終章「里山」では、架空の老爺を登場させて、その後の種痘の広がりと馬場為八郎の最期の数年間の様子を描きました。場所は秋田県由利郡亀田(秋田県由利本荘市)、時は明治26年と設定しました。
明治時代、政府の牛痘種痘の努力にもかかわらず、4 回の痘瘡大流行が発生しました。第1 回は明治18 年から20 年で死者31,974 人,第2 回は明治25 年から27 年に死者24,603 人,第3 回は明治29 年,30 年で死者15,664 人,第4 回明治41 年に死者4,265 人を出しました。これを最後に、強制接種が効を奏してか,もはや大流行はなくなりました(蔵方宏昌)。2020年1月から23年5月までの期間のコロナ死亡者が75,000人弱であったことと比べると、見当が付きます。まだまだ、相当の流行があったのです。
以後、日本では、種痘は着実に普及し、昭和51年(1976)を境に実施されなくなりました。日本から天然痘が根絶されたのでした。全世界から根絶されるのは1980年です。数千年に及ぶ天然痘との戦いが終わりました。
馬場為八郎(明和6〈1769〉~天保9〈1838〉亀田で歿す)は、シーボルト事件で捕らえられ、天保元年6月20日、亀田城下に到着。天保三年には妙慶寺境内の囚屋に移送され、ここで6年を過ごして亡くなりました。享年70歳。それまでの業績と地位を知る者にはあまりにも無惨な最期でした。私は、為八郎の配流先の生活を想像し、子供の目を通して見た暮らしぶりを温かい視点で描かずにはいられませんでした。
シーボルト事件では、多くの蘭通詞や蘭学者が捕縛されましたが、何の罪だったのか、今もよくわかっていません。連座した為八郎の配流は気の毒でたまりません。この小説では五十年を超える時間を扱かいましたが、為八郎のことを終章にでも触れなければ、いてもたってもいられないような気がしました。
『種痘の扉』を完載した区切りでもあり、八月いっぱいを夏休みとさせてください。読者の方々には、良い夏をお過ごしください。九月に、またお会いしましょう。楽しみにしています。
恒淳
玉原高原にて
佐是様、『種痘の扉』完結 おめでとうございます。
馬場為八郎の晩年を描いた終章は心に残ります。
“この頃の子供は昔と比べて死ななくなった” ...このひと言に至るまでの種痘普及に係わった人々の努力を理解できました。
「将軍家重の陰謀」「種痘の扉」を通読できたことで、江戸中期~後期を今までと違った角度で見ることができるようになったように思います。
ストーリーを追うことのみでなく、政治、経済、医学、学問、飢饉、疫病、火災等々深く知りたい項目も多く、ますます歴史に引き込まれる思いでした。
次回作にも期待しておりますが、無理のない著作活動をお続けください。
猛暑がつづいております、くれぐれもご自愛のほどお願い申し上げます。