが大方針だった。幕府に個々の民は把握できない。石谷が言った。
「これまでとは少々異なる仕法で株仲間を結成させ、これを単位に税をかけまする。株仲間に販売独占権を与えてやる代わりに、株仲間に加入するとき買わせる株の代金から冥加金を捻出させます。また株仲間全体の稼ぎ出した額を基に株仲間に運上金を払わせます」
「御用金や上納金など根拠のわかりにくい取立てはやめ、これからは課税根拠の明快な冥加金と運上金を主として徴収します」
「それでよい。詳しき手立ては吟味役ともよく話し合っておいて下され」
意次は大きな方針に同意を与え、次に石谷らの関東河岸吟味の状況を尋ねた。
「先年は百五十八の河岸(かし)を吟味いたし、残すところ六河岸です。利根川本流、烏川(からすがわ)、渡良瀬川(わたらせがわ)、鬼怒川、小貝川、江戸川、さらに霞が浦、北浦、印旛沼(いんばぬま)、荒川、新河岸川など関東一円の主要水路の河岸を網羅しました」
「昨年、奉行所は大変な多忙だったと聞く。ご苦労であった」
「はい。吟味の結果をもとに、河岸問屋に株を発行させ、運上額を定めているところです。これは未だ見込みにすぎませぬが、運上額の多そうな順に一例を申しますと、おそらく一位は烏川の倉賀野河岸で十二問屋にて計一万二千文ほど、二位は北浦の大舟津河岸で八問屋にて計八、九千文ほど、三位は渡良瀬川の北猿田河岸で三問屋にて計七、八千文ほどといった見当です。一両、銭四千文の相場で申しますと河岸全体で運上総額五、六十両と見込まれます。百両には至りませぬ。さほど大きな額ではありませぬが、元禄と比べ河岸の数はほぼ倍に増え、全てを幕府公認河岸と致しますから、新河岸と既存の河岸の争議はなくなり、円滑な舟運(ふなうん)につながります。舟運は一層、盛んになりましょう」
「今後、船問屋以外にも、いろいろの株仲間を結成させ、同じように冥加金、運上金を取って参ります。何と言っても広く薄く、多くの業種から徴収するのが肝要でございます」
「株仲間に悪(わる)いようにはせぬ。独占を認めて育て上げ、日頃から幕府の意向に沿うようにしたいものじゃ」
「手は打ってございます」
「頼むぞ」
「ははっ」
「それはさておき、白河の越中殿が中風になったとか。先月、病躯を押して参勤して参った。昨年、養子縁組を結んだ田安賢丸(まさまる)殿が、いつまでたっても白河藩邸に移ってこないのが、殊(こと)に病の身には心配じゃと掻(か)き口説(くど)かれてのう」
「ほう、それは越中守様の御心配ももっともでござる。当主が中風を病み、後嗣が藩邸に移り住まないでは、主殿頭(とのものかみ)様に泣きつきたくもなりまする。上様お声掛かりの御養子縁組が軽く見えるようで、よきことではありませぬ」
「そうよ。そこでじゃ。近く、田安家家老を異動させようと思うておる。栄転じゃ。その後、よくわかった者が田安家に入り、賢丸を傅育(ふいく)してほしいのじゃ」
石谷と川井は顔を見合わせた。いつまでも実家に居続けていい道理がないことを説得するのは、賢丸本人もさることながら、むしろ嫡母宝蓮院であることをよくわかっていた。
「肝要なことは、穏便に済ませ恨(うら)み辛(つら)みを一切残さぬことじゃ」
「はっ」
「儂(わし)は、越前に頼みたく思うておる」
「ははっ」
意次が川井に期待する意図は明確だった。将軍家御身内のことでつまらぬ揉め事は避けなければならず、一方で、有徳院の決めた定めは守らなければならない。
「もとより、勘定奉行の兼帯じゃ。越前には、これから二朱判を育て上げ、株仲間の仕法を細かく考えてもらわねばならぬでのう」
意次は、部下の能力を完全に把握し、存分に才覚を発揮させるのが己の職分であるという固い信条をこの時も守った。
石谷は穏やかな笑みを浮かべ二人のやりとりを聞いていた。意次はゆっくり頷(うなず)くと手を叩き、膳を始めるよう女将に言った。三股新地の生業(なりわい)で尋ねたいことがたくさんあった。
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