第二章七節「蝦夷松前」では、佐十郎が露語研修のため松前に派遣され、捕縛したゴロウニンからロシア語を習うことになります。
日本はゴロウニン捕縛を機会に、先般起きた露寇の謝罪文をロシアの然るべき立場の者に書かせようとしました。ただ損害賠償させようという考えはなかったようです。それだけでなく、ロシアを隣国と認識し国境の画定交渉が必要なことを知りました。今でも通用する外交の基本だと思います。
佐十郎にとって、ドゥーフから牛痘種痘のことを聞いたのが享和三年(1803)17歳のこと。ゴロウニンからロシア語を習うのは文化三年(1813)27歳のこと。ここで二回目の種痘との出会いがあります。10年たって、なお、佐十郎は種痘と不思議の縁があるのです。そのあたりは、次回となります。
雪中紅梅
佐是様、毎回楽しませていただいております。
ゴロウニンとの遣り取りを通じての佐十郎のロシア語理解が、ゴロウニン事件解決のみでなく、後の外交、洋学、医学、種痘に大きな影響を与えたことでしょう。次回以降、この事件の牛痘種痘への影響と展開が楽しみになりました。
数日前、岩波文庫「日本幽囚記」を読み終わり、ゴロウニン、リコルド、高田屋嘉兵衛の人間性、行動に感服した次第です。特にリコルドの高田屋嘉兵衛評が記憶に残ります。
残念ながら、訳注の日本側文書原文の候文は私では歯が立ちませんでした。