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第一章 小便公方(くぼう)の遺言
一 孤掌鳴らず 次を読む 前節に戻る 目次に戻る
宝暦七年(一七五七)の梅雨は尋常でなかった。四月十八日から、関東八州、東海道筋、東山道筋の広きに渡って止むことなく、五月六日まで降り通した。十九日間も降り続いた長雨は、いつもなら、田植えを終えて早苗のそよぐ美しい水田の広がるはずの風景を全く別な姿に変えた。
五月三日には越後の西蒲原郡横田村で、数百間にわたって信濃川の土堤が破れ、大河の奔流が、例年なら美田の広がる一帯を泥水で浸(ひた)した。あっという間のことだった。新発田(しばた)藩領では五万三千石の田が、長岡藩領では七万五千石の田が被災し、多くの溺死者を出した。世に言う越後の「横田切れ」が始まったのだった。
四日には、遠江(とうとうみ)の天竜川など東海道筋の大河が相次いで氾濫し、三河の大河も破堤を免れなかった。隣国尾張では、堤防の破れが千三百か所、延べ四百町(四十キロメートル)を越え、堤防は寸断された。百五十あまりの村々が水に浸かって三十二万二千石の水田が泥水の広がりと化した。
十日、甲斐の笛吹川は大激流となって、押し流される巨岩が轟音を発してぶつかり合う凄まじい光景を呈し、あたり一帯は洪水で押し流された。
十八日から三日間、再び大雨が襲来し、二十日、今度は水戸のあたりが大洪水に遭(あ)った。下総(しもうさ)の古河(こが)、関宿(せきやど)では利根川の氾濫で広大な田畑が水に浸かり、水面に百姓家の茅葺(かやぶき)屋根だけが頭を見せて点在する様は、見る者をして呆然と立ち竦(すく)ませた。
五月下旬から六月にかけて、関東、東海、越後の河川大氾濫の報(しら)せが次々と江戸城に寄せられ、幕僚たちは暗澹(あんたん)たる気分で、連日、頭を抱えた。
六月上旬、田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ)、三十九歳は相次ぐ水害の悲報を持って、江戸城本丸中奥(なかおく)の将軍御休息之間に急いだ。意次は、これで何度目の報告になるのかと想い起こすように、中奥の御庭に短い視線を投げた。
江戸城内にも大雨が降り続き、築地塀(ついじべい)とその前にあしらった植栽が霞むほどの雨脚だった。意次は、もうこれ以上の雨を許してほしいと祈りでもするように、入側(いりがわ)にいっとき立ち止まり、空を仰ぎ黙礼して、御休息之間に向かった。
意次が座敷下段で待つこと暫(しば)らくにして、九代将軍、徳川家重が御休息之間に出御した。上段に着座し意次の拝礼を受けるや、家重は「あぁ」とも「うぅ」ともつかない妙な発声で意次を促したように見えた。
「ははぁっ」
意次は平伏した後、頭を上げると、ゆっくり落ち着いた声で幕府に寄せられた各地の水害被災状況を報告し始めた。
家重は歯ぎしりを交(まじ)えながら真剣に聞き、時折、唸(うな)りとも呻(うめ)きともつかぬ声をたてた。大被害に驚愕する嘆息とも、意次に下問する仕種(しぐさ)ともみえたが、その声は言葉とはいいにくかった。時折り、口端から糸を引いて垂れる涎(よだれ)を拭(ぬぐ)った。
意次の明晰(めいせき)な声と会話を交わすのは、嬰児の発する喃語(なんご)のような曰く言い難い声音(こわね)で、余人がこの場にいて聞き取れる言葉ではなかった。奇妙な会話がしばらく続き、意次は各地の被害報告を終えた。
家重は難産の末に、やっとのことで産まれた子だった。出生時に負った重い障害を、四十七歳になるこの日まで抱えてきた。殊(こと)に幼児の頃から発話が十分でなく、いくつになっても喋(しゃべ)る子供にならなかった。
涎(よだれ)が大量に流れ出て、周りにわからない声音(こわね)を発する様子は、幼い頃から家重のめでたからざる将来を暗示した。
長ずるにしたがって、頻繁に歯ぎしりが起こり、頬には不随意運動によって、若い頃から次第に深く皺が刻まれた。絶えず首を左右に振って眉根を顰(ひそ)めるため内斜視がひどく目立ち、どこを見ているかわからない視線は近侍の者にさえ居心地の悪い思いをさせた。歩行にも難なしとは言えなかった。
御多病にて、御言葉さわやかならざりし故、近侍の臣といえども聴きとり奉(たてまつ)ること難(かた)し
幕府記録にこう記(しる)される将軍世子に育った。家重の発する声音(こわね)を聴きとれるのは、大岡出雲守(いずものかみ)忠光と田沼主殿頭(とのものかみ)意次の二人だけと言われて久しい。
享保十九年(一七三四)三月、意次は将軍吉宗の命を受け、十六歳にして家重附きの西之丸小姓に任じられた。当時、家重は二十四歳の将軍世子、忠光は二十六歳の先任小姓だった。
仕え始めた当初、意次は家重の発語を解(かい)さなかったが、忠光の指導を受け次第に聴きとるようになった。懸命の努力を重ねただけでなく、もともと察しのいい青年だったから、短期間の内に急速に上達した。
忠光は若いころから、すでに伝説が語り継がれていた。家重が鷹狩りのため外出したとき、何事かを言うのだが、たまたま忠光が供奉(ぐぶ)していなかったため、周りの供に意が通じなかった。そこで、急使を出して忠光の許に問い合わせたところ、忠光は、使いの者から家重の喃語の語感を伝え聞き即座に言った。
「西之丸様はお寒く思われるとの御諚だから、羽織をお召しいただくよう計らえ」
指示は適切だった。見事、聞き当てたことがわかり、人を介してさえ、家重の言葉を聴き解いたところが凄みだった。
伝説と言えば、意次にも相応の話が知られていた。若い頃、西之丸の御座所前の庭で供が居並ぶ中、家重が遊びの最中に発した「ヘゥシャシ」とも聞こえる喃語を近習は誰一人解さなかった。家重が苛立って周りが混乱したところ、御用からちょうどその場に立ち戻った意次が一目見て、たちどころに「餌差(えさ)し」竿(さお)のことだと聴き解(と)いた。
家重の発語では「え」がしばしば「ヘぅ」に喃語化することを意次は心得ていた。ただそれだけではなく、家重が前庭の流れに釣り糸を垂れるのに飽(あ)いて、次は、鳥黐(とりもち)竿で小鳥を獲(と)りたいと欲する心を瞬時に見て取ったようだった。意次は周りの雰囲気と諸人の心の襞(ひだ)を難なく読んだ。機転といってよい天賦の才だった。
意次が各地の水害被災状況を報告し、江戸で米価が上昇しつつあると付け加えると、間髪入れず家重が、少なくとも、意次には十分に伝わる言葉と身振りで命を下した。
「幕臣を派遣し被害状況を視察させよ」
意次の口から、幕臣による被災地視察などとは一言も触れなかったから、これはあくまで家重の発案だった。
意次は命を受けるや、畏(かしこ)まって平伏し、事前に準備してあったかのように、直ちに派遣計画案を言上し始めた。家重は、意次が即座に提案したことに少しも驚かなかった。意次は家重の諮問に常に即答できる男だった。
二人にとって、家重が発案して意次に命じたか、意次が具申して家重が裁可したか、そこはどうでもよかった。二人のいずれが発案しても同じことだった。
被災地に幕臣視察団を派遣せよと家重が命じ、二人で派遣団の編成案を練って、まずは六月十九日には、勘定吟味役らを江戸から送り出そうと日程のあらましを決めた。あと幾日もなかった。素早い決断であり、老中の審議決定とは比べ物にならなかった。
「早めに近江に言うてやれ」
家重は先任勘定奉行、大橋近江守(おうみのかみ)親義の名をあげて満足そうに涎(よだれ)をぬぐった。息の合った君臣もここまでになれば、字義通り一体といってよかった。家重も意次も、大御所からもらった訓言を常に意識して、これまでやってきた。
孤掌(こしょう)鳴らず
二人は、若い頃、八代将軍吉宗の訓(おし)えを共に聞いた体験をもち、片方の掌(てのひら)では音を出せない理(ことわり)を忘れなかった。
将軍親政を可能にするには二人が力を合わせることがどうしても必要で、一人が欠ければ門閥譜代の老中らにしてやられると、吉宗から政治の機微を叩き込まれた。
突き詰めれば、将軍の政治主導を老中たちに明け渡すか、側用人を用いて将軍が政治主導を握るか、二者いずれかの道だった。その選択によって、将軍の立場が全く異なることを若い頃からよく教えられた主従だった。
被災地視察団の派遣に関する本題が終わり、意次が退席の挨拶の素振(そぶ)りを見せたとき、家重が、孫娘、千代姫の葬儀に陰ながらいろいろ力を添えてくれたと、意次にねぎらいの言葉をかけた。千代姫は四月十二日、わずか二歳で早逝し、小雨の中、上野寛永寺塔頭(たっちゅう)、凌雲院に葬られたばかりだった。
「その節はそなたから何かと厚配を受けたと、家治が感謝しておった。倫子も涙を浮かべて、そなたに宜しく伝えてほしいと申しておった。余からも礼を申す」
家重のありがたい喃語に、意次は平伏し返答を述べた。
「御簾中様には、さぞや御気をお落とし遊ばされたことと存じ奉ります。初節句をお祝い申し上げ一月(ひとつき)余りで、あのようなことになるとはお慰めの言葉もござりませぬ。千代姫様は御生まれ遊ばして一年にも満ちませずに、あのように……」
家重は内斜視の眼差しを伏し目がちに、沈痛な面持ちで意次の挨拶を聞いた。
「家治と倫子は仲よき夫婦(めおと)じゃ。二人していずれ悲しみを乗り越えるであろう。これを機に次子を授かれば、災い転じて福となすというものである。そなたからも若い二人に目をかけてやってほしい」
「ははぁーっ」
意次は深々と平伏した。
佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第一章「小便公方の遺言」一節「孤掌鳴らず」(無料公開版)
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