第三章一節「道を探す」では、意次がついに御側御用人(側職最高位)に昇進します。御側御用人は二万石、城持ち大名の職位ですから、意次は相良に築城を許されました。それだけではありません。評定所では寺社奉行(大名職)の上位に処遇され、常任職では最高位となりました。側職と表職は決して同じ職域ではないはずでしたが、かつての側用人大岡忠光も若年寄を兼任し、奥向き(側職)と表の双方に重んじられました。意次は、宝暦八年に評定所の審議に加わるようになって以降、評定所と石谷率いる勘定所が、幕府の政策立案の策源地となってきました。
意次は、将軍家治に商人への課税方法として仲間組合を結成させる案を報告します。当時の課税は、年貢なら百姓個人でなく村単位で徴収するように、同業商人たちの組合に課税するというやり方です。課税に関し、幕府は個々人を対象とすることをしませんでした。村なり組合なり、その組織の自主的な運営、管理に責任を持たせるやり方です。幕僚が少人数でもやれる工夫でした。
意次は、家治から日光社参を計画せよと仰せつかり、費用捻出のための積立特別会計を設立したいと提案します。当時、幕府財政の立て直しの最中で、通常予算で日光社参に要する巨費を賄うことは無理でしたから、家治は老中から大反対されました。そこで、意次に、なんとかせよと頼み込むように日光社参を計画させるのです。日光社参は、家康廟に参詣する宗教行事に止まらず、軍事行軍演習の意味もあったのです。この大きな行事が途絶えてしまっては德川家の武威もすたると家治が危機感を持つのも一理あります。ここから、安永5年に日光社参を実施するまで、幕府上げて涙ぐましい倹約に取り組み始めます。予算という概念で幕府財政を管理することを考えた意次のやり方でした。
仙台藩の伊達重村は、贈賄の甲斐あってか、念願の中将に任じられました。意次は、松平定信の時代に言われたような収賄政治家ではなかったことを言う伏線となります。
商人への課税を進めるプロセスと予想される商人の激しい反発、また不気味な動きの伊達藩が気にかかります。「樅ノ木は残った」の原田甲斐を思い出します、伊達藩に暗いイメージを持ちすぎているようです。
効率的な村単位、組合単位での課税、なるほどと納得です。
日光東照宮参詣費用、貨幣政策、商人への課税等々、課題山積の意次の活躍に期待しています。