第四章六節「天地荒ぶる」では、天明初期の暴風雨、地震、噴火などの天災で農作物が被害を受け、大飢饉に到る経過が描かれます。天明二年、特に関西以西は暴風雨によって米不足となり、米価が上りました。大坂商人は陸奥の大名に米を大坂に送るよう迫り、陸奥の大名は借金している弱みで米を大坂に送りました。当然、陸奥の各藩の米在庫は減りました。
明けて天明三年になると七月に浅間山の大噴火が起き、噴煙は遠く陸奥の各地で日照を極端に減らしました。稲はほとんど収穫できませんでした。もともと米の在庫薄の許で稲作の被害は大飢饉へとつながっていきました。天明の大飢饉は天災だけでなく人災の側面も見逃せません。
こうして幕府が被害対策に追われる中、勘定奉行松本秀持が意次にオランダ式外航帆船の造船技術を学んだらどうかと提案し承認を得ます。松本は意次の目指すところをはっきり心得、提案に及んだのでした。田沼政権は、百年以上も続いた鎖国を改め、海外貿易に乗り出す意図があったとオランダ商館長ティチングが手記に書いているのです(『田沼時代』辻善之助 288頁 岩波文庫1991、「田沼時代とイザーク・ティチング」日本歴史 1980 1月号 101頁 沼田次郎、『ティチング 日本風俗図誌』沼田次郎訳 266頁 雄松堂出版 1996)。この計画が日本側の文献には見いだせないのは、意次失脚後、排除されてしまったか、何らかの理由があるのでしょう。むしろオランダ商館長の記録に見いだせるのです。幕末には開国か鎖国かで大問題になりましたが、その70年も前に、開国構想を抱いたのが意次でした。国を富ますには商業、流通しかないと見切ったのは慧眼というべきです。天明期に開国されていれば、幕末の動乱の様子はよほど異なったものになったでしょう。この開国路線は政権の次の一歩と言ってよいと思います。
大目付になった大屋明薫を読者の皆様は覚えておいでだと思います。意次、石谷、川井の三人でミツマタの料亭に行ったおり、意次が栄転させると言った人物です。もともと、田安家の家老でした。大屋にとって、白河藩主松平定信は旧主筋にあたり、時節の挨拶を欠かしませんでした。松平定信との会話で、定信がすっかり田沼嫌いになったことを知ります。治済が企んだように、定信の腹の中に”田沼嫌いの虫”が育っていました。大屋と定信との交わりから天明期の大きな事件が起きてきます。ここでは、その序に当たる部分です。
蓼科・八子ヶ峰より雲のかかる不安な景色
佐是様、毎回勉強させていただいております。
いよいよ、定信の謀略が始まりそうで不安が昂じていきます。
定信は飢饉の状況だからこそ貴穀賤金への懐古は捨て、経済重視の考えに変え、万民の幸福を目指すべきだったのではないでしょうか。
田沼時代に鎖国見直しの動きのあったことは初めて知りました、なるほど先見の明があったのだと思いました。
降灰被害の苛酷さについてですが、大隅の親戚に親の代に荒地を譲り受け数メートルの降灰を取り除いて畑を拓き、再出発をしたという話を聞いたことがあります。また、えびの市、小林市、都城市付近では火山鎮静の願いからか霧島の方向を向いている田の神様が多いようです。
定信の動きを気にしつつ、次回以降も楽しみに読んでいきたいと思います。