top of page
執筆者の写真佐是 恒淳

『種痘の扉』余語 1823年8月11日

 今年の8月11日はシーボルトの来日(来崎)200周年記念日だそうです。

 拙作をお読みいただく読者の一人に、新潟在住の御婦人がいらっしゃいます。この方は、御主人が医師でビュルツブルグに留学された折、家族でビュルツブルグにお住まいになられ、ご自身もかの地で留学された御経験をお持ちです。『種痘の扉』第三章失活・五節「ビュルツブルグ」を掲載した直後、ビュルツブルグの地名やら町のことが懐かしいと温かい激励のお便りをいただき、お礼を申し述べたことがありました。

 御婦人は、独日シーボルト協会・ヴュルツブルクの会員でもあられ、今回、協会から送られてきたシーボルト来日200周年の祝意を告げるメールを私に転送してくださいました。以下に転記させていただきます。


Sehr geehrte Mitglieder, sehr geehrte Japanfreunde,

vor 200 Jahren, am 11. August 1823, betrat Philipp Franz von Siebold nach einer langen Reise in Nagasaki erstmals japanischen Boden. Das sollte der Beginn einer lebenslange Auseinandersetzung mit dem bislang unbekannten Land in Fernost werden. Gestartet war der gebürtige Würzburger knapp ein Jahr zuvor, nämlich am 23. September 1822 in Rotterdam mit dem Schiff "Jonge Adriana", das am 13. Februar Batavia (ht. Jakarta) in Indonesien, den Verwaltungssitz der Niederländer in Südostasien, erreichte. Im April 1823 brach Siebold dann von Batavia in Richtung Nagasaki auf.

Damit begann die Erforschung Japans: Das Deutsche Adelsblatt nennt Siebold "den Humboldt Japans", wir als Siebold-Gesellschaft ihn den "wissenschaftlichen Entdecker Japans".

Das ist für uns, wie auch für unsere Freunde in Nagasaki, Grund genug, die 200ste Wiederkehr der Ankunft Siebolds mit einer Reihe von Aktivitäten zu feiern.


(私訳)

親愛なる会員の皆様、日本の親愛なる友人の皆様、


200年前の1823年8月11日、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは長崎までの長旅を経て、初めて日本の土を踏みました。 これは極東のこれまで知られていなかった国を生涯かけて分析する始まりとなるはずでした。 彼はヴュルツブルクで生まれ、来日のほぼ1年前、1822年9月23日にロッテルダムから「ヨンゲ・アドリアナ」号で出発し、1823年2月13日、東南アジアにおけるオランダ政庁所在地、インドネシアのバタヴィア(中部ジャカルタ)に到着しました。1823年4月、シーボルトはバタビアから長崎へ向かいました。


これが日本探検の始まりでした。ドイツ・アーデルスブラット紙はシーボルトを「日本のフンボルト」と呼び、私たちシーボルト協会はシーボルトを「日本の科学的発見者」と呼んでいます。


これは、私たちと長崎の友人たちにとって、シーボルト来航 200 周年をさまざまな活動で祝う十分な理由です。


……


「シーボルトの生涯とその業績関係年表1」(石山、宮崎:西南学院大学国際文化論集第26巻第1号155-228頁2011年9月)によると、1823年の項は、

8月9日(文政6年7/4)伊王島北端を廻る。数人の日本の役人と通詞が来船する。

8月10日(7/5)数人の通詞と御番所衆が来船。流暢なオランダ語を話す通詞に驚く。オランダ人でないことが露見しそうになるが,辛うじて免れる。長崎口港に入る。

8月11日(7/6)港内に曳航する。

8月12日(7/7)出島水門から上陸。外科部屋に居住。


8月11日、12日のずれがあって、日本で西暦1823年8月12日の朝は、ドイツでは11日深夜ということかもしれませんし、11日長崎湾内に入った日を記念日としたのかもしれません。本質的なことではありません。協会の文中、バタビアを出港し長崎にむかったのは1823年4月とありますが、上記論文では、6月28日とされています。



文政6年1月に佐十郎の墓碑開眼法要が行われ、7月にシーボルトが来日しました。それから200周年というわけです。往時茫々の感を噛みしめました。


                               恒淳



















閲覧数:11回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page