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執筆者の写真佐是 恒淳

『将軍家重の深謀-意次伝』第四章五節

更新日:2022年9月20日

 第四章五節「天守聳ゆ」では、十年余の年月をかけた相良城が竣工し、意次が見分のため国元に入る場面から始まります。相良の町は現在、牧之原市の駿河湾沿いにあって御前崎北方十キロの地点です。お城の跡地には立派な史料館と相良小・中・高校が建っています。昨年十月、遊びに行ったおり、牧之原史料館の方がわざわざ町なかの史跡を案内してくださいました。御親切が忘れられません。丁寧に歩くと当時の御濠の跡がわかります。仙台堀跡もしっかり残っています。


 意次が江戸に帰還した直後、関東一円が豪雨に見舞われます。ひどい水害に遭った印旛沼では水害防止のため掘割掘削計画が名主から上がってきます。印旛沼は利根川とつながるために大雨が降ると利根川の水が逆流して水が溢れます。そこで、検見川の辺りまで堀切を作って水を江戸湾に吐けばいいと考えたのです。こうすると、銚子から利根川を遡り印旛沼に入って、堀切を通り江戸湾につながる水路ができます。意次はこれを船運用の運河にするつもりで取り組みます。印旛沼周辺に新田ができますが、真の狙いは船運用運河の掘削です。流通に取り組む政権らしい事業です。


 数年前に印旛沼を見に行きました。いまでは干拓が進み、往時の沼がすっかり小さくなりましたが、それでも広々とした景観は素晴らしいものがあります。沼と利根川をつなぐ長門川は利根川に流れ出ていました。立ち寄った印旛沼環境基金の方に聞くと、通常は利根川に流れ出るが、逆流し沼に流入することもあるとのこと。古代では香取海(古鬼怒湾)の一部で、同じ海面であったというのです。印旛沼環境基金の方から江戸時代の印旛沼工事の論文をコピーしていただき大変、御親切にしていただきました。


 家基急逝から二年がたち、ついに家斉九歳が将軍世子となります。父親の治済は有頂天です。意次の嫡男意知が奏者番に抜擢され田沼家は隆盛です。意知は優秀な男で、家治からも嘱望されていました。経済政策を進めていく次代の担い手に目されていました。63歳となった意次の威権は高まり政権は盤石です。意次は印旛沼の事業を始めとし、さらに経済政策を進める意欲にあふれています。























相良の平田寺。田沼家の菩提寺

閲覧数:13回2件のコメント

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2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Sep 20, 2022

佐是さま、毎回楽しみにしております。


経済官僚の目があるからこそ印旛沼掘割工事案を防災、新田開発のみでなく流通路整備の観点から考えることができたのではないかと思いました。

今の時点では、不幸な家基の死があったにせよ田沼家に限って見れば順調に繁栄するように思えますが、定信が周囲からの妬みの急先鋒に立っていくのでしょうか?

次回以降、定信の動きに要注意です。


「大廻し」の部分では、この時代の海運の困難さが思われ、はるか南海の島へ漂着した長平が主人公の吉村昭「漂流」と重なりました。

印旛沼、長門川、利根川、鹿島川等を地図で見るとなるほど水害多発地帯だったように想像できました。縄文海進時代の香取海の話ですが、こちらでもとんでもない高い場所に貝塚があったりして当時の海の広さを再認識させられることもあります。


終章まで残り少なくなり、寂しいような気がしますが次回以降も期待しています。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Sep 21, 2022
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北薗さま、

 嬉しいご指摘をいただき感謝で一杯です。

 意次が印旛沼の事業を新田、防災だけでなく流通水路として考えていたと推測できるのは、当初、堀幅八間との計画を意次が二十間に拡張せよと指示したためです。水を落とすだけなら八間で十分という主張があっても、敢えて拡幅させたのは、舟がすれ違える幅を取ったためだと考えられます。その代わり深さを浅くし工事負担を軽減したようです。吃水の浅い高瀬舟なら浅い水路でも運航できるからです。


 寛政の改革を担った名老中と評価されることが多い定信ですが、よく調べてみると、本当にいい政治だったかのかと私は疑問に思います。天明の飢饉でも領内に一人の餓死者を出さなかった名藩主だとされますが、それは裏のからくりがあってのことで、小説にも触れる予定です。定信の寛政の改革は6年間の短命で終わってしまいます。意次(そして家重)が経済政策を打ち出した宝暦九年(石谷の勘定奉行就任、評定所拡充)から意次失脚の天明六年に到る経済積極時代の28年間と比べてわずかの期間です。定信が過大に評価され、意次が不当に低く(それ以上に悪だとも)評価される風潮は、意次失脚後の定信一派の政治宣伝のせいだと思われます。あることないこと、田沼を悪く言うだけで持て囃される時代が続きました。現在の風潮にある面で似ています。

 幕末の名勘定奉行、川路聖謨が老中水野忠邦に「田沼という人は実に豪傑である」と語ったという天保時代の記録があります。見る人が見れば、果断な政治家だと評価がくだせる人物です。

 定信がどのような心情の人だったか、今後、簡潔にふれていきます。定信の動きにご注目ください。


 縄文海進期の千葉、茨城の辺りの香取海は、縄文期の素晴らしい海上交通が行われていたと思います。それが江戸時代、印旛沼となり、犬吠埼に河口をもつ利根川となりました。おおきな地形、水勢が変化した推移を想像するとわくわくする気がいたします。今も、水郷と呼ばれる地域です。埼玉県でも大宮のあたり(随分内陸です)に貝塚が出ると聞きました。現在の大宮台地は当時の大宮半島だったそうです。


 犬吠埼の名前の由来は、義経の愛犬が別れを惜しみ吠え続けたとか、アシカの吠え声が犬の吠えに似ていたとか、諸説あると聞きました。私は、親潮と黒潮が岬の沖合でぶつかる音がゴウゴウと犬の吠え声に聞こえるためだと一人決めしています。特に冬、大陸から吹き下ろす北風と相俟って、難所を形作った岬のイメージにぴったりすると一人、悦に入って妄想しています。天と海が吠えるのです。

 小説ではさらりと流しましたが、房総半島の南端を北に回り込むことができない船でも、下田には行けるという論文の記載が、実は、私にはよくわかりません。房総半島を遠く離れれば黒潮の中を突きって下田に行けるのでしょうか。


 長平は鳥島(伊豆諸島)に、大黒屋光太夫はアムチトカ島(アリューシャン列島)に漂着しました。両者、随分と異なる島に持っていかれたのは、何が原因なのでしょうか。風、潮流、天候などが複雑に関わったためなのでしょうか。

 日本の船は幕府の禁令によって、一本柱の帆船しか作れず、自ずと方向をとるため舵が重要になり、舵が長大化しました。舵は引き上げることもできたようですが、大きい分、大波に壊されることが多く、舵が壊れた一本柱の船では方向がままならないという事情もあったようです。帆柱も折れてしまった船では全くの潮任せです。日本の船の海難が多かったのは、幕府の禁令のためでもあったようです。田沼派の積極経済主義者から見れば西洋帆船は、喉から手がでるほどにほしかったのではないでしょうか。そんな話が、後に出てきます。


 今後も、ご愛読のほど、宜しくお願いします。

                                恒淳


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