八節「江戸城本丸御用部屋」は、日米修好通商条約の締結問題と将軍継嗣問題で揺れる安政五年の江戸城が舞台です。条約締結に天皇から勅許を得られなかった堀田正睦の失態を受けて、井伊直弼が大老に就任し強烈な個性で幕政を引っ張っていきます。
一方、幕府が揺れに揺れている時、十三代将軍家定の脚気が次第に悪化します。今でこそ、原因はビタミンB1不足と知れ渡っていますが、当時は世界の奇病でした。米ぬかを取り去って白米を多食する習慣が元禄以降、江戸庶民にまで広がって、特に江戸は脚気に悩まされました。主君について江戸にきた地方諸藩の家臣は、江戸に来ると脚気がちになり、国許に帰ると(玄米を食べるので)脚気が治ることから、江戸患いと言われたほどでした。
ビタミンB1は米ぬか以外に、豚肉にも多く含まれます。水戸の斉昭は、豚、牛をよく食べた人で、脚気とは無縁のようです。彦根藩は、大太鼓用、武具用として、牛皮を幕府に献上することになっていました。当然、副産物として肉が取れます。これを薬と称して、各藩に贈答していたというのです。直弼の代になって肉を贈答に使うのを止めたため、水戸の斉昭は、毎年、贈ってくれた牛肉が届けられなくなって、直弼を嫌うようになったというほらのような話をどこかで読んだことがあります。斉昭の息子、一橋慶喜も豚肉を好み、慶喜を嫌う人たちから「豚一」と悪意ある綽名を付けられました。豚好きの一橋ということでしょう。
日本は日露戰爭でも多くの兵士を脚気で失い、その死者数は驚くほどでした。陸軍が兵士に酬いる大きな手段は、腹一杯の白米を食べさせてやることでしたから、重労働、白米の多食、貧弱な副菜の環境に置かれた陸軍兵士に脚気が多発し亡くなりました。海軍は艦内食に洋食を取り入れ栄養学的にまだ恵まれていました。脚気の原因について、陸軍の森鴎外と海軍の高木兼寛の論争は有名です。
私儀ながら、私は小学生の頃、学校の健康診断のたびに、高い椅子に腰かけ足をぶらんとした状態で、膝小僧のすぐ下を小さなゴムのハンマーで叩かれたものです。膝蓋腱反射によって末梢神経障害の有無を見て、脚気を診断する簡易な方法です。今はもうやっていないでしょう。つい最近まで日本では脚気が懸念されていたのです。今でこそアリナミンは疲労回復を謳っていますが、当時は、脚気薬のようなものでした。脚気について調べたことがあるので、つい、長くなりました。
脚気の将軍をどう治療するか、井伊直弼の政権では、医学の問題でなく政治の問題になっていきます。そこで伊東玄朴の登場ですが、それは次回の事になります。
木槿の咲くころです。
松樹は千年なるもついに是れに朽つ
槿花は一日なるも自ら栄を為す
よく行く山梨県北杜市の萬休院には石柱が二本建っていて、この対句が刻んであります。
華やかな木槿は一日で終わり、松は千年経って枯れる と。
木槿は韓国の国花、朴槿恵(パククネ)の名前に用いられています。
佐是様、毎回楽しんでおります。
伊東玄朴は、目立った行動は控えながらも、蘭方医学、牛痘種痘普及の計画を地道に進めているように感じました。幕末の暴風が吹き荒れ始めたようですが、徳川斉昭、井伊直弼、孝明天皇などの固陋さの影響が大きかったように私は思っています。
種痘、脚気、医学、政治の絡み合う展開を楽しみにしています。
「白い航跡」吉村昭を読み、宮崎市高岡町の高木兼寛生誕地を5年ほど前訪ねたことがあります。その時の写真を添付しておきます。