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十一 あと継ぐ者たち 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 事件後数日にして、英国公使ラザフォード・オールコックは安藤から会いたいと連絡を受けた。安藤は負傷の身で、頭に包帯を巻いた姿で座敷に出てきた。安藤は、すでに開港した横浜、長崎、箱館、下田に加え、新たに兵庫、新潟を開港し、江戸、大坂の町を開くという条約の実行について、国内世論の動向を説いて最後に言った。

「新たな開港をもう少し待ってはもらえまいか……」

 切々と延期を願う負傷した姿にオールコックは心を動かされた。安藤によれば、開港の時期を遅らせることが、開国に強く反対を唱える天皇に向けた幕府の精一杯の誠意であり、ひいては、今後、安藤を狙ったような暗殺の企てが減ることにつながるという。

 これまで多くの老中は、幕府の権威を損なうまいとする余り、尊大な態度で外国公使と接するきらいがあった。安藤は、これではならぬとばかりに、言葉使い、書状の書きぶりまで改め、真の外交にふさわしく相互礼遇の堂々たる対等の形式に変えた。この件で外国公使たちは高く安藤を評価していた。

 オールコックもそうだった。安藤と何度も激しい応酬を繰り広げたが、「個人的な関係は常に友誼的だった」と自伝に書いたように、安藤に温かい気持ちを抱いていた。

 オールコックは交渉の場で開港延期を断固拒否してもよかったが、条約に直接関わるこうした大きな問題に公使の権限で諾否を言える立場にないことを説明した。オールコックは、いっそ幕府から交渉団を派遣し英国外務省に直接掛け合えばどうかと助言した。米国が迎えた日本の使節団を英国でも受け入れたいと本国が望んでいることを伝え、巧みに提案した。

 安藤が、すんでのところで死にかけ、傷の癒えないうちから国を憂えて訴える気迫がオールコックの胸に迫った。オールコックは自らも英国に帰り、幕府の使節を母国において側面から助けると約束した。

 オールコックなりの最大限の好意であり、安藤と培った互いの信頼に応えようと一歩踏み込んだ提案だった。包帯姿で懸命に幕府を支え続ける安藤に、なにかいいことをしてやりたいと思う気持ちだった。

 安藤は、米総領事タウンゼント・ハリスに妾を世話したと噂され、一部では、堅く信じられ、攘夷の者たちの憎しみを倍増させたと聞く。事件後、旬日を経ずに出回った落首はひどい冷笑に満ちているらしい。

 

     届け書は 井伊の写しで間に合はせ
 

     首はある などと供方(ともかた)自慢をし

 

 オールコックの聞くところ、安藤は、二年前の井伊大老暗殺の二番煎じの如(ごと)き言い様で嘲笑され噂されているという。これでは人望を繋ぐことが難しくなるかもしれないと、安藤を気の毒に思った。安藤は襲撃されて頭部と背部に浅手を負ったにすぎないが、政治生命を殺されたのかもしれないとオールコックは懸念した。

​ ――この国の人材のもったいなさと言ったらない

 オールコックは、安藤がこれまで外交の世界で欧米公使から高い評価を受け、そうであればこそ国内ではひどく評判が悪いことを知っている。欧米外交官と条理を踏まえて交渉できるという日本に稀有の能力こそが、外国人と親しみ国を売る男の証拠だと考える輩がうようよといた。日本はいまだ欧米とは全く逆の価値観が横行する国だとオールコックは残念だった。

 

 三月に入って、安藤は久世と相談し、辞職のやむなきに至ったと判断した。井伊大老亡き後を受けて二年間、安藤、久世は凋落する幕威を懸命に担い、なんとか幕府の回復を図ってきた。

 井伊大老が討たれ政権をひきついでから、二人は朝廷の威権を借りて、堕ちた幕威を立て直す策を取った。天皇の妹、和宮を将軍家茂の正室に迎え、天皇家との親類関係の上に、幕府の権威を維持することを考えた。

 公武一和といわれる策は、尊王攘夷を唱える一部の勢力から強く反発を買い、皇妹を幕府の人質に取るのかと囂囂(ごうごう)たる非難が沸き起こった。ついには坂下門外の変が起きた。

 安藤の図抜けた実務能力と久世の世故たけた老練さもこの辺りが限界だった。安藤は、もう老中を続けられないと悟り、久世も自信を失った。もはやこれまで、と安藤と久世は幕を引くため後継幕閣の選定に入った。

 三月十五日、旧任の老中を退け、同日、水野和泉守忠(ただきよ)と板倉周防守勝(かつきよ)を新たに老中に任命して新政権の骨組みを整えた。いずれも井伊大老と関わりがうすいか、反対の立場だったことがこの人事の要だった。四月十一日、安藤は、幕府が新たな主導者を得て動き出したのを見て辞職した。

 

 久世広周に選ばれた水野忠精は、水野忠邦の嗣子である。忠邦の無惨な失脚のため、忠精は、温暖肥沃の浜松から山形五万石に転封となり一万石を減封された。

 天保の改革の厳しい政治状況下、水野忠邦は阿部正弘とせめぎあい、ついに老中罷免に追いやられ、阿部が老中に就任した。それなりの権力闘争はあったものの、あの天保の頃が旧(ふる)き良き時代だったと思いたくなるほど、昨今の政治状況は苛烈を極める。そんな時期、忠精が父親の失脚後十七年を経て老中になるのもめぐり合わせのようだった。

 忠精は父親と違って、決めたことを貫き通す意志がさほど強くはないようだった。少なくとも、父親のあくの強さはなく、その分は人当たりのよさで置き換わっていた。持ち重りのする幕権を我が手に握りしめることを怖がっているように見えることがあった。

 一方の板倉勝静は桑名藩主の八男から板倉家に養子に入って備中松山藩五万石の藩主を継いだ。勝静は寛政の改革を強行し辞職のやむなきに至った松平定信の孫に当たり、改革を担って挫折した老中の子か孫かという点で忠精と似ていた。

 板倉本人は抜きん出た秀才、具眼の士と言われる。これはと見込んで豪農出身の山田方谷(ほうこく)を抜擢し、借財に喘(あえ)ぐ藩財政の立て直しを担当させて十万両を藩庫に蓄えた名君だった。方谷も偉ければ、板倉も大度でその献策をよく容れ、明君賢臣で有名な藩だった。

 板倉は、安政の大獄で吟味役の一人として、井伊大老を怖れるでもなく捕縛者に寛大な処分を主張し、井伊から即座に奏者番と寺社奉行を罷免された経歴を持っている。硬骨である。ただ、惜しむらく、封は五万石に過ぎず、井伊ほどの重量感に欠けることは如何ともしがたい。幕府は、剛毅果断をもって大政を専権した井伊大老を桜田門外に失い、その後を引き継ぐ剛腹な老中を持たなかった。よい一面もあったが、力強い指導力に欠けるきらいがあった。

 板倉は井伊に退けられた大名の一人だから、井伊と真っ向から対立する政治理念で、新たに幕政を運営してくれるだろうと、久世は期待した。井伊の政策がここまで憎しみと混乱を招いた以上、後継の幕閣は、井伊の全てを否定するほかないはずである。それが久世の幕引きの構想だった。

 それだけでない。井伊の生前から、多くの有能な幕吏、幕僚は、将軍家定の世子に一橋慶喜を推したことを理由に井伊から罷免され、この時期、実務を取れる有能な人材はほとんど払底した。幕政を助けられる敏腕な人材を見出すのも水野、板倉に寄せる期待だった。

 もともと久世は水戸の斉昭と親しく、井伊嫌いだったから、水野、板倉によって次期幕閣の骨組みを立てたのちは、喜んで、静かに幕府を去るつもりだった。

 水野、板倉の老中就任以降、翌月四月にかけて、一橋慶喜、越前の松平慶永(春嶽)、土佐の山内豊(とよしげ)(容堂)、尾張の松平慶勝の四人に、他人面会、書信往復の禁が解かれた。井伊から謹慎、蟄居を言い渡され押し込められて四年ぶりのことだった。

 ついで五月三日、容保に政務に参加し政務書類を披見するよう命が下った。容保が桜田門外の変の直後に見せた高度な仲裁能力と、その一年後、計ったような機微で水戸に勅書返納を説得した宥和的な調整手法が評価されたためだった。

 穏やかに物事を収めるこつのようなものを知る若き政治家は時勢の要請に合致した。会津松平家は将軍家の家門の一つに数えられ、家格が高すぎて老中に任命できない。容保の場合、幕府の人事体系の中で名誉職以外、すぐさま適職を探すことが難しかった。近く、正式の御役を与えるという幕府の含みは誰の目にも明らかだった。

 これまでのように溜間詰の高みから幕政をゆるやかに見ていれば済むことではなく、老中とともに直接、政治の責を担うのである。もう、将軍の身内として飄々と功を人に譲る立場は許されない。会津の力がどのように将軍(だんな)のお役に立つのか、幕僚の眼は容保に集まった。

 その四日後、今度は松平慶永に、同じように政務に参加するよう命が下った。さらに、隠居を強いられた尾張大納言慶勝、一橋刑部卿慶喜に登城せよと通知があり将軍の謁見があった。

 井伊に処罰された人材が続々と復活し始めた。井伊の一派を退け、安政の大獄で処分された人々を宥許することによって、幕府の人事をがらりと変え、公武一和の前提条件を満たそうとする動きだった。

 幕府新体制は井伊を否定するあまり、ややもすれば、井伊の悪政を謝罪するという気分を強く引きずっていた。井伊を全て否定し清算する政策を採るということは、幕府の上に朝廷を位置付け、朝廷のもつ権威と人望にすがってなんとか幕府の力を回復したいという願望を内包していた。

 いつの日か、少なくとも朝廷と対等にまで幕威を回復できるのか、誰にもわからなかった。ただ、もはや勅諚に逆らえないことだけは皆が知っていた。

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第一章「楓の記憶-容保」十一節「あと継ぐ者たち」(無料公開版)



 

 




 

十二 徒手空拳の壮図 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 安政七年(一八六〇)三月、井伊が桜田門外で首を討たれたと知ったとき、諸藩の有識者は、このままでは幕府が立ち行かないと感じた。幕威がここまで屈辱に塗(まみ)れ今後どうするのか、外国からさらに突きつけられる開国要求にどう立ち向かうのか、模索し新しい構想を練り始めた。薩摩藩の国父、島津久光も、そんな一人だった。

 久光は、先代藩主斉(なりあきら)の秘策を今一度、思い返してみた。薩摩の精鋭を率いて京都に赴き、朝廷から幕府を改革せよとの勅書を得る。それを携え、江戸に乗込むことが兄、斉彬の構想だった。強引であっても幕政改革を目指し、勅書と薩摩の藩兵を以って井伊大老と政治的に対決しようと計画したことを久光は知っている。

 安政五年(一八五八)七月、国許で上洛の準備を終えたころ、斉彬が壮図虚しく逝ったことは、今もって胸の痛む記憶だった。虎列剌(コレラ)による突然の死だった。久光は兄の構想を受け継ぎたいと足擦りするような思いを持ち、この国の混乱を取鎮めて薩摩の名を高からしめんと、今なお兄を渇仰(かつごう)していた。

 かつて次期藩主の座を巡って、久光を担いで斉彬に対抗し藩内を二つに割ったお家騒動があった。家臣は二つに割れて激しく対立したものの、担がれた当の久光が斉彬に悪い感情を抱くことは特になく、 久光は兄斉彬を尊敬していた。ただ兄に、壮図を弟に託す気がなかったことを思い知らされた。臨終にあたり、久光は斉彬からこう遺言された。

「御辺の子忠義を継嗣とし、封を継がしめよ」

 斉彬は甥の忠義を藩主に据えるよう指示し、久光にはその補佐をせよと言うに留めた。

 ――藩主になってはならぬ

 と言われたようなものだった。この時、忠義十九歳、久光四十二歳。久光に藩主を継がせなかったのが斉彬公の最後の智恵だったという家中の噂を悔しく聞いた。

 安政六年(一八五九)秋、先々代藩主で斉彬、久光兄弟の父斉興が死んだ。久光は、父の差出口を聞かずに済むようになり、藩主の父、国父という曖昧な立場で藩政を仕切る機会を得た。

 そうこうしているうちに、安政七年、井伊大老が桜田門外で暗殺されたと報らされた。

「井伊ん首討ったんな、なんと我が藩ん若(にせ)じゃっちゅうじゃらせんか」

 国許では、血気の若侍が井伊を討つため脱藩用の鰹舟まで用意して待機していたのを久光がようやくの説得で抑えた直後のことだった。ただ、遠く江戸藩邸の若侍までは止められなかった。久光は無念の思いで奥歯を噛みしめた。薩摩藩士が藩主の意向を聞かずこのようなことをしていい筈がなかった。

 久光は井伊暗殺の事を聞いて、兄の構想をすぐさま思い起こした。兄が藩兵を率い、江戸に出向いて幕政改革を迫るはずの当の相手が井伊大老だった。兄にしても、勅書と藩兵の二つを背負わなければ井伊ほどの大物を相手に幕政改革を建策できるとは考えなかったことを久光はよく知っている。

 ところが、今や相手は久世大和守と安藤対馬守の両老中であり、その足元もかなり危ういと聞く。井伊大老相手の交渉は兄にできても自分にはできないと怯(ひる)むものを感じたが、井伊政権を継承した二人の老中相手なら、あるいは自分にも何かできると淡い望みを持った。兄の構想を己の構想に変転できると思った。

 久光は若い頃、重富島津家の養子となり一門に連なってあくまで臣下として過ごした。家中では、相当に優秀で剛胆であると言われた。ただ、斉彬が世子として江戸に成長した経歴と全く異なり、久光は常に国許で育ち江戸に出たことがない。

 ――兄さは若かころ薩摩藩世子やったで江戸ん大名たちと多くん人脈を培い、広か視野を持ったに違いなか

 だから、あのような大きな構想を立てられたのだと思った。久光は藩主学を学ぶ機会に恵まれなかった己の立場が口惜しかった。

 あちらが立てばこちらが立たない昨今の政治状況で、正論と甘言を使い分け、寛猛両面の処置でことを進める幕藩政治の調整能力が久光の身に具わるはずがなかった。

 それだけでない。当然のことながら江戸弁が使えなかった。世子を経て予定どおり藩主になった大名は幼少より江戸藩邸で暮らすため、江戸弁武家言葉こそが己の言葉である。これが話せれば、大名同士、それぞれのお国訛りの煩わしさから解放され、本当に言葉までも同じ仲間意識が生まれて人脈の広がるよさがある。

 当然、斉彬も綺麗な江戸弁武家言葉を母語として話した。かつて斉彬が二十七歳で初めて国入りしたとき、努めてお国訛りを使うよう気を使ったが、どこかぎこちなく家臣のほうがかえって恐縮した。

「無理(むい)してお国言葉(こっぱ)を使(つこ)わじいただきとう存じもす」

 こんな声が家臣から上がったものだった。

 領国と言っても、世子が成人して初めて足を踏み入れるところで、国許の家臣とは言葉さえも異なるのが普通である。江戸弁武家言葉は、江戸で大名が交流し微妙な真意を互いに伝え合うには重要で、まして、交渉、密談、密謀には不可欠だった。

 久光は、己が江戸で幕政改革を交渉する事態を想定してあれこれ慎重に考えた。己は藩主でない、官位がない、江戸城に登城する資格がない、朝廷に人脈がない、江戸に人脈がない、政治を構想し主導した経験がない、統治実績がないと重大な負の要素を数え挙げ、斉彬の構想を自分が継承できるか吟味した。

 ただ、江戸弁ができないことは数え挙げなかった。実は、これが特に重要で、久光の交渉が薩南の地言葉でなされるなら無用の摩擦と誤解を相手に与えるかもしれないとまでは気付かなかった。

 久光は、斉彬に備わった無形の強みを何一つもたないまま、それを知ったうえで京都に乗込み、縁戚の近衞家を足がかりに朝廷工作に取り組んだ。相当の度胸である。

 久光が近衞から洩れ聞いたところ、帝(みかど)は、井伊の死によって鎖国に立ち戻り、醜夷をこの国に容れるような恥を青史に残さずに済むと素直に喜んでおいでだとのことだった。それでいて、帝は幕府と友好的にやっていくことを心底お望みになられ、力強い佐幕派にあらせられるとも聞いた。

 帝におかれては、堀田正睦、間部(まなべ)(​あきかつ)、井伊直弼のような老中、大老は好かないが、焼け落ちた御所を丁寧に再建してくれた阿部正弘のような老中なら大歓迎なのだろうと思った。久光は天皇が幕府を好いておられることを聞いて喜んだ。

 ただ、心配もあった。天皇の心の機微をよく知った野心的な公卿は、一歩踏み込んで朝廷が外交政策を主導するいい機会だとよからぬことを策動していると聞く。政治とその恐ろしさを知らず、ただ政権を握ってみたいと漠然と夢見る未熟な公卿があれこれ画策する気運が高まっている。

 尊王攘夷を声高に主張する諸藩の志士たちにとって、これら公卿は格好の遊説先となって、攘夷論のもとに先鋭化した公卿と志士の強い連帯ができ始めているらしい。連帯の行き着く先は倒幕なのかもしれない。

 久光は京都の攘夷志士たちの動向を探らせ、薩摩の誠忠組尊王激派が幕府寄りの関白九条尚(ひさただ)と京都所司代酒井忠義(​ただあき)の暗殺計画を練っていることを知って激怒した。この輩を上意討ちに処断して京都の町中を震撼させた。家臣に好き勝手な振舞を許す気は毛頭なかった。

 紆余曲折を経て、朝廷から公武一和を目指す同意を得られた。幕政改革を迫る勅使として、三位左衛門督(さえもんのかみ)大原重(しげのり)を江戸に派遣すると朝廷に決意させるに至った。残るは勅書を以て幕府に改革を迫ることである。

 文久二年(一八六二)六月七日、久光は勅使の護衛という立場を得て、江戸に意気軒昂、勇躍して乗込んできた。時代の潮流が味方したとも言えるが、よくぞここまで成し遂げたものだった。

 朝廷と久光が練り上げた幕政改革案とは、将軍が上洛し国事を議定するか、雄藩を幕政に参加させるか、一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永(春嶽)を大老に据えるか、三案のうちいずれか一案をとるよう迫るものだった。

 六月十日、勅使大原重徳は白書院にて将軍家茂に拝謁し勅旨として三案を伝えた。この日、大原は慣例を無視し帯刀のまま強硬に登城した。勅使の接遇形式を改めさせようとあらかじめ決めておいた行動を取って、幕吏の渋い顔を尻目に朝廷の威を見せ付けた。

 老中らは、三案からなる勅旨のどの一条も受入れにくいと返答した。最後の案でさえ、一橋慶喜と松平春嶽において、いまだ謹慎が解けず、解けたとしても御三卿、御家門には政治を執る職に就かせないのが幕府の原則だからだった。

 ついで三日後、大原は再度、登城し、老中脇坂安(やすおり)、板倉勝静に決答を求めた。久光は藩主でないため登城する訳にいかず、脇坂と私的に会って勅旨を受諾するよう薩摩弁で説いた。脇坂は播磨の龍野藩主で、薩摩地言葉をよく解すという評判など特になく、どこまで理解したかわからなかった。

 

 さらに五日後、大原は三度登城し、脇坂、板倉に勅旨実行を厳しく迫った。ついに老中らは折れ、春嶽を政事総裁職に就けることに同意したが、一橋慶喜の将軍後見職就任は拒否した。大原が三度、久光が一度掛け合い、それでも薩摩の提案は半分しか叶いそうになかった。

 不十分と見た久光と大原は、さらに強引に老中に働きかけた。大原は城中の公式な談判を避け、脇坂と板倉を和田倉御門外、辰の口前に建つ伝奏屋敷に呼寄せた。そこで談判を仕掛け、幕政改革を迫った。隣室には襖(ふすま)越しに薩摩武士を伏せ、鯉口を切る音をわざと聞かせて無言の圧力をかけた。まともな交渉ではなかった。

 久光の遣り口は田舎じみて強引で噴飯ものだった。斉彬が見たら何と言うかわかったものではなかった。斉彬に具わった資質を持たない以上、久光にとって、このようなやり方を取らざるをえないのかもしれなかった。

 老中にすれば、こうしたやり方に付き合わされ、たまったものではなかった。刺客が襖を蹴破って飛び出すかもしれない状況に辟易して、恫喝に満ちた勅使の提案をいやいや受けた。老中が襲われるのは、幕威のためにも、もう御免蒙りたいと思うのは当たり前だった。

 久光と大原は、さらに念を入れ強面(こわもて)の薩摩藩士に内桜田門外を徘徊させた。ただ歩き回っただけだった。この門は和田倉門御門内の下馬北側にあって、半年前に老中安藤信正が襲撃された坂下門の隣門だったため、幕府にその記憶をまざまざと呼び起こした。

 幕府は玄関先をいいように踏み荒らされ、それだけで辟易し腰が砕けた。この時、徘徊した薩摩藩士の一人が、井伊大老の首を討った大兵の若侍の実兄だった。 この人選は薩摩藩の質(たち)の悪い冗談のようでもあったが、冗談とは限らなかった。幕閣が知れば卒倒しかねなかった。

 結局、文久二年(一八六二)六月中、幕府は脅されながら、松平春嶽と一橋慶喜を幕政に登用し勅旨に従うことを約束した。いやいやに、だった。京都では、幕府寄りの九条尚(ひさただ)が関白を罷免され、島津家縁戚の近衛忠熙(ただひろ)が後任となった。久光の狙いが着々と実現した。

 これは勅旨に事寄せた故島津斉彬の幕府改革案で、久光が引継いだ構想だった。久光は斉彬の墓前に何かを供えるような気分になった。自らの推薦で、関白の近衛忠熙、将軍後見職の一橋慶喜、大老の松平春嶽の三人が登用されるのだから、薩摩藩の構想実現の強い足がかりになってくれるだろうと久光は速断した。

 久光の構想では、春嶽と慶喜が天皇に働きかけ開国に勅許をもらい、国内の政治勢力を通商に向けて結集し、日本が打って一丸となる。開国を断行して、諸藩がこぞって西洋技術を取り入れ貿易に励む。儲けた金で国力と武力を蓄える。されば日本は、不当な外圧を跳ね返す強い国に生まれ変わり世界に雄飛するであろう。久光は兄の描いた輝かしい未来を漠然と考えた。

 ――かかっ世ん中になれば、我が藩も当然、貿易ん利益に与(あづか)っじゃろ

 ――そん金で精強な西洋式薩摩軍を整ゆっとじゃ

 ――政治的に打って一丸となっ以上は、譜代も外様もなか。天皇ん許に将軍後見職を中心とした列侯会議を招集し、見識あっ大名が参列して公論で国策を決すっ国にすっ

 斉彬が思い描いた薩摩の政治参加が実現するだろうと久光は明るく未来を思った。

 この時点で、天皇は攘夷を決して譲らず、天皇を仰ぐなら開国は不可、貿易は不可、金を得られず国力増強も現実的に不可、外国の恫喝を振り払う武力整備も不可となってしまう。こうした情況に、久光はどこまで深刻になるべきか、よくわかっていなかった。

 ――帝や上級公卿は、井伊が死んで開国方針を攘夷に転換する好機が来たと御覧らしい

 久光は京都で初めて知った。天皇の許で開かれた公卿会議で、公論によって結んだ条約を破棄し、再び堂々と国を閉ざし、国是を決し、夷狄(いてき)を打ち攘(はら)い、汚(けが)らわしい醜夷から穢(けが)れなき国土を護るよう話し合われたと聞いた。京都の過激な思想を久光なりに気にかけてきた。

 こうした構想を実現するには、幕府にも、朝廷にも改革が必要であろう。国を閉ざせば、護ろうにも国は護れないという理(ことわり)が公卿に理解されないことが心配だった。ただ、久光は開国派、攘夷派いずれの構想も幻想にすぎないとまでは思っていない。

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第一章「楓の記憶-容保」十二節「徒手空拳の壮図」(無料公開版)

十三 玉玲瓏 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 幕閣が大原とけわしい交渉を行うなか、容保はその動きを冷静に見つめていた。横山と忌憚(きたん)のない意見を交わしたくなって、容保は、早朝、上屋敷の池畔にて会おうと横に伝えておいた。今は、蓮の花の季節である。混乱した政事の現状を整理するには、涼しい夏の早朝、池に咲く大輪の花が助けになるかもしれない。

 容保が池畔の四阿(あずまや)に着くと、横山は蓮の花を眺めていた。水面からすっくと伸びた茎の先端に薄紅やら白やら、一尺にもなる大輪が花弁を存分に開き、優雅に咲き誇っている。時折、蓮の葉の間から錦鯉の鮮やかな魚体が見え隠れした。平仄の合う主従は、しばらく、池を眺め静かな時を持った。

「勅使の大原三位は、かなり強引な交渉を幕閣にしかけてきたと伺いましたが……」

 容保は、横山から切り出した時局論に、じっと考えてから口を開いた。

「春嶽殿の登用はまだしも呑めるが、一橋殿の将軍後見職には幕閣でも反対が強(つよ)うての。なんと言っても御生家の水戸学を学ばれた御方。将軍よりは帝(みかど)をこそ大切になされるのでは、と疑う者もおるようじゃ」

 容保は、将軍後見職になった一橋を介して実父の斉昭が政事に口を出す懸念が幕閣の間で強いとは口にしなかった。

 幕府が井伊を失ったあと、安藤、久世がかろうじて幕府を維持してきた体制が先ごろ終わり、板倉、水野の新体制が必死に方向を模索している苦衷をぼそぼそ語った。横山も知り尽くした話を重ねてするのが目的ではない。容保が自らの口で語ることで己の頭を整理し、横山はその触媒になるのがこの主従のやりかただった。

 容保の語りは、幕府の方針だけにとどまらず、京都の政情にも及んだ。これまで幕府寄りの関白九条尚忠が職を辞し近衛忠熙に代ったこと、京都所司代酒井忠義を罷免せざるをえなかったことなどを語って、考えを重ねて整理した。

 九条、酒井ともそれぞれの立場で、井伊の政策を京都で支えたが、余りの不評に、辞職を余儀なくされた。井伊直弼という巨魁が、ある日、突然いなくなって、その空白に余波と反動が大きく起こっている。この窮地を幕府はどのような策で乗り越えるのか。容保は悩んでいた。

 ふと容保が池を覗き込むと、朝露が丸々とした水滴となって蓮の葉に宿っていた。顔を正(ただ)しく映すかと思えるほど玲瓏、清冽な大きな玉を見て、容保は父の訓えを思い出した気がした。

 ――これほど錯綜した局面に通用する机上の策はなかろう。立ち向かうには、相手の心を正しく受けて、誠心誠意を尽くすことではないか

 容保は、朝早く池に来て横山と話をすればこそ、偶然にも、よきものを観られたと感じた。登城まえの一瞬の時間が貴重なものに思えた。

 

                             *

 

 七月になると、直ちに一橋慶喜が将軍後見職に任命された。将軍家茂は十七歳、いままでなら老中の補佐を得て将軍職をやっていけるとみなされた年齢である。

 さらに、松平春嶽を大老に任ぜよとの勅旨に対し、幕府は政事総裁職なる新たな職を設け松平春嶽を任じた。政事総裁職が大老とどれほど似た職なのかの説明もないまま、勅旨に沿うようでもあり、やんわり拒絶するようでもあり、曖昧な新職制に逃げたような人事だった。勅使大原と久光は、概ね、成功と見た。

 七月も下旬になって、一橋慶喜と松平春嶽は具体的に政権構想を練り、京都の治安悪化をあらためて回復することを最初の目標に定めた。京都の治安はもはや京都所司代には手も足も出ない。これから公武一和の枠組みで、天皇の権威を上手に借りて幕威を回復しながら国を運営する。何と言っても朝廷に幕府の意見を円滑に聞き容れてもらう必要があった。

 幕府は天皇の妹宮を将軍の嫁に貰うため、十年以内に攘夷を実行すると約束させられている。これを真剣に履行するのなら、その道筋を穏やかな計画にまとめなければならず、朝廷に幕府と同じ価値観を共有してもらい、意思疎通を確立したいと幕閣、幕吏なら誰もが思った。

 朝廷と上手く話を通せる術(すべ)を知り、不穏な動きを収めるだけの武威と実力を持ち、なにより幕府を第一義に考える忠誠心を持つ者を京都に派遣する必要があるとなって、その条件を満たす藩が殆んどないことに幕府は思い至った。しかし、その故に、さほど人選は困難ではなかった。まさに、この日のために会津中将がおわすではないかと誰もが思った。

 七月二十七日、幕府は京都守護職を正式に新設した。この日、容保は体調不良を訴え登城しなかったため、春嶽は容保にこの新職に就くよう会津藩邸に出向き説得するつもりだった。ただ、諸用で城下がりが遅くなった。

 翌日、会津藩家老、横山主税(ちから)は政事総裁職の松平春嶽を訪ねるため常盤橋御門内の越前福井藩上屋敷に向った。当初、春嶽が会津藩上屋敷に来訪したいとのことだったが、急に、体調を崩したと報せが入った。

 横山は和田倉門を抜け、辰の口の水音を背に、道三河岸を進んだ。九ツ半(午後一時)残暑はひときわ厳しかったが、松並木越しに道三堀を望むと、お堀端はまだしも涼しげに思えた。時折、強く潮の香がした。

 江戸では夏から麻疹(はしか)が大流行し、今月に入ってますますひどくなっている。天保七年の大流行以降に生まれた若い世代では罹患する者が多く、死者も相当の数に上ると聞く。人通りはごく、まばらだった。

 ――昨年の疱瘡に続き、今年は麻疹か

 横山は、昨年、奥方敏姫が逝去したことを思い出し、あらためて胸を痛めた。

 道三橋を北に渡り、掛川太田家上屋敷を過ぎて右折すれば、そこが越前松平家三十二万石の上屋敷だった。濠に沿った一万二千七百七十九坪の敷地を巡って練塀が長々と続いていた。

 横山は春嶽の居間に通された。この夏は、容保といい、春嶽といい、麻疹に感染したわけではないが、何か体調がすぐれなかった。

 昨日、京都守護職が正式に新設の運びになったと、横山は春嶽から説明を聞いた。守護職の任務は、所司代を配下に擁し京都の治安を回復すること、朝廷との意思疎通を回復すること、幕府の意を朝廷に聞き届けられるよう公武の関係修復を図ること、公武一和の実を挙げることが職責であるという。

 さらに、万一の事態ともなれば、京都守護職に強力な軍事的権限を許し、近畿一円の大名を動員、指揮する職責になるとのことだった。政治的にも軍事的にも所司代を何倍にも強力にした職である。横山は、会津中将にこそ、京都守護職に就いていただきたいと強く懇望を受けた。

 横山は、春嶽から聞くまでもなく、京都守護職新設と、容保就任の要望が幕閣内にあると聞きつけていた。当然、春嶽の話を予想して出向いてきた。来るべきことがついに来たかと心を引き締めながら、少し声を張って返答した。

「我が藩は、弘化に遡りますれば、安房、上総の海岸警衛から始まり、近年は品川二番砲台を管守いたしてきました。そこをお汲み取り賜り、何卒、京都の儀ばかりはお許し下さりますようお願い申上げまする」

 会津藩は弘化四年(一八四七)、忍(おし)松平家十万石と共に安房、上総の二カ国の海岸を護るよう幕命を受け、対岸の相模海岸をまもる井伊家三十五万石、川越松平家八万石と計四藩七十六万石で江戸湾口を押さえてきた実績がある。

 湾口最狭部は観音崎と富津の間およそ二里半(一〇キロメートル)、日本の大砲ではこの距離を射程に収めきれず、ペリー艦隊の江戸湾侵入を易々(やすやす)と許してしまった。湾口を守れないと悟った幕府は、品川前面の沖合を守る方針に変え、いくつもの台場を埋立て、砲台を建設した。横山は、すでに十五年間も続く江戸守衛の軍役に会津の藩経済が疲弊している事情を確(しか)と春嶽に伝えた。

 さらに、京都は会津から二百里の遠程、近隣の藩こそがこの任にふさわしいと強く言い張った。京都のような遠隔の地では、いざというとき国許から支えることもかなわない。幕府の原則では、特別の役儀は近距離の藩から選定するものだったから、会津藩の京都赴任は、これまでの方針から外れることになると、重ねて春嶽に申し立てた。春嶽は、横山の断固たる拒絶に、さもありなんと、にこやかに聞いた。

「横山、その方の言う通り、もっともであるが、まあ、一度、会津中将にも聞いて欲しいのじゃ」

 春嶽は穏やかにその場を引取った

 横山は退座し、春嶽の懐刀、中根雪江から別室で、さらに幕府の内意を打ち明けられた。ついに、会津藩の引受けられない主な理由が藩財政にあることを詳しく説明する羽目となった。

 横山にすれば、中根がこの職の適任は会津藩を措いて外にあろうとは思われないと主張することに反論しにくかった。しばしば行われる会津の長沼流軍事演習は追鳥狩と言われ広く江戸に知れ渡っている。部隊行動の見事さと武士精神の横溢した家風を知らぬ者はない。

 中根に、適任と思われるのは会津を置いて外にないと言われれば、断る言葉がなかった。横山は、中根から然るべき役料をあてれば会津は受けるだろうと安易に受取られることを恐れ、言葉が慎重になった。

 

 容保と春嶽はこの四月に初会見したばかりで、互いの家中に親しい付き合いがあるわけではない。中根が会ったところ、横山は六十二とは思えぬ充実した気力で会津藩を切盛りし、卓見の主であると即座にわかった。江戸三家老の一人と令名を謳われるのももっともだと思われ、深い忠誠と堅固な志操をもった重厚な人柄が容易に見てとれた。藩主を輔弼する力量ある家老を見て、中根はなおのこと思った。

 ――これは何としても会津藩に御奮発願うしかあるまい

 翌日、越前松平家には、容保から横山が遣わされ、案の定、京都守護職就任に対し、容保の言葉をもって断固、断ってきた。春嶽は、この日、予想通りの容保の返答を聞き、そこで引き取った。後日、中根は会津藩御軍事奉行、野村左兵衛らと会い、さらに再度、横山と会い、嫌がる会津にこの職を受けさせる絶妙の方途を探りだしてきた。

 八月七日、中根の献策に沿って、春嶽は時疫(はやりやまい)で登城してこない容保に宛てて書状をしたためた。書中、懇切に守護職就任を依願し、藩士の京都駐在費用は希望に沿うよう自分がいかようにも取り計らうことを請合った。将軍も同様、容保の京都守護職就任を待ち望み、朝廷のご意向にも沿うことになると高雅な調子で書状を終えた。末尾に再伸で、本当に言いたいことをさりげなく書き加えた。

 会津松平家は土津公(はにつこう)以来の誉れ高きお家柄と、まずは神号で藩祖保科正之に言及した。さらに、二百三十年前に逝去した二代将軍秀忠を台徳院様と院号で言及し、その息子土津公のご末胤の貴兄だから、国難に遇っておいたわしくもお悩みの将軍をお助けになられるに決まっていると、春嶽は一気に断定した。

 会津藩の家訓(かきん)の第一条を踏まえて容保に承諾を迫った。二百年前の訓えが今もって逃げようのない説得になることを読みきった文章だった。会津がここまで堅牢な家風を保ってきたことも、京都守護職にふさわしいと、あらためて思った。

 

 容保は苦い顔で春嶽の書状を読み終えた。

 ――家訓のことを人に言われとうはなかった。事ここに至れば何をか言わん……

 腹をくくり、それにしても、と思った。

 ――越前にも切れ者がおるということじゃ

 我が家訓を知って説得に使うよう春嶽に助言した者の名を知っておきたいと思った。

 ――中根雪江あたりの知恵か……

 横山の復命で聞いた春嶽側近の名を思い起こした。

 翌八日、春嶽は後見職の一橋慶喜と城中で打ち合わせ、容保を説得できると請合ったあと下城した。本丸から下って本丸中之門を抜け、今日ばかりは右に折れた。いつもの城下がりの道筋とは異なり、坂下門に廻った。

 普段とは別の城中の景色に目をやり、夕刻、蜩(ひぐらし)の声が哀調を帯びて響く本丸を後にした。容保が何と言って断ってくるのか、その言い様をあれこれ想像しながら、坂下門で駕籠に乗込み、会津藩上屋敷を訪れた。

 通された座敷では、容保が側近を控えさせて待っていた。京都守護職就任を要望する春嶽の言葉を静かに聞くと、容保は、このような大事なる御勤め、藩をこぞって家臣の一致団結が必要であり、国許の賛意を得なければ御役を受けられないと固く辞退し、一歩も引かなかった。

 春嶽は執拗な説得の末に、容保から、早々に家臣を国許へ差し遣わすと約束を得て、屋敷を辞した。病み上がりのせいか、容保も辛そうだった。

 ――根が真面目な男よ

 春嶽は手応えを感じ、帰途についた。

 江戸から会津若松まで六十一里、普通なら片道五泊六日を要す。使者に立つ側近らは駆けに駆けて国許に急行し、国家老は報告を聞いて主だった者を集め群議を持つだろう。

 ――その後、使者らは国家老を伴って引き返し、早駕籠を駆って急ぎ江戸に到着するのは二十日過ぎになろうか……

 春嶽はおおよその日程をぼんやりと思い浮かべた。

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第一章「楓の記憶-容保」十三節「玉玲瓏」(無料公開版)

十三節一章「玉玲瓏」
十二節一章「徒手空拳の壮図」
十四節一章「護る者と破る者」
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