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執筆者の写真佐是 恒淳

『種痘の扉』第二章三節

 第二章三節「両国橋南辺」は、文化六年(1809)二月、馬場為八郎が江戸の天文方から長崎に帰る状況が語られます。幕府が、これからは蘭語だけでは不十分で、英語と露語が必要だと認識するに到った背景がありました。為八郎は長崎で、佐十郎は江戸で、新しい語学習得の任務が課されます。父子して語学に熟達した馬場家の誉でもありました。

 

 夏になると『新鐫総界全図』の試し刷りが上がってきました。「鐫(せん)」とは難しい字ですが、彫るという字義を持ちます。ここでは、石や金属に彫るというのではなく、エッチングで細い線もきれいに銅版に刻す技術をさして、高橋作左衛門が地図名に用いました。ぜひ、ネットで御覧になってください。国立公文書館のHPで見られます。



 面白いことに、この地図では日本海が「朝鮮海」と記されています。”日本海”とは日本人の付けた呼称ではなく、西洋側から命名された名称のようです。 


 1809年の段階でこのレベルの地図を作製できたことに、日本人は誇りをもっていいと思います。伊能忠敬の大日本沿海輿地全圖に先立つ業績です。蘭学とは鎖國していた日本にとって、まさに世界を覗く窓のようなものでした。その窓に片隅に種痘技術が見え隠れしてきます。

                              恒淳  






       


















蝋梅の香、清冽に馥郁と

閲覧数:12回2件のコメント

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2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Jan 14, 2023

佐是様、毎回勉強させていただいております。


『新鐫総界全図』を見てみました。驚きの正確さ、200年以上前に作成されたものとは思えません。鎖国政策の影響で日本は文化・学術面で西洋列国に後れを取っていたという私の認識は当たっていないようです。当時の知識層も「阿蘭陀風説書」などで必死に勉強していたのでしょう。

対ロシア、対イギリス政策における通詞職馬場父子の活躍に期待します。


「北槎聞略」を読み始めました。何とか最後まで読み通したいと思っています。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Jan 14, 2023
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北薗さま

コメントを賜り、なによりの励みにさせていただきます。


おっしゃるように、日本は鎖國してはいましたが、天文学、数学、物理学、医学、博物学などの自然科学領域では相当の欧州知識を持っていました。書いたもので、きちんと先端レベルを追っていました。

あとになって小説に出てきますが、ゴロウニンは日本人がカエサル暦(露暦)とグレゴリオ暦の違いを認識し、対数、三角関数の数表を直ちにそれと言い当て、日食・月食を計算できることを知って驚きます。さらに高等教育をうけたわけでもない一般庶民をみてさえ、この国はすごいという感想を持ちます。『日本幽囚記』(上中下、岩波文庫)には、その素直な驚きと賛嘆が書かれてあり、当時のロシア人から見た日本人の質の高さがうかがい知れます。


それだけでなく、阿蘭陀風説書によって外交関係、国際情勢も相当のレベルで知っていました。ただ、入ってくるのは阿蘭陀一国からでしたから、情報の偏りはありました。阿蘭陀に都合の悪い情報は秘匿されたというわけです。オランダがフランス(カトリック国)の支配下にはいったことをドゥーフが必死に隠そうとしていた事情はすでに述べたとおりです。


「鎖国」という概念も、国を鎖す=完全孤立 と取られることがありますが、必ずしもそうではありません。付き合いのあったのは、国家間(通信)では朝鮮と琉球、非国家間(通商)では唐国(清朝)、阿蘭陀であり、日本人の海外渡航/帰国だけは完全に禁じられていました。もちろん漂流でやむを得ず外國に行って帰国した者は別です。そうした環境で、小さな窓から外国情報を熱心に取っていたというわけです。日本とはこの時代から、日本人が思っている以上に、世界の中で重要な国、進んだ国だと思うのです。

                           恒淳


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