第一章「遠鳴」第三節「長崎出島主官館」では、長崎出島のオランダ商館長ドゥーフが佐十郎の蘭語教授を終え、島を散歩しながら回想する場面が描かれます。
佐十郎はオランダ通詞馬場為八郎の息子で、今や十七歳に成長しました。ドゥーフは為八郎に頼まれ佐十郎に蘭語と仏語を教えています。教え始めてすぐに、その優秀さに驚かされ、日々、佐十郎の蘭語習熟を楽しみにしています。
当時オランダはナポレオン率いるフランスから属国にされ、オランダ国旗が翻っていたのは世界中で長崎出島だけでした。ジャワのオランダ総督府は、敵対するようになった英國海軍から攻撃されるため日本向けの貿易船を出せなくなるほど追い詰められ、辛うじて米国船籍の船をチャーターして日本に向かわせていました。
こうしたなか、対日貿易をなんとか維持しようとドゥーフの課題は山積していました。オランダの置かれた難しい国際状況を背景に、蘭日関係を発展させるため、発見間もないジェンナーの牛痘苗を日本に提供し牛痘種痘を支援すれば、幕府から多大の感謝を寄せられるだろうと考えます。その事前準備として、先ずは佐十郎に牛痘種痘のことを伝え、長崎の蘭方医に向けてアナウンスする策を考え付きます。佐十郎が種痘と関りを持つ初めの出来事でした。
長崎出島は近年、復元され、昔をしのぶよすがになっています。扇形の僅か3,969坪の狭い埋立区域でしたが、ここでどれほど重要な歴史が通り過ぎていったか、感激しながら歩いたのも五年前となりました。
恒淳
大波止から江戸町通を経て出島橋から出島を望む(2017年4月撮影)
北薗さま、
『種痘の扉』にも温かいご声援を賜りありがとうございます。前作『将軍家重の深謀-意次伝』同様、ご高覧いただければ幸いです。
御写真を拝見し、日本に渡来した人継代牛痘苗を日本の牛に接種したことがあったのかもしれないと思いました。たしかそんな論文を読んだ記憶がうっすらと浮かびました。御写真のおかげでそんな感慨を呼び覚ますことができました。
今や長崎の町なかに取り込まれてしまった出島が、江戸時代、海に突き出た埋め立て島だったと思いながら長崎を歩いた5年前の取材旅行を思い出します。長崎の町は、このあとたくさんの場面の舞台に設定しました。なつかしい思い出です。
恒淳
佐是様、2年前に行った長崎の様子など思い浮かべながら読んでおります。
不安定な立場に追いやられたドゥーフの心情が思いやられます。
江戸時代の日本人が、牛の病を基にした牛痘種痘を簡単に受け入れるとは思われませんが、今後のドゥーフと佐十郎の種痘普及への動きを注意深く読み進めていきたいと思います。
ついでながら、出島に行ったときに種痘の展示の写真に収めておりました。