第一章「遠鳴」四節「長崎南馬町」では、佐十郎の生い立ちが語られます。佐十郎の父、馬場為八郎は、実は佐十郎の十八歳年上の兄でした。馬場家に養子に入った為八郎は弟佐十郎を養子にとって蘭語を教え、学問が進んでからドゥーフに教授を頼んだというわけでした。佐十郎は幼少のころから英才教育を受けて蘭語の才能を花開かせたひとでした。
為八郎は、佐十郎がドゥーフから聞いてきた牛痘種痘の話をドゥーフに改めて尋ね、長崎奉行にも了解をとって、朋友の吉雄献策に相談に行きました。ドゥーフの狙い通り、日本人は大きな関心を示し、ジャワのオランダ政庁から牛痘苗が送られてくるまでの数年間に、日本の蘭医師の間に気運を高めておこうという準備の第一歩となったのでした。
吉雄献策は吉雄耕牛の息子で、蘭通詞から蘭医師に転じた人でした。父が有した大勢の蘭学者のネットワークを引継ぎ、最新の蘭情報を伝える役目の中心人物でした。献策がこれまでの人痘種痘の試みをわかりやすく馬場父子に説明してくれました。中国式の人痘種痘や、以前、蘭商館医がデモンストレーションしてみせたトルコ式人痘種痘など、当時の種痘の状況がわかります。献策は英国の最新の発明になる牛痘苗と体系だった療法が早く日本に舶来することを期待し、日本の蘭医師に伝える役割を演じることになります。
馬場佐十郎が生涯三度、種痘について異国人から啓示を受けたという最初の経験がドゥーフの牛痘種痘の話でした。それは、1803年の段階で日本の蘭学者の間に知られ始めたのでした。ジェンナーの発表からわずか五年目のことでした。ジャワのバタビアのオランダ政庁に牛痘苗が届くのは1804年のことです。以後、東南アジアでは、次々に牛痘種痘が広まっていきます。
佐是様、今回も興味深く拝読させていただきました。
当時の人痘種痘法の様子が生々しく描かれていると感じました。
天然痘の治療法が確立されていないこの時代、病気の怖さを知っている人々は多分人痘種痘さえ敬遠したのではないでしょうか。人痘種痘もですが牛痘種痘を普及させるには、想像を絶する努力が必要だったのでしょう、令和の時代でもコロナワクチンさえ拒否する人が存在するのですから。
牛痘種痘法の翻訳、痘苗の入手、効果・安全性の証明、人々への啓蒙 ...まだまだ道のりは遠いような気がします。