第二章八節「蝦夷松前」では、幽閉されたゴロウニンが佐十郎にロシア語を教えてくれる姿が描かれます。ゴロウニンは佐十郎を「シュヅォロ」と呼んだことが、「日本幽囚記」によってわかります。ゴロウニンは、佐十郎の熱意に応えたくなって、ロシア語文法書を書いてくれるほどの好意を示しました。
ゴロウニンは足立佐内とも話し、天文学や編暦の知識が豊富なことを知って驚きます。「日本幽囚記」にはゴロウニンが、日本人の計算した月食の日時予測を楽しみにしていたところ、雲が厚く月食が見えず残念だったと書いてあります。本当に月食の開始時刻を日本人が計算できるか興味があったのでしょう。
そのころ、佐十郎はロシアに捕らえられ帰国した者が持ち帰ったというある本を見る機会に恵まれました。それは牛痘種痘の解説書でした。ドゥーフに牛痘種痘の話を聞いてから10年が経っていました。佐十郎は、なかば諦めていた牛痘種痘が、今度は北のロシアから伝わったことに驚き、早速、ロシア人にこの文書の解読を教えてもらいました。
ロシアに捕らえられた高田屋嘉兵衛とゴロウニンを対象とした日露捕虜交換が成立し、高田屋嘉兵衛は帰ってくる、ゴロウニン一行は帰ってゆくことになりました。牛痘種痘の解説書も最後までは指導を受けられませんでした。ゴロウニンらは書籍、地図を日本側においていきました。その中にあった仏露辞典は佐十郎にわたり、のちに、種痘解説書の翻訳に利用されることになります。
日露交渉史では必ず触れられる大切な場面が今週のテーマでした。高田屋嘉兵衛はゴロウニンらを取戻すためにリコルドによって捕らえられました。嘉兵衛は堂々たる人物で、国際的な外交の場でも十分通用するとロシア側にも記録されたほどの人物です。「菜の花の沖」の主人公です。去る2月12日の菜の花忌では司馬遼太郎生誕百年の記念にあたることが報じられました。合掌
佐是様、今回も楽しませていただきました。
江戸時代を考える上で、文中の「日本という国は、交易を拒否するが、情報、知識では国を鎖(とざ)しているわけではないと知った。」ということがキーポイントだと思うようになりました。当時の日本の天文学、数学などのレベルの高さ、庶民の教養度合いにも驚かされます。ロシア水兵はほとんどが文盲のはず、ゴロウニンも驚いたことでしょう。
光太夫、嘉兵衛、ラクスマン、ゴロウニン、リコルドなどの名前を見ると心が躍るようになってしまいました。
中川五郎治については断片的にしか知りません、近いうちに調べてみようかと思います。
司馬遼太郎の「街道をゆく」で、種子島、知覧、坊津なども採り上げられていることを最近知りました。徐々に読み進めていくつもりです。