二節「下谷長者町」では、馬脾風の治療で名声が高まった勘造が、本所番場町から下谷長者町に引っ越したさまが描かれます。今ではJR山手線の御徒町から秋葉原に向かう線路沿い右手(西側)の細長い一画に当たります。当時は貧乏な人の住む町でした。下谷界隈は下級武士の屋敷街から中級武士の屋敷、大名屋敷が町家と隣接し、切絵図で見ても密集地であることがわかります。
そのなかで長者町は上野寛永寺に近く、浅草金龍寺も近いという土地柄です。長者と貧乏の取り合わせが面白いと川柳や狂歌に取り上げられることが多かったと云います。
長者町 左右に銭も金もあり
銭とは寛永通宝、つまり寛永寺のこと、金は金龍寺のことを掛けたものです。
時代は、シーボルト事件が起こった文政11年から12年にかけて、多くの有為な蘭学者が捕縛されました。馬場為八郎もその一人、すでに蘭通詞の重鎮でしたが、大変な災難に遭遇します。
佐是様、毎回楽しく読ませていただいております。
御徒町、秋葉原付近に貧乏人町があったとは意外な感じがします。現在の街並みからは想像もできない風景だったのでしょう。江戸~東京は、度重なる大火、関東大震災をはじめとする大地震、東京大空襲などでまったく違う姿の都市へ発展していったのでしょう。
伊東玄朴は仁術・算術とも長けた医者だったと理解しました。
シーボルト事件発覚で、蘭学・洋学は暫くの間停滞せざるを得ないのでしょうが、鍋島直正の登場で希望の光が見えたような気がしました。次回以降、種痘成功への道のりが楽しみです。