第三章六節では、蘭ジャワ総督府の会議において、ドゥーフやブロンホフの評価が語られる様子が描かれます。この場で、フランス支配から脱したオランダ王ウィレム一世がジャワ総督府に伝えた新しい対日通商方針が紹介されます。
オランダ王が送り込んでくる調査官は医師のシーボルト。日本の文化、歴史、産業情報、兵要地誌、貿易品の候補などを広範に調査するのが任務でした。その活動を支えるのが、次期商館長の選考基準とされたのでした。シーボルトの活動こそが、新しいオランダの対日通商方針の基礎となるはずでした。オランダの国をあげてのシーボルト選考過程は前節に書きましたが、いかにオランダがシーボルトに期待することが大きかったか、おわかりでしょう。
一方、急逝した佐十郎の墓碑開眼法要に多くの法要客が宗延寺を訪れ、学恩を感謝し故人を悼みます。佐十郎の遺児はまだ幼く、列席者の涙を誘います。現在、杉並区堀之内3-52-19に移転した宗延寺に墓碑銘は残り、論文によって活字で読むことができます(勝俣銓吉郎「語学の逸才馬場佐十郎」新小説 七月号 大正一五、板澤武雄「洋学界の新進馬場兄弟」歴史教育六巻一一号 昭和三三年)。墓表は「轂里馬場生之墓」と読め墓石の三面に亘って銘が彫ってあるとのことです。高橋景保の撰になる佐十郎の一代記で、丁寧に読むと、今でも心を打つ痛切な銘だと思います。私に掃苔の趣味はあまり強くありませんが、宗延寺の佐十郎の墓は行って見たい気がします。
自邸の牡丹
佐是様、今週も楽しませていただきました。
オランダの蘭学発展への貢献に隠された貿易独占の意図、またそうせざるを得なかった列強圧力増大の時期だったことを理解できました。
漢詩など理解できずに読み飛ばしてしまいがちな私ですが、佐十郎の墓碑銘は確かに人柄や業績、無念さが伝わってきました。
次回以降もシーボルトや蘭学界の動きを楽しみにしています。