第四章五節「天守聳ゆ」では、十年余の年月をかけた相良城が竣工し、意次が見分のため国元に入る場面から始まります。相良の町は現在、牧之原市の駿河湾沿いにあって御前崎北方十キロの地点です。お城の跡地には立派な史料館と相良小・中・高校が建っています。昨年十月、遊びに行ったおり、牧之原史料館の方がわざわざ町なかの史跡を案内してくださいました。御親切が忘れられません。丁寧に歩くと当時の御濠の跡がわかります。仙台堀跡もしっかり残っています。
意次が江戸に帰還した直後、関東一円が豪雨に見舞われます。ひどい水害に遭った印旛沼では水害防止のため掘割掘削計画が名主から上がってきます。印旛沼は利根川とつながるために大雨が降ると利根川の水が逆流して水が溢れます。そこで、検見川の辺りまで堀切を作って水を江戸湾に吐けばいいと考えたのです。こうすると、銚子から利根川を遡り印旛沼に入って、堀切を通り江戸湾につながる水路ができます。意次はこれを船運用の運河にするつもりで取り組みます。印旛沼周辺に新田ができますが、真の狙いは船運用運河の掘削です。流通に取り組む政権らしい事業です。
数年前に印旛沼を見に行きました。いまでは干拓が進み、往時の沼がすっかり小さくなりましたが、それでも広々とした景観は素晴らしいものがあります。沼と利根川をつなぐ長門川は利根川に流れ出ていました。立ち寄った印旛沼環境基金の方に聞くと、通常は利根川に流れ出るが、逆流し沼に流入することもあるとのこと。古代では香取海(古鬼怒湾)の一部で、同じ海面であったというのです。印旛沼環境基金の方から江戸時代の印旛沼工事の論文をコピーしていただき大変、御親切にしていただきました。
家基急逝から二年がたち、ついに家斉九歳が将軍世子となります。父親の治済は有頂天です。意次の嫡男意知が奏者番に抜擢され田沼家は隆盛です。意知は優秀な男で、家治からも嘱望されていました。経済政策を進めていく次代の担い手に目されていました。63歳となった意次の威権は高まり政権は盤石です。意次は印旛沼の事業を始めとし、さらに経済政策を進める意欲にあふれています。
相良の平田寺。田沼家の菩提寺
佐是さま、毎回楽しみにしております。
経済官僚の目があるからこそ印旛沼掘割工事案を防災、新田開発のみでなく流通路整備の観点から考えることができたのではないかと思いました。
今の時点では、不幸な家基の死があったにせよ田沼家に限って見れば順調に繁栄するように思えますが、定信が周囲からの妬みの急先鋒に立っていくのでしょうか?
次回以降、定信の動きに要注意です。
「大廻し」の部分では、この時代の海運の困難さが思われ、はるか南海の島へ漂着した長平が主人公の吉村昭「漂流」と重なりました。
印旛沼、長門川、利根川、鹿島川等を地図で見るとなるほど水害多発地帯だったように想像できました。縄文海進時代の香取海の話ですが、こちらでもとんでもない高い場所に貝塚があったりして当時の海の広さを再認識させられることもあります。
終章まで残り少なくなり、寂しいような気がしますが次回以降も期待しています。