第四章二節「士の心を観る」では、相良城築城の進捗報告の場面から始まります。意次が築城のお許しを賜って十年、普請の現状が家臣から意次に報告されます。かつては本多忠央の一万石の領地だったところに、忠央の改易後、陣屋でない堂々たる天守を具えた城が築かれていきます。幕府の要職を勤める意次は国許に帰る機会もないまま、家臣に築城の全てを任さざるをえませんでした。それでいて、相良は民政の行き届いた藩で、商品作物の生産も盛んになって特産品もいくつもありました。よき統治がなされていました。
相良城の直下に仙台堀があり、今も一部残っています。仙台藩から石材を寄進されて築かれた堀です。仙台藩主が官位を進めてたくて積極的な猟官運動を展開したことがありました(第二章八節)。仙台藩は、一度は意次にも金品を贈ったのですが、意次が、手紙で要件が済むから、もうこないでもよい、と書いた書状が現存しています。一方、時の老中首座は、今度来る折には目立たぬよう裏口に回るようにと指示をだし、大奥女中は屋敷一軒建ててもらうなどの贈与を得ました。後年、さんざん収賄したと言われる意次ですが、史料で追うとこうした実態が浮かび上がります。賄賂なら、公然、仙台堀と名付けるはずがないと思います。
ついで、礼射の大的式を家基が謁見する場面に替わります。小笠原流の礼射は鎌倉、室町時代を通じて行われてきました。戦国時代に途切れたのを吉宗が復活させたもので、家治にとって祖父の遺産のようなものです。貴穀賤金の道徳律を捨て去ろうとするなか、家治は士の精神性をどこに求めたらよいか、考えたに違いありません。『徳川實紀』を見ると、家治が武芸を重視したことがわかります。鷹狩り、礼射、騎射、遠乗りなど武芸に関わる行事を頻繁に行っています。そのあと数日後に必ず、鮮やかな技を見せた番方の家臣に褒美の品を賜っています、遊びではありません。番方の家臣の名誉を発揮させる場を意図して造っていると読みました。
これを書いたころ、一年遅れで東京オリンピックが未完客で開催されていました。日本の選手は、勝って驕らず負けて挫けず、堂々たる気品ある態度を維持したのが印象的でした。日本人のこういう精神はどこからきたのかと想像を馳せたのがきっかけで、家基の武芸精神に関する発言を書きました。
昔、日本人は競技敗者を気遣い、勝ってガッツポーズなどしなかった。横綱が勝って拳を上げて勝を誇るなどはあってはならないことでした。そうした精神は少しづつ変容していますが、勝って平然としているのも世界からは奇異に見えるので、グローバルなスポーツでは勝利のガッツポーズもいいでしょう。相撲ではいけませんが……。そんな精神性は家治の頃に形成されたのではないかと想像しました。
武士の精神性を重んずる家治、家基に比べ、治済の考えは全く別次元です。定信は多くの著作で、意次への恨みを書いています。殿中で刺し殺そうと考えたこともあったが、止めたとさえ書きました。なぜ意次に恨みを含んだのか、どんな不利益を意次から蒙ったか、公正に見て納得いくものではありません。誰かに吹込まれたと見えるのです。その種がまかれた場面を書いてみました。
山梨県瑞牆山
読み進んでいるうちに、田安・一橋 両家のいがみ合いに発展しそうな気配を感じましたが、さにあらず、恐るべし治済の権謀術数。これからの意次、家基に暗雲が漂ってきたように感じました。
日光社参、古式礼射などを通じての武士の心構えの引き締めは、確かに現在の日本人の考え方にも受け継がれていると思います。何年前でしたか、島津家別邸仙厳園で行われた小笠原流流鏑馬を見学に行きましたが、「陰陽射」の矢声に身の引き締まる思いをしたことが忘れられません。