序章 日本(ヤパン)へ 目次に戻る
素晴らしい海域だった。夏空はあくまで澄み渡り、天上に導くかのように青く透明だった。時折、天空に白い海鳥の群れがゆうゆうと横切るのが見えた。群青の海面には、飛び魚(フリーヒェンデビッセン)が群れをなし銀の魚体をきらめかせて跳ねていく。
上海から四百五十マイル(七二〇キロメートル)の航海を経て、いよいよ長崎が間近のはずだったが、海域には島やら半島が複雑につき出し、奥まった長崎湾口は隠れて見通せない。伊王島の高い緑の台が正面北に近づき、その西の突端を迂回し面舵をとって航路を東に転じた。
心の魅了される大景観が一気にひろがった。右舷の伊王島は、鬱蒼と木々に覆われた谷が奥に入り組み、樹陰の間には、草葺きの小屋が山腹に沿って蝟集しているのが見てとれた。ところどころ、こんもりとした木々を背にして、牧歌的(イディリッシェ)と言おうか、可愛いらしい草葺きの小屋に村人の暮らしが営まれていることが遠望された。
緑の山腹の上には段丘がひろがり、斜面は稲田だろうか、丁寧に耕作され、海風にそよいでいるのが見える。海と空の絶景にあって、その小屋のあたりは童話的な(スプルーキェ)心躍るような雰囲気に満ち、妖精(フェアリ)が住んでいるかのようだった。
島には、深く湾入する絶壁と突き出た岬がこもごも重なって、裾は海浪で白く縁取られている。穏やかで入り組んだ海は間違いなく豊饒であろう、周りには、いく艘もの小さな漁(いさ)り舟の上で、この国の漁夫の立ち動く姿が小さく見えた。股間を絞める白い布が赤銅色の身体に映えて目に鮮やかである。
これほどの地形である。あたりの天然の良港を策源地に、自由に船を操る海の民がかつては行き交っただろうにと、和蘭(オランダ)人は放恣な想像をかき立てられた。しかし、今、この国の住人は、外国に出てゆくことはない。出てゆかずとも、幸福に暮らしている、少なくとも今までは。しかし、これからも、そうであるかはわからなかった。隣の支那(チャイナ)で起きたことが、この国で起きないことを願うばかりである。
細長い湾口に達したとき、緑に覆われた円錐形の高鉾島(パッペンベルグ)が左舷に見えてきた。夢(ドゥルーム)のように美しい島である。この島の崖上から日本人カトリックが海に突き落とされた二百五十年前の迫害の歴史を、日本にくるほどの欧州人なら誰もが知っている。
迫害の幻影のかなたに、ついに長崎湾が見えてきた。この奥にひろがる長さ四マイル(六・四キロメートル)、幅一マイル(一・六キロメートル)の湾は周囲を高い丘陵で囲まれ、背後の河原山は高さ二千フィート(六〇〇メートル)に達すると聞く。湾を囲繞(いじょう)する丘陵は懸崖となり、ときに緑の斜面を作り、いく筋もの渓流が海に流れ落ちているのが見えた。
中腹には庭園に立つ邸宅や亭(あづまや)が見え、絵のよう(ピトレスケ)だ、とこれまで繰返し表現されてきた風景が眼前にひろがった。たしかに、この景色を見ればわくわくする。
町は海辺から丘陵の中腹に広がり、密集した瓦葺きの家が豊かげで活気ある港町を構成している。はるばると長崎に来た。国王陛下に幸(さいわ)いあれ、この異質の美しい国に幸(さち)あれかし……。
天保十五年(一八四四)七月二日、和蘭(オランダ)軍艦パレンバン号が長崎に入港した。艦長は海軍大佐コープスで、この国の大君(タイクーン)にあてた和蘭国王、微爾列謨(ウィレム)二世の親書といく品もの贈り物を運んできた。
その中に、縦九尺、横六尺(二・七メートル、一・八メートル)の巨大な肖像画があった。贈呈品目録によると、身の丈を正しく写した国王姿絵(すがたえ)で、高名な画工ファンデルフルストの筆になるとあった。豪奢な額縁を入れると三畳間をゆうに超える大きさだった。
パレンバンの来航は一月(ひとつき)も前に蘭商船によって日本側に通告されていた。長崎奉行の伊澤美作守(みまさかのかみ)義政はすでに受けていた幕命に沿って、和蘭(オランダ)国王微爾列謨(ウィレム)二世の親書を和蘭(オランダ)側から受領するや、和解(わげ)を作成しないまま早々に、江戸に発送した。
伊澤も、まさか三畳間を超える大きな絵が贈られるとは想像せず、大きな贈呈品のために、業者を探し厳重に梱包させ、江戸に送り出したのはもう少し後になってからだった。
江戸城本丸は、この年五月十日黎明に平河門あたりから出火し全焼したばかりだった。この時期、老中の阿部伊勢守(いせのかみ)正弘が御本丸御普請掛奉行に任ぜられ再建の真最中だったから、幕閣は一時的に西ノ丸で政務を執っていた。
阿部は城内西ノ丸で、さきほどから大廊下を隔て騒がしく聞こえた人語が静まったと思った。そこへ、御覧になれる準備が整いましたと、御用部屋坊主が知らせにきたので、老中たちと連立って座敷に向った。
そこで阿部が見たのは、かろうじて斜めにして柱に立てかけられた巨大な絵で、金色に彫琢された大きな額縁がぎりぎり天井まで達していた。襖を取払い、ようやくにして運び入れたものであろう。三畳敷きの絵とは聞いていたが、こちらの座敷から眺めると欄間が絵の上半分の視野を遮るため、欄間をくぐって姿絵の置かれた隣座敷に行くと目の前に大きすぎる画面が斜めに迫り、眺めるにはなにやら近すぎて具合が悪かった。
当初、西ノ丸大広間にでも立てかけ遠くから眺めたらどうかという声もあったが、このような夷狄(いてき)の王の姿絵ごときで大広間を使うのも癪に障り、この座敷にした。絵をようやく室内に運び入れはしたが、十分な距離がとれず眺めるに適しているとはいえなかった。
それでも、王の顔辺りに目をやると、柔らかそうな髪が髷(まげ)を結うことなくやや抜け上がった額の上に整えられ、手入れした風情で口髭(くちひげ)、顎髯(あごひげ)、頬髯(ほおひげ)が蓄えられていた。口髯の左右両端は円を描いて捲き上がり、いかにも珍妙で異国の風であろうと思われた。
王は立ち姿で、鐺(こじり)を床に当てて左手に支える刀が、誂(あつら)えは立派ながら、柄が短く片手持ちの細身の脇差のようなもので、威厳を添えるようには見えなかった。これも異国の風であろうか。全体に、腰高で据(す)わりの悪く見えるのは、植木屋の穿くような細い股引(ももひき)めいた風体で足長に描かれているためだった。
その王が胸と肩には金糸の大房を下げ、背には大母衣(ほろ)かとも見える布を垂らしている。足に履いた黒い沓(くつ)は漆黒で黒光りし、こればかりは、皮製のなかなか見事なものと見えた。
「これが夷狄の王の威儀の正し方のようでござるな」
水野越前守忠邦が阿部に話しかけてきた。水野は天保の改革に失敗し、世の信頼をつなげないと、前年閏九月、将軍から罷免された。それが、この年六月、老中に再任復活し、まだいくらもたっていない。
阿部は水野に頷(うなず)きながら、このような大きなものをもろうても、寺の本堂にでも掛けておくしかあるまいと、思った。どのようなつもりで、蘭王がこの姿絵を贈ってきたか、見当が付きかねた。身の丈を正しく映した姿絵など、扱いに困るのではなかろうか。阿部は何も言わなかったが、周りの者、絵を運び入れた者も、いい絵だと思って眺めている者はいそうになかった。
蘭通詞(つうじ)が作った国王親書の和解(わげ)をみると、阿朗月(オラニエ)、納騒(ナッソウ)のプリンスにして魯吉瑟謨勃兒孤(リュキセンブルグ)のコロトトヘルトフたる和蘭(オランダ)国王、微爾列謨(ウィレム)第二世が謹んで江戸の政庁にましまして徳位最も高く威武隆盛なる大日本國君殿下に書を奉じて微衷を表す、とあった……。
*
弘化二年(一八四五)五月、辰ノ口の老中屋敷で、梅雨のしとしと降る庭を眺めながら、阿部伊勢守正弘は、文机に向って沈思していた。蘭国王から親書を受取り、途方もなく大きな姿絵を眺めて一年がたった。この間、水野忠邦は再度罷免され、阿部が老中首座に就いた。
阿部は、口髭の両端を捲(ま)いた蘭王の顔貌(かお)を何度も思い起こしながら、和蘭の意図を計り、幕府の行く道を考え続けた。もう、これで何度考えたろう。一年間にわたって考え、幕議を持ち、将軍(うえさま)とも親しく言葉を交わしてきたのである。
親書で蘭王は世界情勢を説いて、支那が英吉利(イギリス)にさんざんに打ち破られ、辟易(へきえき)してついに五港を開いたことを告げていた。殿下は殿下の幸福なるこの国を清国の二の舞にしてはいけない、日本は国を広く世界に開き、戦禍を避けなければいけないと忠告し、これは誠意から申すことで、和蘭(オランダ)の利を謀るためではないと、心からの好意とこれまでのよしみを強調してあった。
そもそも蒸気船の発明により、世界は遠くても近いことと異ならなくなったと和蘭(オランダ)国王が説く箇所に、蘭通詞はわざわざ蒸気船の原理を注記してあった。“石炭を焼いて蒸気筒中の水を沸騰し、その蒸気によりて水車を旋転せしめ風雨に関らず自由に進退する”船は文化四年(一八〇七)に創造されたと注釈を読んで、阿部は蒸気船というものを調べさせなければならないと、その必要性をたしかに感じた。
阿部は和蘭国王から受取った将軍宛親書に対する返書の草稿を書こうと筆を動かし始めた。この時期、いくつもの夷狄の船が日本を窺(うかが)い狙うため、和蘭とは従来通り友好を保つことが是非とも必要だった。
そのためには乱暴な返書であってはならず、かといって蘭王親書をぬけぬけと受取ってしまっては信を通ずることになって、祖法に悖(もと)るのである。結局、友好的な心情をにじませながら国の付き合いは公式に断るという曲を尽くした高度に政治的な文章にしなければならないことはわかっていた。
返書の書き手と宛先からして問題である。将軍宛の国王親書を受けたのだから、将軍からの返書の宛先は蘭国王とするのが筋だが、それでは、将軍と国王の親書の交換になってしまう。
この時期、日本の祖法は、信を通ずるのは朝鮮と琉球に、商を通ずるのは清と和蘭(オランダ)に限ることにあった。信を通ずるとは公式に国交を結び外交関係を維持することであり、商を通ずるとは貿易を行なうことである。日本にとって厳格に区別すべき付き合い方だった。
清とは通商あって通信なく、朝鮮とは通信あって、対馬藩に任せたわずかな通商しかなかった。和蘭(オランダ)とは、通商ありて通信なしの建前もとに、長崎出島の商館長(カピタン)は一行を率いて江戸に参覲し将軍に拝謁する間柄だった。複雑な政治的解釈が施され祖法が維持されてきた。
公式に将軍との間で信を通じていない和蘭の国王から親書を受取ることは受取り自体がきわどい政治行為になり、祖法との兼ね合いを政治的に考えなければならなかった。しかし、阿部は受取りを拒否しなかった。三年前、支那(チャイナ)が英吉利(イギリス)に香港を割譲した情勢下で、幕府が蘭王親書をかたくなに拒否するわけにはいかない。
阿部は自ら返書の書き手となり、宛先を和蘭(オランダ)商館長(カピタン)とした。将軍宛蘭王親書の返書を甲比丹(かぴたん)宛老中首座諭書に格下げすることで、和蘭(オランダ)と信を通じないという祖法の公式の位置付けを守った。
とは言うものの、「多年、通商のよしみを忘れず、至誠の致すところ祝着これに過ぎず」と複雑な言い回しを駆使し、誠意のこもった忠告の言に「会釈」を返し、国産の品々を贈ると記(しる)した。
後日、和蘭(オランダ)政府諸公宛に四人の老中連署の書状を追加することにし、さらに微妙な政治的バランスをとった。間合いと頃合いの絶妙な返信の仕方は、幕府政治の傑作と言ってよいが、この配慮がどこまで和蘭(オランダ)に通じるかはわからなかった。むしろ国内の朝廷、諸侯に向けたものだった。
このあたりの軽重感と距離感の取り方が阿部の鋭い政治感覚である。長崎奉行が国王親書を受取ったのが天保十五年(一八四四)七月、一年も前のことになるが、返書を今、遅れたこの時期に書くこともバランスを考慮した阿部の政治判断だった。
阿部は、鄭重に感謝の意をにじませながら、国を開くことはできないと明確に伝え、さらに、今後、このようなものを受取るわけにはいかないとはっきりと書いて、欧羅巴(ヨーロッパ)全ての国に伝えてほしいものだと心から願った。
日本には日本の祖法というものがある。付き合いは双方の合意で成り立つもの、いやじゃという者と付き合いは出来ないもの、付き合いは互いに相手を選ぶべきものであろう。和蘭(オランダ)には、長い間、貿易を許し、幕府はこの国に多大の恩恵を与えてきた。感謝こそされるべきで、信を通じなくとも怨まれる筋はない。
この時点で阿部は、多くの日本人と同じく、外国との通商を拒絶する心情だった。八年後、米国のペリー提督が東洋艦隊四隻を引き連れて来航し、強く日本に開国を迫ることになる。経験したことのない問題が次々と生じ、幕政は大きく混乱する。そんな未曾有の政治の季節がいよいよ始まったことを阿部はまだ知らない……
佐是恒淳の歴史小説『方略は胸中にあり-ハリスと渡り合った男』(2017年刊)序章より