第三章 失活 一節では、長崎出島に八年ぶりにオランダ船が来航する場面が描かれます。ナポレオンの没落によってオランダが独立を果たし、ジャワにおける東インド会社の活動が元に回復したのでした。このつらい連絡不通の時期を耐え抜いたドゥーフの悦びたるや、いかばかりかと想像します。この期間にドゥーフが編んだ「ズーフハルマ」は後の蘭学のために大きく貢献しました。
後任商館長はブロンホフ。佐十郎始め、多くの長崎蘭通詞に英語を教えた人物です。ブロンホフは、佐十郎と結んだ痘苗を日本に持ち込む約束を果たそうと努力します。痘苗搬入に事寄せて、妻のティティアを出島に住まわせる秘密の計画を胸に、妻を長崎に同伴したものの、結局、幕府からは、ティティアの出島居住の許可を得られませんでした。泣く泣く夫婦を分かれざるをえなかったのです。ティティアは数ヶ月間、出島に住んで、その肖像画が今なお、残っています。
ブロンホフ家族図(川原慶賀作)。左からヤン・コック・ブロンホフ、乳母のペトロネラ、息子のヨハンネス、妻のティティア・ベルフスマ、ジャワ人の下男、下女
北薗様、
コメントありがとうございます。
北薗様は田の神様(タノカンサァ)の専門家でいらっしゃいますから、このような習俗も御存知なのだと感心いたしました。墓誌とか石仏、石神から表面を砕いて薬にするという習俗があったのですね。これをされると、あっという間に元の本体は傷んでしまいますが、そこに当時の民の切実な願いを見る気がして、胸に込み上げるものがあります。
我が子が痘瘡で瀕死の重症にあえいでいるとき、親はどんなものにでも縋りつくでしょう。削った石の微粒子でも我が子に呑ませようとするでしょう。そんな悲痛な思いが込められたタノカンサァの欠損だと見ると、切なすぎて、目頭が熱くなりました。
佐是様、今回はこの時期のヨーロッパと日本の出来事を理解できました。
長期間祖国が危機に陥っている時期、出島を守り通したドゥーフをはじめ商館員の苦労は想像を絶するものだったのでしょう。勲章授与も当然のことだと思います。
ブロンホフの妻子帯同を利用した痘苗持ち込み策、なるほどと思いましたが失敗に終わり残念です。日本での牛痘種痘への理解、痘苗搬入などまだまだ紆余曲折があるように思われます。次回以降の展開が楽しみです。
小説とは直接関係はありませんが、田の神様を削って疫病の薬にしていた例がありましたので写真をお送りします。ただの自然石に見える方が桑原の田の神様、衣冠束帯型の田の神様が南方神社の田の神様。元々は同型の田の神様だったそうです。宮崎県都城市山之口町に鎮座していらっしゃいます。