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五 盤根を断つ 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

  

 九月二日、老中本多伯耆守(ほうきのかみ)正珍(まさよし)(駿河田中藩四万石藩主)が罷免された。家重の将軍就任翌年から老中を勤めた名門譜代だった。十二年間の勤めの果てがこれかと幕閣幕僚が震撼した。

 それを聞いた西之丸若年寄本多忠央(ただなか)は腰が抜けて立ち上がれず、拳を握りしめ青ざめて震えていた。幕僚たちが、ようやく将軍家重の強い意志に気付き、御庭番が暗躍したのかもしれないと噂が飛び交い始めた。

 本多正珍は先代吉宗以来の年貢増徴論を先頭立って声高に唱える人物だった。妹は郡上(ぐじょう)藩主金森(かなもり)兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)頼錦(よりかね)と婚約したまま婚儀の前に亡くなった。それでも正珍(まさよし)は金森家と親類付き合いを続け、頼錦の義兄を自任した。

 年貢増徴を目指す幕府内の自派勢力を拡大するため、郡上藩の一揆潰しを謀(はか)る裏工作に手を染めたと家重から睨まれてもおかしくない動機があった。親類の誼(よしみ)も絡むのであれば、なおさらだった。

 年貢増徴派にとって、百姓一揆ごときで年貢を軽くするようでは、先代の御代(みよ)から幕府に扶植した勢力が地に堕ち、幕閣としての面目が丸潰れになる。それだけでなく、今後の政権から外されかねないと危機感を抱いたのだろう。家重と意次には容易に想像がついた。

 翌九月三日、意次は評定所へ出座するよう家重から命じられ、郡上一揆の審理に参加した。御側(おそば)職の者が表(おもて)職の枢要をなす評定所の会議に出座し、寺社奉行、町奉行、勘定奉行、大目付、目付の幕府中枢五役に交じって審議に加わることを、門閥譜代の幕閣幕僚がどのように見るか、家重と意次は十分にわかって、この手を打った。

 ――しかも、儂(わし)は大名職の寺社奉行に次ぐ席次に就くのじゃ

 先例を無視したあまりのやりかたに幕僚は不満を募らせるだろう。側職の者が、発言を制限されない正式構成員として、評定所における老中出座の式日だけでなく、内座評議、僉議寄合の実質審議にまで加わるのはおよそ前例がない。幕閣、幕僚は驚くに違いない。

 ——側職の儂(わし)が側職のままで幕政に関与する始まりになることが、おいおい幕僚にわかってくる。それが上様の御親政の御意志なのじゃ

 何か強大な意志が働いていると気付く幕僚が現われてくるだろう。

 同じ日、意次が五千石を加増され一万石になった人事も大騒ぎになるとわかっていた。

 ——これで儂(わし)も、大名として評定所の審理に参加する。上様の御意志がどこにあるか、幕僚は嫌でも気付かざるをえないだろう。

 

 九月十二日、意次は寺社奉行阿部伊予守正右(まさすけ)をはじめ依田、菅沼の三奉行を招いた。審理の第二の方針を示すためである。僉議では幕閣、幕僚の件を急ぎ、郡上藩主の処断、石徹白(いとしろ)の処置はそのあとにするよう、将軍の言葉を申し伝えた。

 民治に失敗した一小藩の藩主を咎(とが)めるのが狙いではない。これに裏から加担した幕閣、幕僚の処断こそが本命なのだと、三奉行にはっきりわかるよう伝えた。それだけでない、五手掛の審理を主導するのは

 ——この意次なのじゃ

と暗に言い渡した。

 意次は、座に流れる沈黙が次第に恐怖で凍り付き、三奉行の顔色から血の気が失せていく様を見て取った。

 目端の利く幕僚なら、小藩の一揆の審理を利用して、幕府内の年貢増徴派に鉄槌が下るだろうと、案件の行き着く先を想像するに違いない。意次は、にんまり笑いたい思いを堪(こら)えた。

 九月十四日、西之丸若年寄の本多忠央(ただなか)(遠州相良藩一万石藩主)が就任半年で罷免された。本多は、郡上藩主金森頼錦(よりかね)に頼まれて、当時の勘定奉行、大橋親義に口を利いた。大橋から幕領笠松郡の郡代青木次郎九郎に指示を与え、年貢増徴がうまく運ぶよう脇から郡上藩に協力せよと裏工作を謀ったことが罷免の理由だった。

 本多は、金森頼錦(よりかね)の実弟を養子に貰い受け、親類関係を無下(むげ)にできない事情があった。それにも増して、年貢増徴こそが幕府の方針でなければならず、各藩もその方針にならうべきだという信念を持って、一揆潰しに協力し、裏工作を企んだことが明らかになった。

 金森頼錦(よりかね)は奏者番に任命され、大名同士の交際費がかさむところに、寺社奉行の兼任を望んだため、さらに工作費が必要になった。政治資金を調達するには国許で年貢増徴策に出るしかなかった。

 幕府内の増徴派も、金森から貰うものを貰ったうえで陰ながらこれを助け、幕府の年貢増徴勢力を強めようとした。一揆が起きても、潰せばすむと甘く見たことが裏目にでた。

 目安箱に訴えられて将軍が直接知るところとなり、将軍直轄の情報網に探索される事態を招いた。僉議において幕閣の関与が一人ずつ露(あら)わにされるたびに、意次の手腕が際立った。

 郡上藩の一揆がここまで揉めたのは百姓の不満だけが理由ではなかった。幕府の年貢増徴策を維持、継続するよう、幕閣が郡上藩に介入し事が大きくなった。裏を探り出した御庭番の働きが大きく物を言った。

 幕閣の謀(はかりごと)を知った家重と意次は、この機に、一気に年貢増徴派を一掃し、幕府の財政政策を変えようと策謀を重ねた。それは、御側御用取次の権威を高め将軍の親政を強める方途でもあった。

 

 十月二十九日、評定所の裁きが言い渡された。老中本多正珍(まさよし)は役儀取上げ、逼塞(ひっそく)。西之丸若年寄本多忠央(ただなか)は改易、津山藩に永預け。大目付曲淵(まがりぶち)英元は役儀取上げ、閉門。勘定奉行大橋親義は知行召上げ、相馬藩に永預け。笠松郡代青木次郎九郎は役儀取上げ。郡上藩主金森頼錦は改易、南部藩に永預けと処断された。

 勝手掛老中の堀田正亮(まさすけ)も年貢増徴派に賛同することが多かったため、この裁断に内心、震え上がったと陰で噂された。裁き言い渡しの場に臨み無表情を作った顔貌に微かな動揺が走るのを意次は見逃さなかった。これからはできるだけ表に出ないよう、意見を言わないよう、ひっそりやり過ごすべきだと寂しく自戒したかのようだった。

 ほかに百姓や石徹白(いとしろ)社人側の主だった者に死罪が言い渡され、藩と百姓、社人、双方の罪状の均衡が図られた。幕府の中枢にいる老中、若年寄、大目付、勘定奉行、天領代官が小藩の一揆に関わって御家断絶を含む厳しい処罰が下されるなど前代未聞、あってはならないことだった。

 郡上藩の僉議を通して、老中、若年寄をはじめ評定所五手掛の皆に強い圧力をかけながら、家重と意次は君臣一体で評定所を仕切った。将軍が幕政の主導権を把握し、経済政策を大きく転換するという二つの目標を一気に達成した。

 処断が下って、幕閣、幕僚や諸侯は顔色を失い粛然となった。多くの大名は、年貢増徴をむやみに強行して一揆を引き起こしたとなれば藩も只ではすまないと覚悟し、以後、年貢増徴策を唱えるべきではないと自ら戒める空気となった。

 それだけでない。御側御用取次、田沼主殿頭(とのものかみ)意次は、単に将軍と老中の間を取り次ぐだけの男ではないと大名の間で専らの噂となった。意次の謀才を思い知った幕僚がいるに違いなかった。

 家重が御側御用取次を手足のごとく使い、将軍の威光を存分に行き渡らせる意志のあることを見せつけられた。飾りの将軍ではないことを改めて認識した大名がいてもおかしくなかった。

 評定所には訴訟だけでなく、もう一つ、政策を立案、審議する機能がある。此度(こたび)の僉議で一躍、評定所を唱導する立場にのし上った意次が、幕府のこれからの政策立案に大きく関与するだろうと、目端の利く幕僚なら予想したに違いなかった。

 それぞれの詰所や伺候(しこう)席では、幕僚、大名の間で声をひそめた噂噺(うわさばなし)がひっきりなしに交わされた。

「上様が長く大奥にご滞留なされ御政道を顧(かえり)みないなどの風聞を聞いたとしても、決して信じてはならぬようでござる」

「此度(こたび)の御裁きは、上様が中奥御座所からよくよく御臣下をお見通しのうえで図ったに相違ござらぬ。御側御用取次などには、とうてい手に余ること、上様でなくば、下せる御裁きではござるまい」

「上様は、主殿頭(とのものかみ)殿を手足の如くお働かせになり、主殿頭殿もあっぱれ、上様にお応えなされたということでござろう。ぴたりと息の合った為(な)されようでござった」

「年貢増徴策は、もはや続けられないのではあるまいか。上様が、厳しすぎる年貢取立てをお許しにはならぬということにござろう」

「大きく時代が変わるのではござらぬか。年貢米に代わって別の運上を考案致さねばならぬのではあるまいか」

「米とは別の運上と言っても、一体、何がよいのでござろう。藩ごとに名産品を探し出し、金に換えやすき物産を増産せよとの仰せなのでござろうか」

 噂はしばらくの間、絶えることがなかった。家重の狙いは見事に当たった。

​佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第一章第四節「盤根を断つ」(無料公開版)

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