第一章「遠鳴」八節「長崎梅が崎」では、ナジェージダ号で来航したレザノフが長崎港に停泊し、日本側に通商の希望を申し立てる場面が描かれます。ロシア語、満州語、日本語の三か国語で露皇帝親書が作成されていましたが、日本語版を含め、どれも日本人には読めず、オランダ語の会話で親書の意味を確認しました。
長崎から江戸に判断を仰ぎ、幕府の意向を携え目付の遠山金四郎景晋が長崎にやってきて、拒否の旨、ロシア側に回答するという経過をたどりました。レザノフの長崎入港が文化元年(一八〇四)九月六日、長崎出航が文化二年(一八〇五)三月十九日。半年間、ロシア艦は長崎で待たされました。レザノフを除き、船員は下船することも許されず艦上で過ごしました。船員たちは、秋、冬、春と季節の移り替わる美しい長崎の町にどれほど行って見たかったことでしょう。
目付の遠山景晋は天保の頃、北町奉行を勤めた遠山景元、遠山の金さんの父親です。wikipedia では「かげくに」または「かげみち」と訓じていますが、『近世日本国民史』德富蘇峰(25巻)に準拠し、ここでは「かげかた」としました。
ロシア側は半年も待たされたあげくに、拒否の回答では不満だったと思いますが、そもそも、勝手に押し掛けてきて何を言うか、という感情が日本側にありました。日本が開港、通商を許すのは、こののち50年も先のことです。幕末の開港だ、攘夷だという大騒ぎは、その淵源が50年も前に兆していたということです。
長崎出島図(2017年4月 出島史料館にて撮影)
佐是様、毎週楽しみにしております。
ロシア国書の理解にロシア語、満州語、日本語、オランダ語を必要としたことに通詞役の為八郎などは大変な苦労をしたことでしょう。英語も理解できない自分が恥ずかしくなります。
永年不凍港を懇望し、また通商を希望しているロシアが今回の交渉拒否を素直に受け入れるとは思えません。今後のレザノフの行動が気にかかります。交渉に関われないクルーゼンシュテルンの口惜しさが分かるような気がします。
ブログに採り上げられている「近世日本国民史」を全巻読むことは私には無理だと思いますが、徳富蘇峰は西郷隆盛についても多く書いているそうなので、ダイジェスト版でも読んでみようと思います。