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執筆者の写真佐是 恒淳

『種痘の扉』第四章一節

 一節「本所番場町」では、勘造が師の猪俣伝次右衛門とその家族に同伴し、長崎から江戸にでてくる場面から始まります。シーボルトの江戸参府のすぐ後ろを追うような形でした。猪俣伝次右衛門は途中、客死し、勘造は猪俣の娘照を託されることになりました。

 猪俣の長男源三郎が天文台に勤務を開始し、勘造もそれを助ける形で天文台に出入りするような生活を一年、勘造は実家の仁比山に所用ができて帰るついでにシーボルトに届け物を頼まれました。禁制の地図だったのです。勘造が九州から江戸に帰ると、町奉行から捜索を受けていることを知ります。勘造の度胸と機転で南町奉行の筒井政憲に申し開きをして放免となりましたが、危ういところでした。これが、翌年、シーボルト事件に発展します。

 勘造の取調べを行った南町奉行の筒井政憲はドゥーフ帰国時の長崎奉行でもありました。幕末、川路聖謨とともにプチャーチンと長崎で開国交渉に臨み(嘉永六年〈1853〉12月)、ぶらかし策でプチャーチンを翻弄したことでも知られます。このとき、筒井、七十六歳。ロシア側と雑談を交わしているとき、「最近、孫娘がお産まれのこと、めでたいことです」とのプチャーチンの言葉に、「なんの、我が娘にござる」とやって、ロシア側からやんやの喝采を浴びた人物です。豪快とも洒脱とも言うべきなかなかの人物だったとどの本にも書いてあります。こんな人物に取調べを受けたのも勘造の幸運でした。

 勘造が江戸市中に名を知られるようになったのは、ジフテリアを上手く治療したからでした。いまでこそ抗血清や抗生物質による治療がありますが、勘造がどのような治療をしたのか、いろいろの文献を調べて私が想像した療法を書いてみました。明治初期の本では制吐剤を使うという記事があって、これを基に想像したもので、史料に基く処方ではありません。


 ごく些細な原因で、原稿をアプロードできずにいました。一週間を経て、その原因に気付き、ようやく更新できて、ほっといたしました。引き続き、ご愛読賜れば幸いです。


                         恒淳  




  


閲覧数:17回2件のコメント

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2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
May 29, 2023

佐是様、今回も楽しく読ませていただきました。


勘造が国禁の地図を運んでしまったとは、正直に自首したことが幸運を呼び込んだように思えます。筒井政憲、高橋重賢などこの時期の長崎奉行には好人物が多い印象です。役職柄、視野が広いのでしょう。

勘造の長屋での一芝居は笑ってしまいますが、御典医などではなく江戸時代のごく普通の医者の生活がどんなものだったのかも知りたいと思いました。

勘造の患者と家族を安心させる言葉、当を得た治療法、納得しながら読んでおりました。

勘造がどういう活躍をしていくのか、鳴瀧塾周辺の変化など、次回以降も楽しみです。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
May 30, 2023
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北薗さま、

 変なことが起きて一週間遅れてまいましたが、お読みいただきありがとうございます。


 伊東玄朴には毀誉褒貶が付きまといます。玄朴を嫌う代表は松本良順で、「蓄財に長け(中略)利を先んじ、医を之につぐという方であった。従って門に集まる者は医を商売と心得るやうな人間が多数を占めて居た」「私多く、好んで小人と親しみ、その為す所大抵私利に出でざるはなく…」という人物評を残しました(『伊東玄朴とお玉ヶ池種痘所』深瀬泰旦 2012出門堂)。一方、石黒忠悳によれば、玄朴は医学者というより事業家の才に秀でた人物として西洋医学の発展に貢献したと高く評価されました。

 玄朴の理財の才を良く言うか、悪く言うかの見方の違いでしょう。いずれにせよ、蓄財、利殖、金勘定が飛び切り上手いという点では異議がないようです。私は、これを銅臭と表現しました。まぁ、すこしネガティブなニュアンスを含ませつつ、しかし、蓄財に対し凄みのある執着と敏腕を持った人物だと思ったからです。緒方洪庵とは全く対照的な人物だったでしょう。こういう人物が種痘の普及を担い、特に江戸では、漢方の強固な牙城の中で種痘を普及させた辣腕は、やはり凄いと思います。玄朴がいなければ、江戸の種痘はよほど遅れたのではないでしょうか。そんな話がこれから続きます。

                            恒淳 


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