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五 両取りを指す 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 明和九年(一七七二)正月十五日、意次は老中格から老中に昇進し、五千石の加増を賜(たま)わった。五十四歳にして三万石の堂々たる大名である。しかも、側用人の職位は元通りという下命だから、表職、側職両職を極める立場になった。

 そもそも老中には、譜代大名の家に生まれたものを任命するのが幕府本来のしきたりだった。 微禄の出から才覚一本で成り上がり、側用人を勤めた柳澤吉保でも間部詮房(まなべあきふさ)でも、老中格にまでなった先例はある。そして、それまでだった。

 ――主殿頭(とのものかみ)様の老中御昇進は上様の特別の思し召しであろうよ

 前代未聞の人事は幕臣の間で窃(ひそ)かに噂され止むことがなかった。この人事だけは将軍以外にできるはずがない。意次に威信と威権を認めよと将軍が全ての幕閣、幕臣に言うに等しかった。

 

 二月二十九日 、江戸の桜はつぼみが膨らみ間もなく花開くかと人々が楽しみにしていたころだった。未(ひつじ)の刻(午後一時)、目黒行人坂に建つ大圓寺から出火した。折からの強い南西風に煽(あお)られ、火は次々と北東に燃え広がった。 

 白金、麻布、六本木、虎ノ門、桜田門まで一舐(な)めに荒れ狂った業火は、手のつけようもなく、京橋から神田一帯を焼いた火勢を駆って神田川を超え、神田明神、千住、浅草まで燃え狂った。小塚原(こづかっぱら)あたりで下火になったと思う間もなく、本郷で別の火事が発生し今度は駒込、谷中、根岸へ延焼し始めた。

 翌三十日には北風に変わって吹き戻し、常盤橋から南に大伝馬町、馬喰町(ばくろちょう)、浜町方面に広がった。月が変わって一日辰の刻(午前十時)馬喰町付近からまたぞろ出火し、東に燃え広がって日本橋一帯を焼き尽くしたころ、大雨が降り始め、さしもの大火もようやく鎮火した。江戸市中九百三十四町は、幅一里、長さ五里にわたって灰燼に帰した。

 焼死者一万四千七百人、行方不明者四千人、焼失したのは江戸城門九門、大名屋敷百六十九邸、橋梁百七十基、寺社仏閣三百八十二山の大被害をもたらした。先代家重が将軍を退くきっかけとなった大火から十二年、またもや辰年の災厄だった。

 幕閣らは火災の対応に慌ただしく迫られ、御用部屋は張り詰めた空気に満ちた。家治は、意次から多くの言上を受け、裁可を与えて慌ただしく一日を過ごした。夕刻、久しぶりに大奥に渡った。この日、ある中﨟から暇乞(いとまご)いを受けなければならなかった。

 

                             *

 

 昨年八月二十日、あっという間に倫子(ともこ)を喪(うしな)い、家治は呆然となった。突然、糸が断ち切られるような耐え難い喪失感に襲われ、胸の奥まで摺(す)り潰されるような痛みを覚えた。昼夜を問わず悲しみが押寄せ、寂しさに頭を掻きむしるほどの日々を送った。

 かつて倫子が万寿姫を生んだ後、意次の強い奨(すす)めで、やむなくお知保とお品を側に召したことがあった。二人が相次いで男児を生み期待された務めを果たしたあと、家治が二人の許に訪ねることはあっても、殆んど寝を共にしなかった。倫子の死を慰めて欲しいと、今更のように頼めた義理ではなかった。

 何らかの慰めがなければやっていけなかった。悲しみをわずかの間でも忘れさせてくれれば何でもよかった。最愛にして唯一の妻を喪った悲しみを癒(いや)すのは、結局、若い女しかないと、切羽詰まって家治が考え始めたのは、初冬になってからだった。ただ、そんな女がいるのか少しも自信を持てなかった。

 家治の後宮は、事実上、倫子一人だったから、新たに適当な中﨟を選びたいと、大奥御年寄筆頭、松島に頼むと、数日後、候補の中﨟を言上に来た。

 その中﨟は名をおとみといった。父は岩本内膳正(ないぜんのかみ)正利、西之丸目付である。 祖父は正房(まさふさ)。吉宗に扈従(こじゅう)して紀伊藩士から幕臣となった家系だった。

「祖父の正房様は、相良侍従さまの御父君と同じ日に有徳院様のお小姓になられた方にございまする」

「ほう、意次の父と共に仕えた者の孫娘と申すか」

 松島は、田沼家と岩本家は家族ぐるみの親しい付き合いだと付け加えた。

「上様に親しくお仕え申し上げる側女には、何よりの御家柄かと存じ上げます」

 松島は家治の顔を見据え、おとみの家系をよどみなく語った。母は大奥老女梅田の養女となった御女中で、大奥を退き岩本正利に嫁いだ。正利の姉妹も大奥に勤めたことがあり、おとみは、母や伯母から大奥勤めの話を聞いて育ったらしい。

 明和元年、おとみは意次の口利きを得て、 十二、三の 頃に大奥に上がり、年を経て御中﨟になった。色香が立っても家治の目に止まることなく、今日に至ったという。松島は、おとみの気立てのよさ、ゆったりとした受け答えを一齣(ひとくさり)(ほ)め上げ、最後にこう言った。

「さほど﨟長(ろうた)けた風情ではござりませぬが、上様の今のお気持ちにしっとりと寄り添い奉る中﨟かと存じます」

 家治は吉宗の訓(おし)えを受け継ぎ、女子(おなご)の見目の良し悪しを言ってはならぬと己を律してきた。倫子があれほどの美貌だったから、訓(おし)えを守るといっても、どう守るか余り意味あることではなかった。だから、よほどの例外を除き、倫子一人をひたすら守った。

 松島が、さり気なくこう言った背景を思うと、あれほどの美貌のお品さえ大切になさらなかった上様ですもの、という皮肉を感じた。これまで見目よき中﨟に眼もくれずにきたから、急に言われても候補を上げるのがむずかしかったのであろうと思った。

「よかろう。よしなに計らえ」

 家治はあれこれ言わず了解した。倫子を喪った傷心を慰めるには、見目麗(うるわ)しくなくとも、いやむしろ、そのほうがよいと思った。

 

 家治がお富に慰められたのは、初めの頃だけだった。お富と寝を共にしても、倫子がいかにかけがいのない妻だったか、却って実感することが多くなった。お富を召す日が間遠くなった頃、家治は奇妙な申し出を受けた。一橋治済(はるさだ)からだった。

 何を思ったか、お富を申し受けたいと言ってきた。お手付の中﨟であることを知らぬ筈はなかった。しかるべき筋を通した話だったが、厚顔な願いとも、無恥な望みとも思えた。

 会ったこともなかろうにと、従兄弟(いとこ)の懇望を訝(いぶか)しんで数日間考え、さっぱりと許すことに決めた。何かほっとする気分になった。そうしたいきさつがあって、今宵は、お富と会う最後の時となる。

 ――お富にこれまでの労をねぎらい、治済の許で幸せになるよう言ってやらねばなるまい

 明日より、意次から大火後始末の方策を聞いて、是が非でも政務に励もうと決めた。悲しみを忘れ、拭(ぬぐ)い去るには、結局、それしかないと思い知った。

 

                              *

 

 一橋治済(はるさだ)は、昨年末、家老田沼意誠(おきのぶ)と話を交わしてからというもの、不安を抱えて日々を過ごしていた。意誠がひどく気になることを語ったからである。

 田安家七男賢丸(まさまる)の出来が大層よくて、幼くしてたおやかな和歌を詠(よ)み、剣、弓、槍、馬は、大家(たいか)について上達著しいなど、幕臣の一部に噂が高まっているという。書は一筆ごとに豪宕な気魄が凝(こ)って風韻は 獅子吼(ししく)に似るとまで言う幕臣もあるとか。

 幼少より読書に親しみ、「孝経」「大學」を読み終えただけでは飽き足らず「自教鑑(じきょうかがみ)」と題する自著を物して、人倫の道や君主の心得を自ら省(かえり)みる縁(よすが)としているらしい。田安宗武は、生前、十二歳になる我が息子から「自教鑑」の浄書を受け取って大仰に喜び、褒美(ほうび)に「史記」を遣(つか)わしたと聞いた。

 ――なんという小面憎(こづらにく)い童(わっぱ)じゃ

 治済は七歳違いの従兄弟(いとこ)があまりに猪口才(ちょこざい)で、それを伝えた意誠に思わず舌打ちしてしまったことを思い出した。治済はいずれの武術も好まず、学問などは大の嫌いだから、為(し)たり顔で自戒などを唱える体(てい)の輩(やから)はひどく気に障(さわ)る。ましてや、わかりもせぬ小童(こわっぱ)がそれらしく書き記(しる)すなど、思っただけで虫酸(むしず)が走った。

 それだけではない。意誠の話では、その同母妹の種姫は竹千代の三歳違いという話がしばしば人の口端(くちのは)に上るという。なぜ竹千代と年を引き比べるのか、と意誠に訊ねたところ、思いもかけない答えが返ってきた。

「ごく内々の話にございますが、御縁談を思い巡らす向きもあるとか、ないとか……」

 意誠の返答を聞いた時、どんっと胸を突かれ、思わぬところから攻め込まれた気がした。

 ――そうか、その手があったか。田安にも世巧者(よごうしゃ)はおると見える

 意誠と話を終え、居室に戻ったのちも考えごとに耽(ふけ)った。人払いしておいたため、気付いたときは座敷に夕陽が斜めに差し込んでいた。手炙(あぶ)りの炭が白く、長いときが経ったことに気が付いた。

 治済にとって、意誠の話が頭の片隅にひっかかり、思い出す度、必ず危機を覚えた。田安か一橋か、いずれの家であっても幕府によって、継嗣候補の兄弟をみな養子に出され、当主が絶えたころ明屋敷(あきやしき)にされるのではないかと、思った。治済の見るところ、幕府は、田安、一橋、いずれか一家で十分、二家では多すぎると考えているに違いない。

 治済は、一橋家が生き延びなければならないと幼いころから念じてきた。長兄が養子にだされ養家で若くして死ぬと、その後釜に次兄が養子に出され、次の養子は己(おのれ)かと怯(おび)えたが、結局、弟が選ばれ福岡藩に迎えられていった。

 己が一橋家の当主になりはしたが、安泰でいられる保証はない。二十歳を過ぎてなお、養子にだされかねぬ。一橋を明屋敷にすれば十万石を収公でき、幕府にとって悪くない話であろう。

 田安では昨年、宗武が亡くなり順当に治察(はるあき)が家督を継いだ。治察は世に知れた病弱者(びょうじゃくもの)だから、幕府はおそらく、治察が子をなさず若死(わかじ)にすることさえ織り込んでいるのではないか。その後に立つ賢丸(まさまる)が幼くして秀才の誉れ高く、しかも同母妹が将軍世子に嫁ぐことになれば、どうなるか。間違いなく田安が選ばれ、一橋が明屋敷にされる。

 ――たとえ、儂(わし)が一橋に居って幾人もの息子を儲けたとしても、片端(かたっぱし)から養子にだされ我が家に世継ぎは残るまい

 何か、己から手を打たなければ、追い落とされると奥歯を噛みしめ、治済は焦った。明和九年の正月も例年通り慶酒賀肴を前にしたが、少しも心浮かなかったと思った。

 ――あの家治が御台所を亡くし、悄然たる思いで正月を迎えるよりは、まだましか

 治済は堂々たる将軍となった従兄弟(いとこ)に悔(くや)し紛(まぎ)れの悪態を呟(つぶや)き、幾日も考え続けた。田安から抜きんでる方法、田安を突き放す手立てはないかと苛立ったが、良案はまとまらなかった。

 意誠に相談しようと思ったこともあったが、この種の話では、意誠と意次の間柄が近い分、怖さがあった。意次は、田安でも一橋でも、明屋敷にしたがっている当の本人かもしれない。しかも、神田橋御門の道をはさんで向かいの屋敷に住み、その方角から不図(ふと)、言いようのない圧迫感を覚える相手だった。

 策が立てられないなら、せめて関係者の様子を掴(つか)んでおかなくてはならないと思った。田安や田沼とは、それなりの交際があるから、おおよそのことはわかる。

 そう考えたとき、将軍世子の身近な様子は全くわからないことに気付いた。家基はまだ十一歳の子供だが、どんな子供か知っておくべき年に達したのではないか、治済はそう思い立ち早速、小姓に命じ、西之丸に詰める主だった者を洗い出させた。

 一橋家との縁故が重要だった。数日後、小姓の作ってきた書付には、数名の者が上げられていた。その冒頭は、岩本内膳正(ないぜんのかみ)正利なる者で、西之丸目付とあった。 

 正利の末弟正信は、刑部卿宗尹卿に仕え、永く一橋家の家臣たり、と注記されてあった。治済は言われるまでもなく、よく知っている。正利自身は一時、田安に勤仕したが、一橋に仕えたことはない。忠義の心は一橋より田安に強く持っているだろうことは含んでおかなくてはならなかった。

 正信に、そのほうの兄と会いたいと仲介を頼んで正利に会っても意味をなさない。正利にどのような近づき方があるか、日々、考えを巡らせていた頃、かつて縁あって、今は大奥に仕える奥女中が屋敷に来訪した。治済は年始の挨拶を受けた。

 治済は、奥女中となにくれない世間話を交わし、時折、可笑しそうに笑い声まであげてもてなしてやった。奥女中の心をやわらげた頃合いを計(はか)って、それとなく将軍の近況を訊ねた。

 そして、最近、お富なる中﨟が御側に上がったことを知った。父は、と聞いて、岩本内膳正様と答えが返ってきたときは、何気ない表情を保つため一息止めなければならなかった。

 やがて大奥女中は治済ににこやかに応対してもらったと喜んで帰っていった。奥女中が下がってから、治済はお富の価値を考えた。

 ――容貌は中の下というところらしい。教養は特段のことなく、気立てはいいと云う。どう好意的に考えてみても、家治の御手付というほかは、まあ、並みの女じゃ

 正利の価値はどうか。西之丸目付だから家基の日常を熟知し、もし将軍世子に見るべき才質があるのならば、それを実見する機会に恵まれているに違いない。この者から日々、西之丸の様子を聞きたいものだと思った。

 聞くだけではつまらない。この者を手懐(てなず)け、家基が一橋家に親しみを覚えるよう、長きにわたって、あれこれ吹き込ませる策もいいと思った。治済には、間違いなく、正利を手懐ける方法があった。

 ――いっそ、ずけりと、家治にお富を所望してみるか

 家治がこの奇手にどう返答するか。それを見れば、家治が一橋をどうみているか、わかるというものだった。案外、すんなり呉れるかもしれない。それなら、しめたものではないか。

 ――岩本正利は、儂(わし)の側女の父となれば何なりと儂の願いを聴くだろう。家治は簡単に側女を人手に渡した男。いずれが頼もしき男か明白であろう

 家治に断られたら、それはその時である。特に失うものはない。家治の断りの返答は、それはそれで貴重な消息だろう。いずれを得ても、損はない。

 ――家治は将棋を好むと聞く。強くはあっても、儂(わし)の指す手が、桂馬ふんどしで金か銀の両取りを狙う手筋だとは気づくまい

 治済の生臭い思案はいつまでも終わらなかった。

 

佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第三章「栴檀の棘」五節「両取りを指す」(無料公開版)

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