馬場佐十郎は牛痘種痘を日本に導入しようと、生涯、献身的な努力を積み重ね大きな礎を作った人です。
馬場為八郎の娘たけが生まれたのは寛政八年(1796)、亡くなったのは寛政九年(1797)7月28日だと教えてくれるのは、『連座 シーボルト事件と馬場為八郎』吉田昭治著(無明舎出版1984)です。たけが疱瘡で死んだと設定したのは私の創作で、根拠があったわけではありません。妹の死をきっかけとして、佐十郎は牛痘種痘を日本に導入するため献身的な努力を重ねることになったと考えました。
佐十郎は不思議と牛痘種痘と縁がありました。自ら述べるように、生涯三度、牛痘種痘の話を聞いたというのです(日本思想体系65「洋学 下』P363、岩波1972)。
「最初、長崎ニテ和蘭人ヨリ聞キ、後、松前ニ於テ魯西亜人ヨリ其書ヲ得、今、又相州ニテ諳厄利亜人、其書ト痂トヲ与ヘント云フ」
蘭露英による三度の奇縁に導かれ馬場佐十郎が牛痘種痘導入の努力を積み上げたことに心が動いて、私はこの小説を書きました。その根っこに、妹の死があったと思うのです。
語学の天才がいかに蘭語を文法的に体系立てて蘭学界に伝えたか、佐十郎の出たことによって、日本人の蘭語理解は全く質の異なる高みへと押し上げられます。
現代日本では、コロナ第七波が終熄に向かいそうな、また微増しつつあるのかと心配したくなるような微妙な時期にあります。感染症のパンデミックに日本人がどう立ち向かうか、痘瘡と重ね合わせながら、どうぞ、最後までお読みいただければ幸いです。
恒淳
追伸
このたび、このサイトのアドレスを、
といたしました。今までどおり
でも入れますが、新アドレスをお伝えします。
さらに「歴史小説のお誘い」でgoogle検索すると、ちゃんとヒットするようになりました。『将軍家重の深謀』の連載を完結したのを機に、wixにお金を払ったところ、効果てきめん、ネット上で認識されるようになりました。アクセスが増えれば、さらに一般検索でもヒットするようになるかもしれません。ネット社会一端を垣間見た気がしました。
新潟県清津峡にて
佐是様、「種痘の扉」も楽しみにして読み進んでいきたいと思っております。
江戸時代の日本で、種痘について牛の病を人にうつすことに相当な抵抗があっただろうということは想像に難くはありませんが、イギリスでも論文が王立協会に断られるなどジェンナーの苦労と努力が偲ばれます。
種痘に限った話ではありませんが、仮説を立て、地道にそれを実証していく科学者の粘り強い努力に頭の下がる思いです。
馬場佐十郎をはじめとする登場人物の牛痘種痘普及への展開に期待しています。
ストーリーとは全く関係ありませんが、長崎の墓前の酒宴の場面で6月に行った沖永良部島を思い出しました。沖永良部島の墓の敷地は通常の数倍~十数倍が普通のようです。お盆と正月には、親戚が集まって墓前で宴会を開くということを聞きました。長崎の墓前での酒宴も南方文化の影響かもと思ってしまいました。