三節「下谷御徒町」では、勘造が、今や玄朴と名乗り大活躍する様を描きました。伊東玄朴は名医に違いなく、医師を越えて事業家、経営者、もっと言えば政治家の面がありました。その点をよく言う人と、良く言わない人とが半ばする人柄で、嫌う人には堪らない銅臭と映ったようです。私は、玄朴を「名声の伴う金銭を目指す」と唱えて人生を闊歩した人物として描きました。医は仁術か、算術か、ということは今でも話題になりますが、現代はそれに加え、医は学術か、という要素があります。
画期的な制癌剤の基本概念を提唱した京大教授がノーベル賞を受賞した上で、制癌剤の実用化に成功した製薬会社を相手どりもっと特許料をよこせと訴訟を起こしました。結局、製薬会社が教授に解決金として50億円を支払い、京大に設立される「記念研究基金」に230億円を寄付する、と280億円の和解が成立しました。玄朴と似た風合いを感じます。こうした風景に喝采を叫ぶ人と、そうでない人が現代でも半ばするように思います。
ただ言えることは、玄朴のような政治力を持つ人物がいなければ、漢方医の牙城であった江戸の町で、漢方医の陰湿な妨害工作をはね返し種痘を普及させることは何年も遅れたかもしれないと思われます。
大坂では緒方洪庵を中心に江戸よりずっと早く体制を整えました。その洪庵も、玄朴らの推挙を受け、文久2年(1862)に幕府から西洋医学所頭取就任の要請を受けます。洪庵は江戸に行くことが嫌で嫌でしかたなかったようです。居住環境が変わること以上に、伊東玄朴の臭みが嫌いだったのかもしれません。一度は健康上の理由から固辞しますが、幕府の度重なる要請を断り切れず、ついに江戸に赴任し、翌年に客死しました。洪庵の清らかな感じの人柄と玄朴のアブラギッシュな人柄の対比が幕末の蘭方医学界を彩りました。
北薗さま、
九州南部で大雨の予報を多く聞きますが、どうぞ、お気を付けてくださいませ。恒淳
佐是様、毎週楽しませていただいております。
世間の評判を恐れず、我が道を行く伊東玄朴、旧態依然とした体制打破には必要不可欠な人物だったのだろうと思います。
「金なき名声を欲せず、名声なき金を求めず、名声を伴う金を目指す」...様々なケースを想定して考えてみたくなる文章です。
伊東玄朴、緒方洪庵とも生き方は違っても素晴らしい業績を残した偉人だと思います。
適塾での「ヅーフ・ハルマ」の存在価値を知り、なぜかうれしくなりました。
玄朴の治療費の考え方の場面では「赤ひげ診療譚」の新出去定を思い浮かべてしまいました。