『種痘の扉』の第二章四節「築地鉄砲洲」では、江戸で佐十郎が活躍する様が描かれます。
『新鐫総界全図』の次の目標となった『新訂万国全図』の作成にも関わりながら、許可の下りた蘭学塾「三新堂」で新たな方針のもと蘭語教授を開始しました。佐十郎が整理した文法体系に基く画期的な蘭語読解法は江戸の評判をさらい、多くの蘭学徒が集まりました。
その中には、蘭語研究に熱中する豊前中津藩の藩主奥平昌高もいて、昌高は後に蘭和辞書を編纂するに至ります。昌高は薩摩藩主島津重豪の次男として生まれ、重豪の蘭学友達奥平昌鹿の息子昌男が急逝した際に中津藩に養子に入り藩主を継ぎました。実父、養父ともに蘭学好き大名(当時、蘭癖大名といいました)だったので、昌高が蘭学に興味をもつのも自然なことでした。中津藩には、かつて藩医の前田良沢が出て『解体新書』を訳出し、のちに福沢諭吉を輩出した藩です。強い蘭学の学風が引き継がれていた藩だったと思います。
鉄砲洲にあった中津藩邸には藩主昌高の趣味を反映し、総硝子張りの部屋を設け阿蘭陀の什器、文物などを飾ってあったといいます。
佐十郎の活躍は、それだけではありません。大槻玄沢に背を押される格好で品詞論を説いた文法書を完成させました。体系だった文法論には、品詞の概念を確立し、その機能を整理する必要がありました。
ドゥーフが江戸に出府したおりには出迎え、高橋作左衛門や大槻玄沢ら、江戸を代表する蘭学の徒らと一席をもちました。出府したオランダ商館長らと交わされた西洋事情を巡る話は大槻玄沢が「西賓対晤」としてまとめ、寛政6年(1794)から文化11年(1814)にかけて6回の江戸出府時の対話が掲載されています。佐十郎は、文化7年、11年の会合に出て、通訳が見事なので会話が円滑に流れたことが記されています。
素晴らしい才能が江戸の地で活躍の場を与えられ、爛漫と咲き誇る情景は、心が躍ります。
佐是様、今回も大変勉強になりました。
幕末に重豪の子黒田長溥が活躍したことはおぼろげながら知っていたのですが、奥平昌高がこれほど蘭学発展に貢献していたとは驚きました。
後々の西洋文化吸収の基となる阿蘭陀語文法研究を行った佐十郎をはじめとする人々に敬服するばかりです。
学生時代にこのような経緯を知っていれば、もう少し真面目に外国語に取り組んでいたかもしれません、今となっては手遅れですが。
岩波文庫「北槎聞略」、私には少々難読でしたが、当時のロシアを想像しながら楽しみながら読み終えました。