家基は立派に成長し、十七歳にして月代を剃って凛々しい若者となりました。目出度い儀式のかたわら、御殿には大島三原山の噴火音が遠くから小さく聞こえていました。安永は桜島を始め火山が活発化した時期で、次の天明につながります。
家基は鷹狩りで心身を鍛え逞しく日々を送ります。父家治と親しみ、心の通った父子の温かい会食を楽しむ様子が印象的です。目黒の爺々が茶屋は当時から有名で、小説の一コマに入れてみました。落語「目黒のさんま」の元となった逸話が残ります。
徳川實紀を読むと、家治は実に頻繁に鷹狩りに出かけています。それは自分が楽しむ遊びとは思われません。民の暮らしを知り民治を窺うだけでなく、番方(軍事)家臣の活躍場所を与え、褒賞によって忠誠心を保つ一つの政治だと思うのです。当然、次の将軍となる家基も心掛けなければならないことでした。
江戸周辺には多くの猟場がありました。德川實紀をみると良くわかります。その一つ、小松川の畔の猟場の様子を安藤広重の「名所江戸百景」、齋藤幸雄の「江戸名所図会」などを参照して私なりに描いてみました。江戸の昔を追想した楽しい時間でした。
家基は新井宿での鷹狩りの最中、自分の馬の落ち着かない様子に気付きました。そのまま疾駆させた馬が突然、棒立ちとなって家基は手ひどく落馬します。
家基が落馬したと書いた根拠は、幕末に再来日したシーボルトの著作「シーボルト日本交通貿易史/呉秀三訳」(国会図書館デジタルコレクション)の記載(P198)です。また、オランダ商館長ティチングの書いた『日本風俗図誌』(1822、沼田次郎訳/雄松堂)には、狩の途中で乗馬もろとも崖より落ちて、血を吐いたとあります。
一方、德川實紀には、簡単にこう書かれています。
廿一日 大納言殿、新井宿のほとりに鷹狩し給ひ、東海寺にいこはせらる。俄に御不 予の御けしきにていそぎ還らせ給ふ。 一言も落馬とは書かれていません。将軍継嗣が落馬したと書くには憚りがあったのでしょう。私は、シーボルトやティチングの落馬説をとりました。落馬は単に、馬がたまたま勢い立ったためなのか、何か人為が働いたのか、後に話が展開します。
霧ヶ峰の鹿
北薗さま、
面白いお話を伺いました。弘治年間のことがあるということは、おそらく、もっと古く鎌倉時代(あるいはそれ以前)から牧があったのだと想像します。馬が生産されれば国は経済的に軍事的に強くなります。島津氏の強さの基盤の一つが馬だったのですね。ありがとうございました。 恒淳
喜入牧の苙跡の説明板です。
ご参考までに。
全て順調な中での落馬 .....急転直下、暗雲漂うというところでしょうか。
以降の意次、定信、治済の動きに注目していきます。
小松菜の由来、初めて知りました。地名の由来にも興味を持っており、昔からの地名は極力残すべきだと思っています。
薩摩藩は馬の放牧が盛んだったと聞いています。多数の藩直轄の牧があったようで、島津氏が放牧していたアラビア馬の銅像が建てられていたり、苙の跡地を保存している場所もあります。日置市に“苙岡”という字名もあり、牧神様を祀っているところも多く、知覧にも牧入口の門柱が残っていたりします。農業に向いていないシラス台地が多い影響かもしれません?