『種痘の扉』
日本は、当時、最も牛痘種痘の遅れた国だった。日本で牛痘種痘が成功するのは嘉永二年、ジェンナーの牛痘種痘の発表から五十年が経っていた。阿蘭陀通詞 馬場佐十郎、長崎商館長 ドゥーフ、ブロンホフ、蘭方医 楢林宗建、伊東玄朴ら、世代、国籍を越えて日本への牛痘苗導入に苦闘した人々をたどる。佐是恒淳の歴史小説の世界をお楽しみください。
原稿用紙470枚分の作品を連載します。『将軍家重の深謀-意次伝』同様、ご支援、ご愛読を賜れば幸いです。
ジェンナーの発見によって、欧米はもとより、アジア植民地に牛痘苗が実用化され始めた19世紀初頭。日本では、阿蘭陀通詞の息子、馬場佐十郎は長崎商館長ドゥーフによって、日本で初めてジェンナーの牛痘種痘の消息を知る。
成人した佐十郎は江戸の天文台方に勤務。蘭語文献を翻訳し、幕府が海外事情を理解するため基礎資料を執筆する重責を担う。当時、ロシア、イギリスから侵攻、掠奪を受けた日本は、異国と対峙する必要に迫られていた。
佐十郎は、箱館奉行に監禁された艦長ゴロウニンからロシア語を学ぶ機会に、偶然、ロシアで発行された牛痘種痘解説書を目にし、苦労の末、翻訳を完成させる。一方、蘭方医と長崎商館長が協力し、オランダのジャワ総督府より海路、牛痘苗を長崎に搬入する努力を続けたが、多くの障害によって遅れに遅れ、ついに日本で牛痘種痘が成功したのは嘉永二年(1849)ジェンナーの発表から五十年後だった。
この間、英露から受けた不当な圧迫など日本の置かれた国際情勢を軸に、国内で蘭学研究が発展する活況を描く。
幕末、日本人が千年以上も苦しみ抜いた天然痘にいかに立ち向かったかを知れば、コロナ禍に悩む現代日本人を勇気付けることになりはしないかと切に祈っている。
序 章 牛 痘・・・・・・・よむ
第一章 遠 鳴
一 バークレイ・・・・・・よむ
二 長崎西坂町本蓮寺・・・よむ
三 長崎出島主官館・・・・よむ
四 長崎南馬町・・・・・・よむ
五 長崎外浦町・・・・・・よむ
六 長崎西濱町・・・・・・よむ
七 ヲホツカ海・・・・・・よむ
八 長崎梅が崎・・・・・・よむ
九 ヤポンスコエ モーリェ・よむ
十 蝦夷宗谷・・・・・・・よむ
第二章 述 志
一 浅草御蔵前片町・・・・よむ
二 長崎八百屋町・・・・・よむ
三 両国橋南辺・・・・・・よむ
四 築地鉄砲洲・・・・・・よむ
五 ペトロパブロフスク・・よむ
六 向島牛島・・・・・・・よむ
七 蝦夷松前・・・・・・・よむ
八 蝦夷箱館・・・・・・・よむ
九 向島牛之御前・・・・・よむ
十 筑前大宰府・・・・・・よむ
第三章 失 活
一 長崎出島甲比丹部屋・・・よむ
二 相州浦賀・・・・・・・・よむ
三 王子音無川・・・・・・・よむ
四 江戸城本丸焼火之間・・・よむ
六 下谷車坂宗延寺・・・・・よむ
七 バタヴィア・・・・・・・よむ
八 肥前神崎郡仁比山・・・・よむ
十 本石町三丁目・・・・・・よむ
第四章 銅 臭
一 本所番場町・・・・・・・よむ
二 下谷長者町・・・・・・・よむ
三 下谷御徒町・・・・・・・よむ
四 平川町貝坂・・・・・・・よむ
五 浅草向柳原・・・・・・・よむ
六 長崎出島外科館・・・・・よむ
七 神田お玉ヶ池・・・・・・よむ
八 江戸城本丸御用部屋・・・よむ
九 江戸城本丸土圭之間・・・よむ
十 江戸城本丸大奥御小座敷・よむ
終 章 里 山・・・・・・・・よむ
あとがき・・・・・・・・・・・よむ
参考資料・・・・・・・・・・・よむ