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執筆者の写真佐是 恒淳

『種痘の扉』第四章十節

 十節「江戸城本丸大奥御小座敷」では、将軍家定の死去する最後の二日間が描かれます。伊東玄朴は、井伊直弼に、将軍の二日間の延命を請け負いました。玄朴らが懸命の延命治療を行う中、井伊が限られた時間を最大限、活用し、一橋派を追い落とす政治工作を行いました。将軍による処罰の命が下って数日後に将軍は亡くなりました(と公式に記録されました。数日間のぶれがあっても不思議はないのです)。井伊のきわどい”時間差攻撃”に貢献したとして、伊東玄朴は昇進し種痘所は幕府公認、官立となって、江戸の種痘発展につながりました。牛痘種痘は、単なる医療行政の枠を越え、江戸では最後の最後まで、政治的な焦点と関わりをもちました。その劇的な効力が政治利用されるのは当たり前、むしろ牛痘種痘の効果のすばらしさを証拠立てることかもしれません。


 伊東玄朴は、晩年、松本良順に弾劾され小普請入りとなり公式な職を失います。赫赫たる名誉、名声は続きませんでした。明治4年(1871年)死去 享年71歳。松本は玄朴の銅臭を殊に嫌ったようで、いくつも逸話が残されています。


 終章とあとがきを残すだけとなりました。

                                 恒淳







  


















タイタンビカスは芙蓉の園芸種で、大きな花を

咲かせます。木槿に似た花で、いかにも夏らしい

花です。         

閲覧数:20回2件のコメント

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2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Jul 31, 2023

佐是様、今回も意外な展開に感服しながら読んでおりました。


井伊直弼、伊東玄朴、両者Win-Winの関係とはいえ、伊東玄朴の大老さえ利用し蘭学、蘭方医学、種痘の普及を目指したことは外圧、幕府政治状況、世論など把握したうえでなくてはできない事だったのではないでしょうか。その上での銅臭であり、何等強欲さは感じません。

松平春嶽の出自が田安だったことは初めて知りました。結果かもしれませんが井伊直弼の蘭方医学普及への貢献も意外でした。毎回、勉強させていただいております。

終章、あとがきまでしっかり読みたいと思います。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Jul 31, 2023
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北薗様、

 毎回、コメントありがとうございます。もう、御帰宅されたのでしょうか。このたびは本当におめでとうございました。


 玄朴は、銅臭と言って嫌う人と、治療学に優れた技量を褒める人と、二分される評価が付きまといます。毀誉褒貶の人です。私の玄朴観は、経営に長けた医師というより、算勘が立ち医学がわかる経営者というところです。やり手の私立病院院長で医師会にでて政治家になる医師と割と近い感じかと想像します。『白い虚塔』の財前五郎もこのカテゴリーにはいるでしょうか。学究肌の医学研究者の枠にはまり切らない人であり、それはそれで、信望をあつめ信頼のおけるお医者さんです。

 牛痘種痘の観点から見ると、佐十郎や馬場為八郎のような学究肌の勉強家が始まりの契機を作り、最後は政治的感覚に富んだ玄朴が広めるという構図が、何か、歴史の不思議のようなものを感じます。最後は、漢方医学を打ち破るためにも、玄朴のような政治力が必要だったに違いありません。

 

 御三卿の一つ、田安家についてのべると、定信が白河藩に養子にでて、その兄、治察が子をなさずに死んで田安家は長く明屋敷となっていました。宗武の血筋は田安家に残りませんでした。このあたりは『家重の深謀ー意次伝』にも書いたところです。その後、一橋治済の五男(11代将軍家斉の弟)斉匡が養子に入って田安家当主となり、家斉の十二男斉荘を養子にとって田安家は一橋宗尹の血筋として明治維新まで続きます。春嶽は、斉匡の八男ですから、一橋家の血筋に乗っ取られた田安家の出身で、一橋治済の孫です。


一橋治済ー徳川家斉

    |

    ―斉匡(田安家に養子)=斉荘(家斉実子)

               |

               ー春嶽(越前藩に養子)


一橋家は徳川宗家も田安家も取り込み、治済以降、大いに血筋を繁栄させました。島津家の重豪も養子をいろいろ出して(中津藩主、丸岡藩主、福岡藩主、八戸藩主)、繁栄しました。一橋治済と島津重豪は将軍家斉の実父、岳父の関係にあり、ともに精力あふれる人だったのかもしれません。さすがの一橋家も幕末に人がいなくなり、水戸藩から慶喜を養子に迎えます。


                            恒淳 


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