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執筆者の写真佐是 恒淳

『種痘の扉』第四章六節

 六節「長崎出島外科館」では、ジャワから運ばれた牛痘漿がやはり発痘せず、依然、日本に牛痘種痘が導入できず苦悩する楢林宗建の姿が描かれます。ブロンホフの頃からシーボルトの時代を経て、未だ、活性の保持された牛痘漿の導入に成功していないのでした。来年もまた、同じように牛痘漿を運んできても、牛痘種痘の成功する見込みは全くないと宗建は見切りました。夏の期間に南支那海を経由して長崎に来ると、温度によって牛痘漿は失活すると見当はついていました。苦悩する目で在来の書を追って、宗建はついに一策を講じました。この方法しか、もうない、これでだめなら、日本に牛痘種痘は導入できないとまで思いつめて考案した新しい方策でした。


 一方、江戸では蘭方医学への圧力がかかり、将軍家奥向きの医師は漢方医に限るとされ、締め出されてしまったのです。さらに蘭方医学書の翻訳出版にも強い制約がかかり、伊東玄朴は蘭方医学の存続の危機ではないかとまで思いつめていました。漢方医学の迫害を打破する策はただ一つ、牛痘種痘を普及させることだと策は練っていましたが、届いた牛痘漿が失活しているのでは如何ともできません。


 宗建、玄朴(いずれも佐賀藩主鍋島斉正の家臣格です)の祈るような願いのもと、ついに牛痘痂皮が届きます。嘉永二年(1849)、牛痘痂皮による牛痘種痘は成功しました。ペリー来航の四年前です。佐十郎がドゥーフに牛痘種痘の話を聞いてから半世紀も経っていました。牛痘種痘がこれほど遅れたのは、鎖国のせいで外国人小児を長崎に上陸させる許可をださなかったこと、オランダ船が長崎に来航するのは夏季に限られていたこと、などの事情をあげられます。五十年間も、独り日本だけが牛痘種痘の恩恵にあずかれなかったのです。

























近所の公園に咲く大百合カサブランカの花です。

林の下で、大きな百合の花が強い芳香を放ち、

夏が来たとアピールしています

閲覧数:14回3件のコメント

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3 Comments


佐是 恒淳
佐是 恒淳
Jul 01, 2023

北薗さま、

6月28日(水)、29日(木)、関東は激しい雷鳴を伴った暴風雨になりました。近隣ではゴルフボール大の雹が降って被害をだした地区もあります。拙宅は何の被害もなく、無事でした。

奄美大島の大雨から始まり、熊本、大分の大雨、線状降水帯など心配な報道がありました、北薗さまの御宅は御無事だったでしょうか。お気をつけてお過ごしください。

                                   恒淳


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北薗 洋藏
北薗 洋藏
Jul 01, 2023

佐是様、今回も楽しく読ませていただきました。


膿漿と痂皮との違い、門外漢には考えも及びません。健三郎たちへの痘漿、痘痂の接種、成功か失敗か、思わず引き込まれて読んでいました。ジェンナー以来半世紀、先人たちの苦労努力の賜物ではありますが、漢方医の牛痘種痘に対する反撃策が気になります。牛痘種痘普及へ伊東玄朴、楢林宗建、鍋島斉正、伊達宗城たちの動きに期待します。


天候不順がしばらく続くようです。水害、土砂災害等には十分お気をつけください。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Jul 01, 2023
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北薗さま、

膿とカサブタの違いに気が付くのは、当時の人も長い時間がかかりました。カサブタに目を付けた宗建の着想に胸が熱くなります。江戸を除く日本のほぼ全域に牛痘種痘が広がっていきます。その都度、その地域ごとに、いろいろの障害がありましたが、それを乗り越え、独自に工夫し、システムを整えて牛痘種痘は着実に広がっていきます。蝦夷地でアイヌに天然痘が大流行したため、箱館奉行の献策もあって、幕府は牛痘種痘のために医師を派遣して大きな効果を収めました。このあたりの事情を書いた小説に、吉村昭の『雪の花』『北天の星』や桑田忠親の『蘭方医桑田立斎の生涯』などがあり、御存知のことと思います。日本人が懸命に種痘に取り組んだ苦労と熱意に頭が下がります。


江戸では、いよいよ、伊東玄朴率いる蘭学医と多紀元堅率いる漢方医が、己の学問の存在意義をかけて対決する日が近づきます。

                             恒淳 

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