top of page
執筆者の写真佐是 恒淳

『種痘の扉』第二章五節

 第二章五節「ペトロパブロフスク」では、1811年4月(露暦/カエサル暦)ゴロウニンが日本近海の測量のためにペトロパブロフスク港を出航するところから始まります。

 

 ゴロウニンは1807年7月クロンシュタット港を出帆し、1809年9月カムチャッカ半島東岸のペテロパブロフスク港に来航しました。ここを拠点にオホーツク海と沿岸を調査し、海図制作航海ののちに日本近海に来航することになりました。


 ペトロパブロフスクはベーリングが1740年に開いた港で、以来、カムチャッカの玄関口の地位を占めてきました。この港の様子はクルーゼンシュテルンが書き残していますので、私も小説中に参考にさせていただきました。ペテロパブロフスクは不凍港であるのが重要です。第五節は、『日本幽囚記』ゴロウニン著、『黒船前夜-ロシア・アイヌ・日本の三国志』渡辺京二著、『北からの世界史』宮崎正勝著などに拠りました。

 

 少し話はずれますが、渡辺京二氏は、昨年12月25日、享年92歳で逝去されました。私は、『逝きし世の面影』平凡社ライブラリーを読み、『黒船前夜』でお世話になった方でしたので、ご冥福を祈ったことを思い出します。氏は膨大な資料を博捜され緻密な論考をお書きになる屹立した思想家であり、司馬遼太郎を痛烈に批判したことで知られます。私にとって德川期の日露関係を知るには『黒船前夜』などが格好の教材でした。







レザーノフが長崎奉行に贈った地図。樺太は二島に、歯舞諸島は一島に表記されている。

エトロフからウルップ以北の千島列島が連なりカムチャッカ半島に到るあたりはほぼ正しい地理認識に到っているようである。











 最近、気付いたのですが、「種痘」+「歴史小説」で検索すると、吉村昭の「雪の花」のあとに私のホームページがヒットしました。そこで勢い込んで、「意次」+「歴史小説」で検索すると、大家の既刊本の後に、佐是恒淳の名でnoteに掲載している『将軍家重の深謀-意次伝』の一節がヒットしました。私のような者の作品が検索の1ページ目に上がってきたことに驚きました。読んでくださった方々のお陰だと感謝申し上げます。

                                  

                          恒淳       


閲覧数:13回2件のコメント

最新記事

すべて表示

2 commentaires


北薗 洋藏
北薗 洋藏
28 janv. 2023

佐是様、毎回楽しませていただいております。


ベーリング海などの地名が人名に因んだものとは知りませんでした。

ゴロウニンもレザノフの悪事のために大変な目に遭わされたものです。

日露などの外交関係、牛痘種痘、蘭学などが絡んで進んでいき、今後の展開が楽しみです。


吉村昭、司馬遼太郎とも結構読んできましたが、史実に基づく重みは吉村作品の方が数段勝っていると思います。司馬作品も歴史読み物として楽しんでいます。

J'aime
佐是 恒淳
佐是 恒淳
29 janv. 2023
En réponse à

北薗さま、

コメントありがとうございます。この一週間、列島は寒気に見舞われましたが、いかがお過ごしだったでしょうか。


こうした寒い気温の中、ペテロパブロフスクのことを掲載し、何か温度感が共通するようで面白い気分になりました。ゴロウニンの出帆の頃、湾の全周が真っ白く雪に覆われ、二つの威圧的な火山が北の空に白くそびえたつ荒涼たる湾の風景を思い浮かべました。

この当時、アラスカはまだロシアの領土で、欧露から物資を運ぶ大変さは想像に余ります。カムチャッカ半島、沿海州、シベリアなど、ロシア人の手に余る広大な領土は、ロシア人の精神風土にどのように刻み込まれたのか、ふと想像します。

『ウクライナ戦争』小泉悠著を読みながら、帝政ロシアの頃からプーチンに到るまで、何か、土俗的に共通する世界観があるのかもしれないと思いました。


                       恒淳   

J'aime
bottom of page