第四章七節「辰年、みたび巡る」では、天明の大飢饉の話から始まります。天明三年三月に岩木山が噴火、七月に浅間山が噴火、大量の灰で日照が遮られ、東北地方は稲の収穫がほとんどありませんでした。前年には西日本で米不足が起こって東北諸藩は大坂に米を廻送し、高い米相場でうまい目を見ました。それが仇となってこの年は大飢饉を拡大してしまうのです。三年には西日本の米不足は解消され東北に送る余裕があったのですが、海運で運べる時期を逸して、送り届けることができなかったことも不運でした。
被害は目を覆わんばかり、餓死者は、弘前藩で8万人、盛岡藩で7.5万人、八戸藩で3万人などの説があります。その中で一人、松平定信の白河藩では餓死者ゼロと言われています。その理由は小説に書いた通り、必ずしも立派と言えない手法でもたらした”成果”でした。
松平定信は幕府の命令を無視し、家臣を上方に派遣して米6950俵を買い占めさせ、また
會津藩主松平容頌に懇請して米一万俵を白河に取寄せている。これは明らかに幕法違反
であって、この時白河藩が凶作地帯にありながら餓死者をださなかったのは他藩の農民
の犠牲の上に成り立ったことなのである(『将軍と側用人の政治P207』大石慎三郎)
あとで、これが定信の素晴らしい政治手腕だと喧伝されるのですから、なんとも皮肉な話でした。
天明の大飢饉に際して発出された米買占めの禁令を松平定信が公然と犯し、一橋治済がそれを庇うのを大屋は目撃します。治済が庇ったという辺りは、史料に基いた話でなく私の創作です。治済は、定信に利用価値を感じているので、定信の幕法違反を咎めようとする大目付を牽制して庇ってやることくらい、やっても不思議はないと考えました。
田沼意知の暗殺者、佐野善左衛門政言の背景には黒幕がいただろうと誰しも思います。当時から、噂は絶えませんでした。この種の事件の黒幕はわかるはずはなく、書き手の創作に委ねられていると思います。私は、この事件の審議に当たった大目付大屋明薫、町奉行曲渕景漸、目付山川貞幹のうち、松平定信と佐野善左衛門と両方に何らかの接点がある人物に注目しました。刃傷の翌々日(3/26)田沼意知が出血死で死ぬと、即刻、佐野に切腹を申し付け、徳川實紀など公文書に佐野の乱心が原因と記載し、書類上、黒幕の存在を完全に否定して幕を引いた人物だからです。
大屋と定信の関係はかつての田安家の家老と若様、大屋と佐野の接点は都賀郡に領地を所有する隣領主という点です。そこで、定信から、田沼のあとの幕府の姿形を考えよ、と言われて悩んでいるところに佐野の訪問があって、毒を含んだほのめかしを与え暗殺を指嗾したという筋立てにしました。どこにも明示的な指示があったわけでなく、しかし、その意図をはっきり忖度したという構図です。佐野の寛政重脩諸家譜(14巻29頁)を見ると、善左衛門が姉九人の末っ子で只一人の男児であることを知って、その性格を想像しました。大屋と佐野の接点を見つけ出した時は、嬉しかったことを思い出します。
宝暦10年(1760)の辰年、京都から勅使を迎え将軍家重が内大臣に昇進したその夜、江戸は大火に見舞われ、家重は衝撃を受けて辞任しました。明和9年(1772)の辰年、目黒行人坂から発した火によって江戸は大火に見舞われました。そして、天明4年(1784)の辰年、意知が凶刃に斃れました。家基亡く、今、意知が逝き、家治と意次の改革構想に影が差し始めます。
恒淳
佐是様、毎回楽しみにしております。
佐野善左衛門の動きを追っていると、2・26事件の陸軍青年将校の考え方や行動を思い出してしまいました。「役方」「番方」という単語は初めて知りました。国にも企業組織にも通じるかもしれませんが、国の軍事力、企業の営業部門、所謂「権力」が集中しやすい部門は国政・企業の方向性決定部門からはある程度の距離を置いていなければならないと思っています(企業統治については様々な考え方があるでしょうが)、私見です。文民統制の考え方が定着している今の日本の国民は幸福だと思います。
天明の飢饉の白河藩の禁令破りとその揉み消し策でいよいよ定信、治済の暗躍が本格化してきたように思います。しかし、定信が禁令破りとは、上杉鷹山に弟子入りでもすべきでしょう。
次回以降も楽しんで勉強したいと思います。