第四章四節「再び芽吹かず」では、家基を亡くした家治の懊悩から始まります。あれほど家基を可愛がり、将来を嘱望した幸せが一気に暗転しました。これで家治には田安家から迎えた養女が残り、妻と二人の娘と一人の息子を亡くしたことになります。その悲しみや察するに余りあります。
その直後、家基お付きの奥医師、池原雲伯は嫡男良明の急な死に驚きます。息子の死後の整理をしていた最中、池原は息子が最近、附子を仕入れ、その在庫が無いことに気付きます。附子は鳥兜の毒、うまく使えば高い薬効がありますが、多くを服用すると死に至る劇薬です。
池原は、家基の馬が急に暴走して家基を落馬させたことも不審に思っていました。突然の馬の暴走と息子の急な死と何らかの関わりあるのではないかと一瞬疑いましたが、その恐ろしい疑念を慌てて打ち消すのでした。
従来から言われる家基暗殺説に触れてみたいと思います。まず、徳川實紀には鷹狩の帰りに寄った東海寺で、くつろいでいる最中、急に具合が悪くなったとあります。幕府の公式見解です。ここから毒殺という説が出てきます。
一方、オランダ商館長ティチングによれば、乗馬もろとも崖から落ち、血を吐いて死んだとあります。ティチングは日本の著名人と交際が広く、大名では島津重豪(薩摩藩主)や朽木昌綱(福知山藩主)、長崎奉行久世廣民、蘭通詞の吉雄幸作、蘭学者の桂川甫周と中川淳庵らが知られています。田沼意次、意知とも何らかの接触があったと推測されています。これらの交友関係から聞いた話を根拠に書かれたものと思われます。私は落馬、崖からの墜落死と書くのに躊躇した幕府の公式記録よりオランダ商館長の記述を採りました。
馬に毒を飼って暴走させるとしたら、何がいいか、生薬学の知見を頼りに、私が推理を書いたものです。
当時から、いろいろ取沙汰された事故でした。世の常で、この事故があまりに一橋家に有利に働いたので、そこに作為があったのではないか、水面下で暗躍した勢力があったのではないか、などといろいろ言われたようです。その後、十一代将軍家斉は長きにわたり、重臣を遣って家基の墓参を続け、家基生母に、死後、従三位を追贈したことが注目されました。慣例を越えた篤い供養だからです。家斉に、家基に対するやましい気持ちがあるのではないかと憶測されたのでした。
現代でも、この事件は、面白おかしく書くのが時代小説の定番となっています。奥医池原雲伯が大の毒物狂だとまで書く作品がありますが、嘘くさくて私にはついていけません。池原の家系図(寛政重脩諸家譜)を見て、嫡男良明が家基の死(安永八年二月二十一日)の直後に若くして死んだ(安永八年四月十日)という記述から、私の想像する暗殺の片鱗を書いてみました。馬医の桑嶋家の家譜も参考にしました。
トリカブト ...一瞬、治済の画策かと思いましたが、そう単純ではないようです。意致がどのような考え方をしていたのか、果たして附子の件に絡んでいたのか気にかかるところです。薬毒同源、匙加減を間違ってしまった可能性もと考えたりしました。
附子の件の動きはどうなっていくのか、また将軍後継者問題での治済、意致、意次などはどういう動きをするのでしょうか。財政問題、天変地異、飢饉などが絡み合っていくようで予想がつきません、次回以降も楽しみにしています。
桜島の安永噴火はかなり規模が大きかったらしく、150名程の死者が出たようです。月照の墓のある南洲寺(鹿児島市南林寺町)に安永噴火の「櫻島燃亡靈等」の碑があり、村落ごとに死亡者氏名が刻んであります。離島を含めた各地に桜島からの移住者も多く、同名の地名、神社も数カ所あるようです。