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執筆者の写真佐是 恒淳

『種痘の扉』第一章五節

 第一章「遠鳴」五節「長崎外浦町」では、若き佐十郎の育った長崎蘭学界の雰囲気が語られます。蘭学界のレジェンド志筑忠雄(中野柳圃)は、大著ケイル全書の翻訳を続け、『暦象新書』上中下の三巻を始め、『求力法論』、『三角提要秘算』、『動学指南』、『天文管闚』などの訳業をついに終えました。あとの人生は後進の指導に捧げると決めていました。これまでは弟子を取る時間を惜しんで翻訳にいそしんできましたが、新たに弟子となった大槻玄幹、吉雄六二郎、馬場佐十郎らに文法体系として蘭語を教えました。知識のかけらではない堅固な体系を学んだ中野門下生は、このあと蘭学界に大きな影響を与え活躍します。


 ニュートン力学、天文学、数学など、蘭語文献だけで西洋自然科学の最先端まで理解する日本人の知的水準は長崎で準備されました。18世紀後半に長崎で達成された蘭学の成果は19世紀になってさらに発展していきます。そうした西洋学問受容の努力の結果、牛痘種痘の導入と明治維新を支える西洋知識が用意されたのでした。

 蘭学の有名な業績として知られる『解体新書』の刊行は安永三年(1774)、田沼意次が政権を担った時代でした。田沼政権の自由な考え方がオランダ文献の翻訳書刊行に何も障害を与えませんでした。後年、幕府が蘭学に強い抑制をかけたことと全く異なる対応でした。

 そんな時代が過ぎ、蘭学が大きな発展を遂げようとする19世紀初めがこの小説の背景です。






閲覧数:10回2件のコメント

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2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Nov 21, 2022

佐是様、毎回楽しみにしております。


今回は18世紀後半から19世紀初頭にかけての長崎の蘭学発展の様子を楽しませていただきました。これからの柳圃門下四俊をはじめとする若者たちの活躍に期待を持ちました。

それにしても、田沼意次の政策が蘭学の発展に寄与していたとは思いも及びません。改めて考えれば、鎖国政策の下では洋学禁止が当然の流れなのかもしれません。田沼は学問の世界でも隠れた恩人なのでしょう。


若い時分に勉学意欲皆無に等しかった自分に反省しきりの今日この頃です。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Nov 21, 2022
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北薗様、

コメント賜りありがとうございます。


私は小説執筆にあたり、蘭学が柳圃から四峻の弟子に引き継がれ大発展をとげる19世紀初頭の経緯を知りました。日本における蘭学とは、蘭語で書かれたものによって西洋の学問や政治の動向を知るというやりかたです。佐十郎が文法体系を著し、蘭学を志す学徒が佐十郎の著作を読めるようになって発展をとげました。蘭学到達点のピークは、例えば、高野長英の蘭医学、佐賀藩主鍋島直正や伊豆韮山代官・江川太郎左衛門らの反射炉造成、咸臨丸による米国航海などが上げられます。


高野長英は小説後段に出てくるので、ここでは述べませんが、反射炉は蘭語の技術書を読んで日本人だけの手で造成したものです。韮山反射炉は現存します。その後、薩摩藩も長州藩も追随し、いまでは日本の世界遺産の一部を構成します。書いたものだけでよくぞ造れたと思います。咸臨丸の航海にしてもオランダ海軍士官から教えをうけた航海術が基本にあるのですが、教わるにしてもある程度の蘭語水準が必要でした。勝海舟の逸話に必ず登場する蘭日辞書ズーフハルマは商館長ドゥーフの廻りに蘭通詞が結集して作成されたものです。日本が本格的に自然科学を受容することを準備した時代でした。牛痘種痘はその一環です。


我々の世代の高校英語教育において、英文解釈という授業がありました。受験英語の代表の様に言われ最近では、はやらないようですが、当時はサマセット・モーム、バートランド・ラッセルなどの高尚な思想と文章がワンパラグラフほど引用され、訳文を書くものでした。名詞に係る関係代名詞節をうけて、後ろからひっくり返って和訳し、「・・・するところの〇〇」と訳をつくる練習でした。こうした読むための外国語教育は、もしかすると、佐十郎のころから始まった蘭文読解の影響を受けた残滓かもしれないと思ったりもしました。

                             恒淳 


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