終章「七万坪の更地」では、意次が自信を持って大きな経済政策を打つところから始まります。幕府は全国御用金令を発布し、全国の民間から集めた資金で大名の財政立て直しを支援する政策に踏み出します。田沼時代、幕府の財政改革は成果を上げてきましたが、諸藩だって財政改革が必要なことは明らかでした。
この時代、細川重賢(熊本藩)、徳川治貞(紀州藩)、上杉鷹山治憲(米沢藩)ら、明君と呼ばれる藩主が大いに藩政改革を実行したことは有名です。その他の藩でも、苦労して取り組んでいたようです。そんなとき、まずは資金が必要です。幕府が貸すにも限度があり、民間資金と幕府資金を合わせ、幕府立の大名支援銀行を設立しようというのは、悪い筋ではないでしょう。
この計画をうまく軌道に乗せるためには、各藩の民、百姓に対する徴税権は誰にあるか、という問題に当たることになります。幕藩体制では年貢徴収権(収税権)は藩主にあって、犯すべからざる権限でした。同じように考えて、この出資も藩主の犯すべからざる権限の内だと考えるのが定信ら、反対派でした。
意次らは、この出資は年貢とは違う、幕府が出資を触れてもいい筈だと考えました。税ではなく利息とともに返済される出資金ですから、意次らの考えにも一理あると思います。意次らは、うまく”銀行”が回り始めれば、民、百姓も喜んでくれると期待していたでしょう。もっと言えば、経済政策は幕領を越えて日本全国で実施しなければ効果がでないのだから、藩主たちに全国規模の経済政策にも慣れさせようと思っていたかもしれません。結構、大きな意識改革の意図があったのかもしれません。
このあたりの考え方の齟齬にくさびを打ち込んできたのが定信でした。江戸にいる各藩を糾合し反対のうねりを造りました。折あしく、大水害が起きて印旛沼の開削工事が無に帰した頃、将軍家治がビタミンB1欠乏症(脚気)に罹り(玄米を食べていれば防げました)、衝心(心筋障害による心不全)に到って死去します。意次は推挙した医師が上様の病状を悪くさせたと噂され、家治に会うことさえできなくなって登城を控えざるをえませんでした。このあたりは、定信が、陰には治済が波状攻撃をかけるようで、私には意次が気の毒でたまりません。
定信は、筋のいい政治家だとは思えませんが、唯一つ、情報操作で政敵を攻撃することは巧みだったと思います。そういう家臣がいたのでしょうか。田沼が醜悪な収賄政治家とされる話は、多く、定信の頃以降に出回ります。田沼を悪者に仕立てた読み物の類いは、一種のブームにさえなって江戸の町を席巻しました。
幕末、幕府と各藩は大いに貧乏になりました。大きな船がなく軍事力が乏しいため、各国から圧迫をうけました。定信が田沼の経済政策を否定しなければ、こうした幕末の苦悩ははるかに小さなものになったと思います。
田沼の政策が大きく開花すれば、幕末の混乱はなかったのだと思いたくなることがたくさんあります。蝦夷地開発、大船造船、鎖国解禁、海外渡航、軍事力増強など、明治の近代化のようなことが八十年前に起こったのだと思いたくなるのは私だけではないと思います。
三月末から連載を始め、ほぼ七か月がたちました。この間、多くありませんが、熱心に読んでいただいた読者の方々に御礼申し上げます。ほんとうにありがとうございました。次作は種痘を日本に導入する苦闘をテーマにした『種痘の扉』です。この作品もどうぞよろしくお願いいたします。
恒淳
ようやく秋らしい快晴が見られました。
佐是 様、「将軍家重の深謀」完結おめでとうございます。
江戸時代中期の幕府政治の様子をうかがい知ることができました。
たしかに意次の失脚がなければ明治維新は起らず、この時代から西洋列強に伍するべく日本も徐々に平和的に進歩したかもしれないと思いました。
幕府立銀行や藩境を越えた交通網の整備などの中央集権的な政策に家柄家格、封建制度を重んじる定信派には破天荒に思えたのも致し方なかったのかもしれません、多少なりとも反対派の存在は当然なのでしょう。
家基、意知に加え、家治を失ったことは意次にとっても、また日本国にとっても悲劇だったのかもしれません。
定信派の動きを見ていて思いましたが家柄家格重視の全てが悪いのではなく、権威、権力にこだわることが欠点であり、世間の実相・庶民への理解、経験、熟練が不足していたのではないでしょうか。
以前、芸能史の本を読んで私には定信の悪印象が定着しているので、逆に寛政の改革も少しは読んでみたいと思います。
「将軍家重の深謀」では勉強させていただきました、次作「種痘の扉」も楽しみです。
因みに薩摩半島南部には集落ごとの「疱瘡踊り」、「ホソンカンサァ(疱瘡の神様)」など わずかに伝えられているようです。踊りは見たことはありませんが、ホソンカンサァの石柱には足を運びました。